家に帰ると知らない女が俺のベッドで寝ていた。彼女は存在しない。
家に帰ると、知らない女が俺のベッドで寝ていた。
相原朔は、寝室の入り口に立ったまま鍵を確認した。
銀色の小さな鍵には、管理会社の青いタグがついている。住所も合っている。そもそも、この家に住み始めてもう三週間になる。間違いない。
もう一度、部屋を見る。
南向きの窓。壁際に並ぶ本棚と箪笥。窓辺には古い木製の机があり、その横には昨夜、朔が脱ぎ捨てたパーカーが落ちている。
そして、そのあいだに置かれたベッドでは、白いブラウスに薄茶色のカーディガンを重ねた女が、我が物顔で昼寝をしていた。
「……あの」
朔が呼びかけると、女のまぶたが開いた。
寝ぼけた目が朔を捉える。数秒の沈黙のあと、女は勢いよく上体を起こした。
「誰?」
「それはこっちの台詞なんですけど」
女は壁際へ身を寄せ、枕を抱えた。
「どうやって入ったの」
「鍵で」
「鍵?」
「管理会社からもらった」
「管理会社と共犯なの?」
「話を大きくするな」
朔は肩にかけていた鞄を下ろした。
警察を呼ぶべきか、管理会社を先に問い詰めるべきか。どちらにせよ、面倒なことになった。
玄関の鍵は閉まっていた。窓が割られた形跡もない。この家の鍵を渡した相手などいないし、そもそも、ベッドで待っていてくれるような女性に心当たりがない。
「とにかく、そこから下りてください。俺のベッドなんで」
「私のベッドだけど」
「俺が三週間使ってるベッドです」
「知らない。前からある」
「備え付けなのは知ってます。でも、今使ってるのは俺です」
「勝手に使っておいて偉そうに言わないで」
「誰の許可を取ればよかったんだよ」
女は足元を見た。
つられて朔も見る。
彼女の膝から下は、ベッドの端を通り抜けていた。
白い足が、マットレスへ半分ほど沈んでいる。
女はそれをしばらく眺め、慎重に顔を上げた。
「このベッド、不良品じゃない?」
「どういう不良だよ」
朔は鞄からスマートフォンを取り出した。
警察より先に救急車かもしれない。いや、足がベッドを突き抜ける症状を救急隊へどう説明すればいい。
女もベッドから飛び下りた。
正確には、下りようとした。
両足は床へ音もなく着いた。築年数相応によく軋む床なのに、板一枚鳴らない。
彼女は窓辺の机へ手をつき、そのまま指をすり抜けさせた。
「あれ?」
もう一度。
今度は両手でつかもうとする。それでも机は動かず、彼女の腕だけが天板を通過する。
女の表情から、朔を警戒していた強さが消えていった。
「ねえ」
「何ですか」
「これ、どういうこと?」
「俺に聞くな」
◇
女は雨宮澪と名乗った。
二十歳。大学二年生。この家の住人。
最後の一点以外は、朔にとって確認のしようがない。
「契約者は相原さんだけですね」
電話口の管理会社はそう答えた。
以前の住人については個人情報だから教えられないらしい。室内に知らない女がいると伝えると、警察への相談を勧められた。
もっとも、物に触れられず、壁を通り抜ける女を警察へ引き渡せるとも思えなかった。
「何て?」
電話を切るなり澪が聞いた。
「お前は住んでないって」
「嘘」
「向こうが嘘をつく理由がない」
「あるでしょ。管理がずさんだったのを隠したいとか」
「じゃあ契約書を見せろ」
「今すぐ出せって言われても困る」
「身分証は」
「初対面の女に身分証を要求する?」
「初対面の男のベッドで寝てた女に言われたくない」
澪は唇を引き結んだ。
窓際へ歩き、開いていない窓から外を眺める。ガラスには朔の姿だけが映り、その横に立つ澪はどこにもいない。
朔はスマートフォンのカメラを向けた。
画面に映るのは壁と窓だけだ。澪が立っている部分には、細かなノイズが走っている。
「勝手に撮らないで」
「映ってない」
「余計に失礼」
「幽霊にも肖像権ってあるのか」
「誰が幽霊よ」
「ほかに何なんだよ」
「体調不良」
「物理法則まで崩す体調不良があるか」
澪は答えず、玄関へ向かった。
