↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

家に帰ると知らない女が俺のベッドで寝ていた。彼女は存在しない。

作者: ロン毛丸
掲載日:2026/10/12

 家に帰ると、知らない女が俺のベッドで寝ていた。


 相原朔は、寝室の入り口に立ったまま鍵を確認した。


 銀色の小さな鍵には、管理会社の青いタグがついている。住所も合っている。そもそも、この家に住み始めてもう三週間になる。間違いない。


 もう一度、部屋を見る。


 南向きの窓。壁際に並ぶ本棚と箪笥。窓辺には古い木製の机があり、その横には昨夜、朔が脱ぎ捨てたパーカーが落ちている。


 そして、そのあいだに置かれたベッドでは、白いブラウスに薄茶色のカーディガンを重ねた女が、我が物顔で昼寝をしていた。


「……あの」


 朔が呼びかけると、女のまぶたが開いた。


 寝ぼけた目が朔を捉える。数秒の沈黙のあと、女は勢いよく上体を起こした。


「誰?」


「それはこっちの台詞なんですけど」


 女は壁際へ身を寄せ、枕を抱えた。


「どうやって入ったの」


「鍵で」


「鍵?」


「管理会社からもらった」


「管理会社と共犯なの?」


「話を大きくするな」


 朔は肩にかけていた鞄を下ろした。


 警察を呼ぶべきか、管理会社を先に問い詰めるべきか。どちらにせよ、面倒なことになった。


 玄関の鍵は閉まっていた。窓が割られた形跡もない。この家の鍵を渡した相手などいないし、そもそも、ベッドで待っていてくれるような女性に心当たりがない。


「とにかく、そこから下りてください。俺のベッドなんで」


「私のベッドだけど」


「俺が三週間使ってるベッドです」


「知らない。前からある」


「備え付けなのは知ってます。でも、今使ってるのは俺です」


「勝手に使っておいて偉そうに言わないで」


「誰の許可を取ればよかったんだよ」


 女は足元を見た。


 つられて朔も見る。


 彼女の膝から下は、ベッドの端を通り抜けていた。


 白い足が、マットレスへ半分ほど沈んでいる。


 女はそれをしばらく眺め、慎重に顔を上げた。


「このベッド、不良品じゃない?」


「どういう不良だよ」


 朔は鞄からスマートフォンを取り出した。


 警察より先に救急車かもしれない。いや、足がベッドを突き抜ける症状を救急隊へどう説明すればいい。


 女もベッドから飛び下りた。


 正確には、下りようとした。


 両足は床へ音もなく着いた。築年数相応によく軋む床なのに、板一枚鳴らない。


 彼女は窓辺の机へ手をつき、そのまま指をすり抜けさせた。


「あれ?」


 もう一度。


 今度は両手でつかもうとする。それでも机は動かず、彼女の腕だけが天板を通過する。


 女の表情から、朔を警戒していた強さが消えていった。


「ねえ」


「何ですか」


「これ、どういうこと?」


「俺に聞くな」


     ◇


 女は雨宮澪と名乗った。


 二十歳。大学二年生。この家の住人。


 最後の一点以外は、朔にとって確認のしようがない。


「契約者は相原さんだけですね」


 電話口の管理会社はそう答えた。


 以前の住人については個人情報だから教えられないらしい。室内に知らない女がいると伝えると、警察への相談を勧められた。


 もっとも、物に触れられず、壁を通り抜ける女を警察へ引き渡せるとも思えなかった。


「何て?」


 電話を切るなり澪が聞いた。


「お前は住んでないって」


「嘘」


「向こうが嘘をつく理由がない」


「あるでしょ。管理がずさんだったのを隠したいとか」


「じゃあ契約書を見せろ」


「今すぐ出せって言われても困る」


「身分証は」


「初対面の女に身分証を要求する?」


「初対面の男のベッドで寝てた女に言われたくない」


 澪は唇を引き結んだ。


 窓際へ歩き、開いていない窓から外を眺める。ガラスには朔の姿だけが映り、その横に立つ澪はどこにもいない。


 朔はスマートフォンのカメラを向けた。


 画面に映るのは壁と窓だけだ。澪が立っている部分には、細かなノイズが走っている。


「勝手に撮らないで」


「映ってない」


「余計に失礼」


「幽霊にも肖像権ってあるのか」