「分かった。今日は帰る」
「ここに住んでるんじゃなかったのか」
「実家。母に相談する」
澪は玄関の扉へ手を伸ばした。
指が扉を通り抜ける。
彼女は忌々しそうに手を引くと、そのまま木製の扉へ身体を押し込んだ。
一歩。
二歩目を踏み出した瞬間、彼女の姿が消えた。
次の瞬間、澪はリビングの中央に立っていた。
本人だけが状況を理解できず、何度か瞬きをする。
「今、私……」
もう一度、玄関へ向かう。
扉を通り、一歩。二歩目で消えて、リビングへ戻る。
三度目は走ってみたが、結果は同じだった。
澪は玄関の前へ座り込み、膝を抱えた。
朔はしばらく待った。
「……大丈夫か」
「大丈夫に見える?」
「見えない」
「じゃあ聞かないで」
言い方はきつかったが、声には最初の勢いがなかった。
朔は台所へ行き、電気ケトルに水を入れた。
「何してるの」
「コーヒーを飲む」
「この状況で?」
「大学から帰ってきたところなんだよ」
「家に知らない女がいても、コーヒーを優先する?」
「警察を呼ぶか、救急車を呼ぶか、寺へ電話するか考えるために必要なんだ」
澪が顔を上げた。
「追い出す気?」
「俺が借りてる家だからな」
「私も住んでるのに?」
「見えないふりをする」
「私、話しかけるけど」
「聞こえないふりをする」
「お風呂にも入ってくるかも」
朔はコーヒーの袋を開ける手を止めた。
澪の口元に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「聞こえないふり、できる?」
「生活上の規則を決めよう」
◇
規則は紙に書き出された。
一、風呂と着替えは見ない。
二、寝ている人間をのぞき込まない。
三、大声を出さない。
四、勝手に私物を見ない。
五、ベッドの使用権は朔にある。
ここまで書いたところで、澪が異議を唱えた。
「五番には同意してない」
「家賃を払ってる」
「最初からこの家にあるベッドでしょ」
「今使ってるのは俺だ」
「私も使ってた」
「六番。家賃を払わない者に決定権はない」
「だったら七番。家具の配置を勝手に変えない」
「備え付けでも、使うのは俺だぞ」
「その机は窓際に置くものなの」
「どうして知ってる」
「前からそうだったから」
澪が指したのは、リビングの窓際だった。
朔が入居したとき、そこには古い机が置かれていた。日差しが画面へ反射するため、昨日、寝室へ動かしたばかりだ。
「リビングに置くと使いにくい」
「でも、そこが机の場所」
「俺が決める」
「この箪笥も、もっと右。椅子は窓側。ローテーブルは縦」
「細かいな」
「元に戻してるだけ」
澪は部屋の中を見回した。
壁際の本棚。台所の食器棚。窓辺の小さな観葉植物。朔が入居したときからあった家具を、彼女は当然のように知っている。
「どの食器がどこにある?」
「上の棚の右に白いマグカップ。下の引き出しには、持ち手が焦げたフライパン」
朔が確認すると、両方あった。
白いマグカップは使っていない。フライパンも、状態が悪いため奥へ押し込んでいる。
「本当に、ここに住んでたのか」
「最初から言ってるでしょ」
澪は寝室へ移した机の前に立った。
「戻して」
「俺の机だ」
「家の机でしょ」
「机だけ元の住人についていく契約じゃない」
「ついてきてない。ここにあるの」
「誰がうまいことを言えと」
澪は机の前から動かない。
「どけ」
「嫌」
「机ごと動かすぞ」
「やってみれば」
朔は一度手を止め、それから容赦なく机を押した。
天板が澪の腰を通過する。
彼女の身体はその場所へ残されるはずだったが、澪は通り抜けられる寸前に慌てて横へ避けた。
「最低!」
「自分でやってみろって言っただろ」
「本当にやる人がある?」
「言葉には責任を持て」
朔は窓際まで机を押した。
澪は反論しなかった。机の前に立ち、天板へ触れようとする。
指は木目の向こうへ沈んだ。
怒鳴られるより、その沈黙のほうが居心地が悪かった。
「……コンセント、こっちのほうが近いな」
「さっき使いにくいって言ってた」
「実際に置いてみないと分からないこともある」
「ふうん」
「何だよ」
「別に」
澪は机と壁の隙間へ腰を下ろした。
それから、そこが彼女の定位置になった。
◇
澪との生活は、幽霊との同居という言葉から想像するほど恐ろしくなかった。
むしろ、うるさかった。
「朔。牛乳、あと一口しかない」
「分かってる」
「一口だけ残して冷蔵庫へ戻す意味は?」
「空箱を捨てる手間を将来の俺に預けた」
「将来の朔がかわいそう」
「俺もそう思う」
「他人事みたいに言わないで」
朔が靴下を洗濯かごへ投げる。縁に当たり、床へ落ちた。
「外れた」
「見れば分かる」
「拾わないの?」
「あとで」
「その『あとで』が来たところ、見たことない」
「まだ一週間しか一緒にいないだろ」
「一週間で信用を失うには十分だったね」
家事をするのは朔だけだ。
澪は物に触れられない。掃除も料理も洗濯もできず、そのくせ汚れや賞味期限には誰より早く気づいた。
大学から帰れば、その日の講義について聞かれた。
澪は外へ出られない。窓から見える範囲と、朔が持ち帰る話だけが、彼女にとっての外の世界だった。
「今日、何かあった?」
「別に」
「じゃあ、学食の新メニューは?」
「何で知ってる」
「昨日、売店でもらったチラシを机に置いてた」
「勝手に見るなって規則に書いただろ」
「見えるところに置くのが悪い」
「強盗みたいな論理だな」
文句を言いながら、朔は期間限定の麻婆丼が辛すぎたことを話した。
澪は食べられない。それでも味を細かく聞きたがった。
辛さはどうだった。山椒は入っていたか。豆腐は熱かったか。もう一度食べたいか。
朔が「普通」と答えるたび、澪は説明が下手だと怒った。
気づけば朔は、大学であったことを、帰宅して話せる形で覚えるようになっていた。
◇
「それ、病院より先に霊媒師じゃないか?」
大学の同級生である森川に相談したところ、返ってきたのは意外に現実的な意見だった。
「大学生が霊媒師を勧めてくるとは思わなかった」
「大学生だからだよ。病院は親の保険証に履歴が残るかもしれないだろ。霊媒師なら現金で済む」
「その現実感を別のところで発揮しろ」
週末、森川が家へやって来た。
澪は窓際に立ち、落ち着かなそうに髪へ触れている。本人には触れているつもりでも、指は髪をわずかに通り抜けていた。
「本当にいるのか?」
森川がリビングを見回す。
「今、お前の右隣」
「怖い話みたいに紹介しないで」
「怖い話扱いするなって」
「いちいち中継するの、恥ずかしいんだけど」
「中継もするなって」
「お前、会話が忙しいな」
森川は澪の立つ位置へ顔を向けたが、視線はまったく合わなかった。
澪が手を振る。森川は反応しない。
分かっていたことなのに、澪はそっと手を下ろした。
「でもさ」
森川はローテーブルの前へ座った。
「何で引っ越さないんだ?」
「そんな簡単に言うなよ。敷金も礼金も払ったんだぞ」
「命と敷金、どっちが大事だよ」
「別に襲ってこないし。この家、大学まで徒歩十二分だし」
「南向きで日当たりもいい」
澪が続けた。
「南向きだし」
「風呂とトイレも別」
「風呂とトイレも別だ」
「収納も十分」
「収納も広い」
「台所も広い」
「台所も広い」
「二人でも住めるくらい」
朔は口を閉じた。
森川が眉を寄せる。
「その幽霊と内見したの?」
「違う」
「でも女性なんだろ。見た目は?」
朔は澪を見た。
澪も朔を見る。きちんと答えろという圧を感じた。
「普通」
「は?」
澪の眉がつり上がった。
「普通って、どのくらい?」
「今、普通に怒ってる」
「美人かどうか聞いたんだけど」
「誰が普通よ」
「面倒なことになったから、この話は終わりだ」
「逃げないで」
森川には澪の声が聞こえない。
それでも朔の返答だけで大体の状況を察したらしく、口元を緩めた。
「まあ、仲良くやってるみたいで安心した」
「どこをどう見たらそうなる」
「帰ってきても一人じゃないし」