「誰が幽霊よ」


「ほかに何なんだよ」


「体調不良」


「物理法則まで崩す体調不良があるか」


 澪は答えず、玄関へ向かった。


「分かった。今日は帰る」


「ここに住んでるんじゃなかったのか」


「実家。母に相談する」


 澪は玄関の扉へ手を伸ばした。


 指が扉を通り抜ける。


 彼女は忌々しそうに手を引くと、そのまま木製の扉へ身体を押し込んだ。


 一歩。


 二歩目を踏み出した瞬間、彼女の姿が消えた。


 次の瞬間、澪はリビングの中央に立っていた。


 本人だけが状況を理解できず、何度か瞬きをする。


「今、私……」


 もう一度、玄関へ向かう。


 扉を通り、一歩。二歩目で消えて、リビングへ戻る。


 三度目は走ってみたが、結果は同じだった。


 澪は玄関の前へ座り込み、膝を抱えた。


 朔はしばらく待った。


「……大丈夫か」


「大丈夫に見える?」


「見えない」


「じゃあ聞かないで」


 言い方はきつかったが、声には最初の勢いがなかった。


 朔は台所へ行き、電気ケトルに水を入れた。


「何してるの」


「コーヒーを飲む」


「この状況で?」


「大学から帰ってきたところなんだよ」


「家に知らない女がいても、コーヒーを優先する?」


「警察を呼ぶか、救急車を呼ぶか、寺へ電話するか考えるために必要なんだ」


 澪が顔を上げた。


「追い出す気?」


「俺が借りてる家だからな」


「私も住んでるのに?」


「見えないふりをする」


「私、話しかけるけど」


「聞こえないふりをする」


「お風呂にも入ってくるかも」


 朔はコーヒーの袋を開ける手を止めた。


 澪の口元に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。


「聞こえないふり、できる?」


「生活上の規則を決めよう」


     ◇


 規則は紙に書き出された。


 一、風呂と着替えは見ない。


 二、寝ている人間をのぞき込まない。


 三、大声を出さない。


 四、勝手に私物を見ない。


 五、ベッドの使用権は朔にある。


 ここまで書いたところで、澪が異議を唱えた。


「五番には同意してない」


「家賃を払ってる」


「最初からこの家にあるベッドでしょ」


「今使ってるのは俺だ」


「私も使ってた」


「六番。家賃を払わない者に決定権はない」


「だったら七番。家具の配置を勝手に変えない」


「備え付けでも、使うのは俺だぞ」


「その机は窓際に置くものなの」


「どうして知ってる」


「前からそうだったから」


 澪が指したのは、リビングの窓際だった。


 朔が入居したとき、そこには古い机が置かれていた。日差しが画面へ反射するため、昨日、寝室へ動かしたばかりだ。


「リビングに置くと使いにくい」


「でも、そこが机の場所」


「俺が決める」


「この箪笥も、もっと右。椅子は窓側。ローテーブルは縦」


「細かいな」


「元に戻してるだけ」


 澪は部屋の中を見回した。


 壁際の本棚。台所の食器棚。窓辺の小さな観葉植物。朔が入居したときからあった家具を、彼女は当然のように知っている。


「どの食器がどこにある?」


「上の棚の右に白いマグカップ。下の引き出しには、持ち手が焦げたフライパン」


 朔が確認すると、両方あった。


 白いマグカップは使っていない。フライパンも、状態が悪いため奥へ押し込んでいる。


「本当に、ここに住んでたのか」


「最初から言ってるでしょ」


 澪は寝室へ移した机の前に立った。


「戻して」


「俺の机だ」


「家の机でしょ」


「机だけ元の住人についていく契約じゃない」


「ついてきてない。ここにあるの」


「誰がうまいことを言えと」


 澪は机の前から動かない。


「どけ」


「嫌」


「机ごと動かすぞ」


「やってみれば」


 朔は一度手を止め、それから容赦なく机を押した。


 天板が澪の腰を通過する。


 彼女の身体はその場所へ残されるはずだったが、澪は通り抜けられる寸前に慌てて横へ避けた。


「最低!」


「自分でやってみろって言っただろ」


「本当にやる人がある?」


「言葉には責任を持て」


 朔は窓際まで机を押した。


 澪は反論しなかった。机の前に立ち、天板へ触れようとする。


 指は木目の向こうへ沈んだ。


 怒鳴られるより、その沈黙のほうが居心地が悪かった。


「……コンセント、こっちのほうが近いな」


「さっき使いにくいって言ってた」


「実際に置いてみないと分からないこともある」


「ふうん」


「何だよ」


「別に」


 澪は机と壁の隙間へ腰を下ろした。


 それから、そこが彼女の定位置になった。


     ◇


 澪との生活は、幽霊との同居という言葉から想像するほど恐ろしくなかった。


 むしろ、うるさかった。


「朔。牛乳、あと一口しかない」


「分かってる」


「一口だけ残して冷蔵庫へ戻す意味は?」


「空箱を捨てる手間を将来の俺に預けた」


「将来の朔がかわいそう」


「俺もそう思う」


「他人事みたいに言わないで」


 朔が靴下を洗濯かごへ投げる。縁に当たり、床へ落ちた。


「外れた」


「見れば分かる」


「拾わないの?」


「あとで」


「その『あとで』が来たところ、見たことない」


「まだ一週間しか一緒にいないだろ」


「一週間で信用を失うには十分だったね」


 家事をするのは朔だけだ。


 澪は物に触れられない。掃除も料理も洗濯もできず、そのくせ汚れや賞味期限には誰より早く気づいた。


 大学から帰れば、その日の講義について聞かれた。


 澪は外へ出られない。窓から見える範囲と、朔が持ち帰る話だけが、彼女にとっての外の世界だった。


「今日、何かあった?」


「別に」


「じゃあ、学食の新メニューは?」


「何で知ってる」


「昨日、売店でもらったチラシを机に置いてた」


「勝手に見るなって規則に書いただろ」


「見えるところに置くのが悪い」


「強盗みたいな論理だな」


 文句を言いながら、朔は期間限定の麻婆丼が辛すぎたことを話した。


 澪は食べられない。それでも味を細かく聞きたがった。


 辛さはどうだった。山椒は入っていたか。豆腐は熱かったか。もう一度食べたいか。


 朔が「普通」と答えるたび、澪は説明が下手だと怒った。


 気づけば朔は、大学であったことを、帰宅して話せる形で覚えるようになっていた。


     ◇


「それ、病院より先に霊媒師じゃないか?」


 大学の同級生である森川に相談したところ、返ってきたのは意外に現実的な意見だった。


「大学生が霊媒師を勧めてくるとは思わなかった」


「大学生だからだよ。病院は親の保険証に履歴が残るかもしれないだろ。霊媒師なら現金で済む」


「その現実感を別のところで発揮しろ」


 週末、森川が家へやって来た。


 澪は窓際に立ち、落ち着かなそうに髪へ触れている。本人には触れているつもりでも、指は髪をわずかに通り抜けていた。


「本当にいるのか?」


 森川がリビングを見回す。


「今、お前の右隣」


「怖い話みたいに紹介しないで」


「怖い話扱いするなって」


「いちいち中継するの、恥ずかしいんだけど」


「中継もするなって」


「お前、会話が忙しいな」


 森川は澪の立つ位置へ顔を向けたが、視線はまったく合わなかった。


 澪が手を振る。森川は反応しない。


 分かっていたことなのに、澪はそっと手を下ろした。


「でもさ」


 森川はローテーブルの前へ座った。


「何で引っ越さないんだ?」


「そんな簡単に言うなよ。敷金も礼金も払ったんだぞ」


「命と敷金、どっちが大事だよ」


「別に襲ってこないし。この家、大学まで徒歩十二分だし」


「南向きで日当たりもいい」


 澪が続けた。


「南向きだし」


「風呂とトイレも別」


「風呂とトイレも別だ」


「収納も十分」


「収納も広い」


「台所も広い」


「台所も広い」


「二人でも住めるくらい」


 朔は口を閉じた。


 森川が眉を寄せる。


「その幽霊と内見したの?」


「違う」


「でも女性なんだろ。見た目は?」


 朔は澪を見た。


 澪も朔を見る。きちんと答えろという圧を感じた。


「普通」


「は?」


 澪の眉がつり上がった。


「普通って、どのくらい?」


「今、普通に怒ってる」


「美人かどうか聞いたんだけど」


「誰が普通よ」


「面倒なことになったから、この話は終わりだ」