澪が小さく言った。
朔には聞こえた。
森川には聞こえていない。
朔は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、森川へ押しつけた。
「住んでみると、悪くないだけだ」
◇
森川が紹介した霊媒師は、紫色のシャツに白いジャケットを羽織っていた。
首から大ぶりの数珠を下げ、片手には黒いタブレットを持っている。
「それで、除霊をご希望ということで」
「まだ決めてません。まず見てもらうだけで」
「霊視基本料金がこちら。対話を試みる場合は追加。霊障の除去は別プランになります」
画面には料金表が表示されていた。
「幽霊相手にも課金制なんだ」
澪が朔の隣からのぞき込む。
「塩や護符などの消耗品もございますので」
「ソシャゲみたいに言うな」
「何か?」
「いえ」
霊媒師は部屋の中央に立ち、目を閉じた。
澪はそのすぐ横で、同じように目を閉じてみる。
数秒後、霊媒師は押し入れへ向き直った。
「ここです」
「違う」
澪が即答した。
「強い気配があります」
「季節ものの布団しか入ってません」
「布団にも念は残ります」
「帰ってもらおう」
「まだ始まったばかりだ」
「もう結果出てるでしょ」
霊媒師は小袋から塩を取り出し、押し入れの前へ勢いよくまいた。
白い粒が床板を跳ねる。
澪が顔をしかめた。
「掃除するの、朔なんだけど」
「成仏させられる心配は?」
「この人に?」
朔は霊媒師を帰らせる理由を考え始めた。
そのとき、霊媒師が動きを止めた。
押し入れではない。
部屋全体を見回してから、低い声で言う。
「女性ですね」
朔は黙った。
「若い女性です。この家を、自分の場所だと思っている」
澪の顔から、からかうような表情が消えた。
「ここから動きたくないのではありません。帰るべき場所が、ここしか残っていない」
朔は澪を見た。
彼女の視線は床へ落ちていた。
「追加料金で対話を試みます」
「帰ってください」
◇
霊媒師が帰ったあと、家には塩だけが残った。
朔が掃除機を出す。
澪は窓際の机に座ったまま、黙っている。
「気にするな。ほとんど外れてた」
「女性っていうのは当てた」
「二分の一だろ」
「若いっていうのも」
「営業で依頼を受けたんだから、森川から聞いててもおかしくない」
「この家を自分の場所だと思ってるっていうのも」
掃除機の電源へ伸ばした朔の手が止まる。
「それは当たり前だろ。お前、ここに住んでたんだから」
「でも今は?」
「何が」
「霊媒師には、私が何に見えたのかな」
「見えてない」
「朔は?」
「何が」
「私が何に見える?」
質問の意味を考えるより先に、答えが口から出た。
「家賃を払わない同居人」
澪が目を丸くする。
「もっと言い方なかった?」
「正確だろ」
「最低」
そう言いながら、澪は少しだけ笑った。
その笑顔を見たとき、朔は霊媒師を呼んだことを後悔した。
何とかしたかったのは事実だ。
けれど、追い出したいのかと聞かれると、もう答えが分からなかった。
◇
喧嘩のきっかけは、机だった。
森川たちが大学の課題をするため、また家へ来ることになった。ローテーブルだけでは狭い。朔はリビングの空間を広げるため、机を動かそうとした。
「そこは動かさないで」
澪が言う。
「今日だけだ」
「嫌」
「戻すから」
「前もそう言ってた」
「客が来るんだ。邪魔なんだよ」
澪は机の前へ立った。
「この机は、ここに置くの」
「使ってるのは俺だ」
「この家の家具でしょ」
「じゃあ今の住人が決める」
「私も住人」
「家賃も払ってないのに?」
澪の目が細くなる。
いつもの言い争いだった。
どちらかが屁理屈を言い、どちらかが怒る。最後には朔が折れるか、澪が飽きる。それだけのはずだった。
「大家でも契約者でもない。そもそも、お前は住んでるんじゃない」
口に出してから、止めるには遅かった。
「勝手に残ってるだけだろ」
澪は何も言わなかった。
机を動かすなと繰り返し、家賃の話を持ち出した朔を卑怯だと責めると思った。