「逃げないで」


 森川には澪の声が聞こえない。


 それでも朔の返答だけで大体の状況を察したらしく、口元を緩めた。


「まあ、仲良くやってるみたいで安心した」


「どこをどう見たらそうなる」


「帰ってきても一人じゃないし」


 澪が小さく言った。


 朔には聞こえた。


 森川には聞こえていない。


 朔は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、森川へ押しつけた。


「住んでみると、悪くないだけだ」


     ◇


 森川が紹介した霊媒師は、紫色のシャツに白いジャケットを羽織っていた。


 首から大ぶりの数珠を下げ、片手には黒いタブレットを持っている。


「それで、除霊をご希望ということで」


「まだ決めてません。まず見てもらうだけで」


「霊視基本料金がこちら。対話を試みる場合は追加。霊障の除去は別プランになります」


 画面には料金表が表示されていた。


「幽霊相手にも課金制なんだ」


 澪が朔の隣からのぞき込む。


「塩や護符などの消耗品もございますので」


「ソシャゲみたいに言うな」


「何か?」


「いえ」


 霊媒師は部屋の中央に立ち、目を閉じた。


 澪はそのすぐ横で、同じように目を閉じてみる。


 数秒後、霊媒師は押し入れへ向き直った。


「ここです」


「違う」


 澪が即答した。


「強い気配があります」


「季節ものの布団しか入ってません」


「布団にも念は残ります」


「帰ってもらおう」


「まだ始まったばかりだ」


「もう結果出てるでしょ」


 霊媒師は小袋から塩を取り出し、押し入れの前へ勢いよくまいた。


 白い粒が床板を跳ねる。


 澪が顔をしかめた。


「掃除するの、朔なんだけど」


「成仏させられる心配は?」


「この人に?」


 朔は霊媒師を帰らせる理由を考え始めた。


 そのとき、霊媒師が動きを止めた。


 押し入れではない。


 部屋全体を見回してから、低い声で言う。


「女性ですね」


 朔は黙った。


「若い女性です。この家を、自分の場所だと思っている」


 澪の顔から、からかうような表情が消えた。


「ここから動きたくないのではありません。帰るべき場所が、ここしか残っていない」


 朔は澪を見た。


 彼女の視線は床へ落ちていた。


「追加料金で対話を試みます」


「帰ってください」


     ◇


 霊媒師が帰ったあと、家には塩だけが残った。


 朔が掃除機を出す。


 澪は窓際の机に座ったまま、黙っている。


「気にするな。ほとんど外れてた」


「女性っていうのは当てた」


「二分の一だろ」


「若いっていうのも」


「営業で依頼を受けたんだから、森川から聞いててもおかしくない」


「この家を自分の場所だと思ってるっていうのも」


 掃除機の電源へ伸ばした朔の手が止まる。


「それは当たり前だろ。お前、ここに住んでたんだから」


「でも今は?」


「何が」


「霊媒師には、私が何に見えたのかな」


「見えてない」


「朔は?」


「何が」


「私が何に見える?」


 質問の意味を考えるより先に、答えが口から出た。


「家賃を払わない同居人」


 澪が目を丸くする。


「もっと言い方なかった?」


「正確だろ」


「最低」


 そう言いながら、澪は少しだけ笑った。


 その笑顔を見たとき、朔は霊媒師を呼んだことを後悔した。


 何とかしたかったのは事実だ。


 けれど、追い出したいのかと聞かれると、もう答えが分からなかった。


     ◇


 喧嘩のきっかけは、机だった。


 森川たちが大学の課題をするため、また家へ来ることになった。ローテーブルだけでは狭い。朔はリビングの空間を広げるため、机を動かそうとした。


「そこは動かさないで」


 澪が言う。


「今日だけだ」


「嫌」


「戻すから」


「前もそう言ってた」


「客が来るんだ。邪魔なんだよ」


 澪は机の前へ立った。


「この机は、ここに置くの」


「使ってるのは俺だ」


「この家の家具でしょ」


「じゃあ今の住人が決める」


「私も住人」


「家賃も払ってないのに?」


 澪の目が細くなる。