しかし澪は朔から目を逸らし、そのまま輪郭を薄くした。
「澪」
白い壁紙が、彼女の身体を透かして見せる。
瞬きをするあいだに、澪の姿は完全に消えていた。
◇
久しぶりの一人暮らしは、快適だった。
少なくとも一日目は。
朔は机を好きな位置へ動かした。
洗濯物を椅子へかけた。牛乳パックを一口だけ残した。夜中にカップ麺を食べ、動画をイヤホンなしで見た。
トイレの便座も上げたままにした。
誰からも文句を言われなかった。
「静かでいい」
口に出すと、声が思ったより大きく家へ残った。
朔は動画の音量を一つ上げた。
二日目。
大学で森川が、サークルの勧誘から逃げるために一年生のふりをした。学生証を確認され、二年生であることが発覚した。
朔はその一部始終を見ていた。
帰宅して鍵を閉め、靴を脱ぐ。
「今日さ、森川が」
そこで言葉が止まった。
返事はない。
そうだった、と声には出さず、鞄を床へ置く。
冷蔵庫を開ける。帰宅途中に買ったプリンが二個入っていた。
澪は食べられない。それでも新商品を見つけると、朔は二個買うようになっていた。一個目を食べて味を説明し、二個目は翌日、別の言い方を考えるために食べる。
説明が下手だと笑われるところまでが、いつもの流れだった。
朔は一個だけ取り出した。
味は普通だった。
三日目。
机の位置をさらに変えた。
カーテンを逆側でまとめた。ゴミ袋を窓際へ置いた。冷蔵庫の扉を開けたまま、何を食べるか考えた。
澪なら全部怒る。
何も起きなかった。
朔はトイレに入った。
便座を上げ、しばらく待った。
「……下げろよ」
返事はない。
自分で下げた。
リビングへ戻り、窓際を見る。机と壁のあいだには何もない。
「澪」
冷蔵庫の作動音だけが聞こえる。
「いるなら返事しろ」
朔は部屋の中央に立った。
「怒ってるなら怒っていいから」
彼女は家の外へ出られない。
それなら、この家のどこかにはいるはずだ。
姿を見せたくないだけならいい。しかし、あの霊媒師が何かしたのなら。塩が遅れて効いたのなら。澪が自分でも知らないうちに、消えてしまったのなら。
一度考えた可能性が、頭から離れなくなった。
朔は押し入れを開け、浴室を確かめた。使っていない部屋にも入った。ベッドの下までのぞき込み、そんな場所に澪が隠れるはずがないと自分で気づく。
「何やってるんだ、俺」
返事をする者はいなかった。
◇
夜になった。
朔は洗面台の前へ立った。
鏡に映っているのは、寝不足の男子大学生だけだ。
澪には姿が映らない。この鏡を見せたときも、彼女は壊れているのではないかと言い張った。
朔は蛇口の縁を指で叩いた。
「悪かった」
違う。軽すぎる。
「言いすぎた。家賃の話は、その……」
言い訳に聞こえる。
実際、言い訳なのだろう。
「お前が勝手に残ってるっていうなら、俺も勝手に住んでる。契約書があるだけで」
自分でも何を言っているのか分からなくなった。
朔は蛇口をひねった。勢いよく出た水が洗面台を打つ。
「お前がいないと、困る」
水音に紛れる程度の声だった。
「帰ってきてほしい」
「どこから?」
後ろから声がした。
朔は勢いよく振り向いた。
洗面所の入り口に、澪が立っていた。
姿は薄い。向こう側の壁紙がかすかに透けている。それでも、間違いなく澪だった。
「……いつからいた」
「『お前がいないと困る』あたり」
「一番まずいところじゃないか」
「謝罪としては、その前のほうがまずかった」
「聞こえてたなら返事しろよ」
「できなかったの」
澪が自分の手を見た。
「朔に見つかりたくないって思ったら、見えなくなった。声も届かなかった。戻ろうとしても戻れなくて」
「三日間ずっと?」
「ずっと」
「じゃあ、最初の日も見てたのか」
「動画、夜中まで見てたね」
「二日目は」
「プリンを二個買ってた」
「三日目は」
「わざと部屋を散らかしてた」
澪の口元が少し緩んだ。
「あと、便座を上げて私を呼び出そうとしてた」
「見えてたなら出てこいよ」