 いつもの言い争いだった。


 どちらかが屁理屈を言い、どちらかが怒る。最後には朔が折れるか、澪が飽きる。それだけのはずだった。


「大家でも契約者でもない。そもそも、お前は住んでるんじゃない」


 口に出してから、止めるには遅かった。


「勝手に残ってるだけだろ」


 澪は何も言わなかった。


 机を動かすなと繰り返し、家賃の話を持ち出した朔を卑怯だと責めると思った。


 しかし澪は朔から目を逸らし、そのまま輪郭を薄くした。


「澪」


 白い壁紙が、彼女の身体を透かして見せる。


 瞬きをするあいだに、澪の姿は完全に消えていた。


     ◇


 久しぶりの一人暮らしは、快適だった。


 少なくとも一日目は。


 朔は机を好きな位置へ動かした。


 洗濯物を椅子へかけた。牛乳パックを一口だけ残した。夜中にカップ麺を食べ、動画をイヤホンなしで見た。


 トイレの便座も上げたままにした。


 誰からも文句を言われなかった。


「静かでいい」


 口に出すと、声が思ったより大きく家へ残った。


 朔は動画の音量を一つ上げた。


 二日目。


 大学で森川が、サークルの勧誘から逃げるために一年生のふりをした。学生証を確認され、二年生であることが発覚した。


 朔はその一部始終を見ていた。


 帰宅して鍵を閉め、靴を脱ぐ。


「今日さ、森川が」


 そこで言葉が止まった。


 返事はない。


 そうだった、と声には出さず、鞄を床へ置く。


 冷蔵庫を開ける。帰宅途中に買ったプリンが二個入っていた。


 澪は食べられない。それでも新商品を見つけると、朔は二個買うようになっていた。一個目を食べて味を説明し、二個目は翌日、別の言い方を考えるために食べる。


 説明が下手だと笑われるところまでが、いつもの流れだった。


 朔は一個だけ取り出した。


 味は普通だった。


 三日目。


 机の位置をさらに変えた。


 カーテンを逆側でまとめた。ゴミ袋を窓際へ置いた。冷蔵庫の扉を開けたまま、何を食べるか考えた。


 澪なら全部怒る。


 何も起きなかった。


 朔はトイレに入った。


 便座を上げ、しばらく待った。


「……下げろよ」


 返事はない。


 自分で下げた。


 リビングへ戻り、窓際を見る。机と壁のあいだには何もない。


「澪」


 冷蔵庫の作動音だけが聞こえる。


「いるなら返事しろ」


 朔は部屋の中央に立った。


「怒ってるなら怒っていいから」


 彼女は家の外へ出られない。


 それなら、この家のどこかにはいるはずだ。


 姿を見せたくないだけならいい。しかし、あの霊媒師が何かしたのなら。塩が遅れて効いたのなら。澪が自分でも知らないうちに、消えてしまったのなら。


 一度考えた可能性が、頭から離れなくなった。


 朔は押し入れを開け、浴室を確かめた。使っていない部屋にも入った。ベッドの下までのぞき込み、そんな場所に澪が隠れるはずがないと自分で気づく。


「何やってるんだ、俺」


 返事をする者はいなかった。


     ◇


 夜になった。


 朔は洗面台の前へ立った。


 鏡に映っているのは、寝不足の男子大学生だけだ。


 澪には姿が映らない。この鏡を見せたときも、彼女は壊れているのではないかと言い張った。


 朔は蛇口の縁を指で叩いた。


「悪かった」


 違う。軽すぎる。


「言いすぎた。家賃の話は、その……」


 言い訳に聞こえる。


 実際、言い訳なのだろう。


「お前が勝手に残ってるっていうなら、俺も勝手に住んでる。契約書があるだけで」


 自分でも何を言っているのか分からなくなった。


 朔は蛇口をひねった。勢いよく出た水が洗面台を打つ。


「お前がいないと、困る」


 水音に紛れる程度の声だった。


「帰ってきてほしい」


「どこから?」


 後ろから声がした。


 朔は勢いよく振り向いた。


 洗面所の入り口に、澪が立っていた。


 姿は薄い。向こう側の壁紙がかすかに透けている。それでも、間違いなく澪だった。


「……いつからいた」


「『お前がいないと困る』あたり」


「一番まずいところじゃないか」


「謝罪としては、その前のほうがまずかった」


「聞こえてたなら返事しろよ」


「できなかったの」