「声が届かなかったって言ってるでしょ」
朔は顔を覆った。
三日間で行ったことが、すべて筒抜けだった。
恥ずかしさのほうが先に立ち、何を言うべきか分からなくなる。
澪は洗面所の入り口に立ったまま、近づいてこなかった。
「一日目、結構楽しそうだった」
「最初だけだ」
「静かでいいって言ってた」
「最初だけだと言ってる」
「机も好きな位置に動かしてた」
「戻す」
「使いやすいんでしょ」
「戻す」
朔は澪の横を通り、リビングへ戻った。
壁際へ移動させていた机を持ち上げる。元の窓際へ引きずると、脚が床板を擦って鈍い音を立てた。
机と壁のあいだに、細長い空間ができる。
澪が座るには十分な幅だ。
「戻したぞ」
「そこ、使いにくいんじゃなかった?」
「慣れた」
「三日しか使ってないけど」
「うるさい」
澪は机と壁のあいだへ入った。
天板へ手を伸ばし、指先が木目を通り抜ける直前で止める。
「この机、本当に私のだったのかな」
「配置まで覚えてるんだろ」
「そう思ってた。でも、いつ買ったのか思い出せない。ここで何をしてたのかも」
澪は部屋を見回した。
「実家に帰るって言ったけど、実家がどこなのかも思い出せなかった」
朔は答えなかった。
この家に残された家具を、澪は知っている。
ベッドも机も、食器棚の中身も。ここで暮らしていたことだけは、たぶん間違いない。
それなのに、いつから暮らしていたのか、誰と暮らしていたのか、その前にどこにいたのかを思い出せない。
澪の記憶は、この家の壁に沿うように途切れていた。
「調べよう」
朔は言った。
「何を?」
「お前のことを」
「調べて、何か分かったら?」
「そのとき考える」
「また一人で決める?」
朔は机から手を離した。
「今度は相談する」
澪はすぐには答えなかった。
やがて、台所へ視線を向ける。
「プリン、もう一個残ってる?」
「ある」
「食べて」
「今?」
「味の説明、まだ聞いてない」
朔は冷蔵庫からプリンを取り出した。
蓋を開け、スプーンですくう。三日目のプリンは、冷蔵庫の匂いを少し吸っていた。
「どう?」
「普通」
「それじゃ分からない」
「甘くて、柔らかい」
「幼稚園児?」
「食べられない奴が偉そうに言うな」
「食べられないから聞いてるの」
澪はいつもの場所へ座った。
輪郭はまだ薄かったが、声には少しずつ張りが戻っている。
朔はプリンをもう一口食べた。
「カラメルは苦い。上の部分は、前に食べたのより固い」
「最初からそうやって説明できるでしょ」
「面倒なんだよ」
「じゃあ、どうして二個買ったの?」
スプーンが止まった。
澪は答えを待っている。
朔はカラメルの残った容器へ視線を落とした。
「一個だと、説明を失敗するから」
「二個目なら上手にできる?」
「たまには」
「今日は?」
「失敗」
澪が笑った。
その笑い声が、家の中へ残った。
三日ぶりに聞くと、少しうるさい。
朔は空になった容器をゴミ箱へ投げた。縁に当たって、床へ落ちる。
「外れた」
「見れば分かる」
「拾わないの?」
「あとで」
「その『あとで』、まだ来ないんだ」
朔は床の容器を拾った。
ついでに、それまで放置していた靴下も洗濯かごへ入れる。
澪は意外そうに目を丸くしたが、何も言わなかった。
家は同じだった。
築年数は古い。壁は薄い。机の位置は少し使いにくい。残された家具の中には、朔の知らない時間が染みついている。
家賃を払わない同居人は、細かいことで文句を言う。
それでも、住んでみると悪くない。
「澪」
「何?」
「便座、下げてあるから」
「見れば分かる」
「そうかよ」
窓の外では、春の雨が降り始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
家賃を払わない同居人との生活は、ひとまずここまでです。
朔と澪の掛け合いを気に入っていただけましたら、評価や感想を残していただけると嬉しいです。
なお、便座はきちんと下げてお帰りください。