 澪が自分の手を見た。


「朔に見つかりたくないって思ったら、見えなくなった。声も届かなかった。戻ろうとしても戻れなくて」


「三日間ずっと?」


「ずっと」


「じゃあ、最初の日も見てたのか」


「動画、夜中まで見てたね」


「二日目は」


「プリンを二個買ってた」


「三日目は」


「わざと部屋を散らかしてた」


 澪の口元が少し緩んだ。


「あと、便座を上げて私を呼び出そうとしてた」


「見えてたなら出てこいよ」


「声が届かなかったって言ってるでしょ」


 朔は顔を覆った。


 三日間で行ったことが、すべて筒抜けだった。


 恥ずかしさのほうが先に立ち、何を言うべきか分からなくなる。


 澪は洗面所の入り口に立ったまま、近づいてこなかった。


「一日目、結構楽しそうだった」


「最初だけだ」


「静かでいいって言ってた」


「最初だけだと言ってる」


「机も好きな位置に動かしてた」


「戻す」


「使いやすいんでしょ」


「戻す」


 朔は澪の横を通り、リビングへ戻った。


 壁際へ移動させていた机を持ち上げる。元の窓際へ引きずると、脚が床板を擦って鈍い音を立てた。


 机と壁のあいだに、細長い空間ができる。


 澪が座るには十分な幅だ。


「戻したぞ」


「そこ、使いにくいんじゃなかった?」


「慣れた」


「三日しか使ってないけど」


「うるさい」


 澪は机と壁のあいだへ入った。


 天板へ手を伸ばし、指先が木目を通り抜ける直前で止める。


「この机、本当に私のだったのかな」


「配置まで覚えてるんだろ」


「そう思ってた。でも、いつ買ったのか思い出せない。ここで何をしてたのかも」


 澪は部屋を見回した。


「実家に帰るって言ったけど、実家がどこなのかも思い出せなかった」


 朔は答えなかった。


 この家に残された家具を、澪は知っている。


 ベッドも机も、食器棚の中身も。ここで暮らしていたことだけは、たぶん間違いない。


 それなのに、いつから暮らしていたのか、誰と暮らしていたのか、その前にどこにいたのかを思い出せない。


 澪の記憶は、この家の壁に沿うように途切れていた。


「調べよう」


 朔は言った。


「何を?」


「お前のことを」


「調べて、何か分かったら?」


「そのとき考える」


「また一人で決める?」


 朔は机から手を離した。


「今度は相談する」


 澪はすぐには答えなかった。


 やがて、台所へ視線を向ける。


「プリン、もう一個残ってる?」


「ある」


「食べて」


「今?」


「味の説明、まだ聞いてない」


 朔は冷蔵庫からプリンを取り出した。


 蓋を開け、スプーンですくう。三日目のプリンは、冷蔵庫の匂いを少し吸っていた。


「どう?」


「普通」


「それじゃ分からない」


「甘くて、柔らかい」


「幼稚園児?」


「食べられない奴が偉そうに言うな」


「食べられないから聞いてるの」


 澪はいつもの場所へ座った。


 輪郭はまだ薄かったが、声には少しずつ張りが戻っている。


 朔はプリンをもう一口食べた。


「カラメルは苦い。上の部分は、前に食べたのより固い」


「最初からそうやって説明できるでしょ」


「面倒なんだよ」


「じゃあ、どうして二個買ったの?」


 スプーンが止まった。


 澪は答えを待っている。


 朔はカラメルの残った容器へ視線を落とした。


「一個だと、説明を失敗するから」


「二個目なら上手にできる?」


「たまには」


「今日は?」


「失敗」


 澪が笑った。


 その笑い声が、家の中へ残った。


 三日ぶりに聞くと、少しうるさい。


 朔は空になった容器をゴミ箱へ投げた。縁に当たって、床へ落ちる。


「外れた」


「見れば分かる」


「拾わないの?」


「あとで」


「その『あとで』、まだ来ないんだ」


 朔は床の容器を拾った。


 ついでに、それまで放置していた靴下も洗濯かごへ入れる。


 澪は意外そうに目を丸くしたが、何も言わなかった。


 家は同じだった。


 築年数は古い。壁は薄い。机の位置は少し使いにくい。残された家具の中には、朔の知らない時間が染みついている。


 家賃を払わない同居人は、細かいことで文句を言う。


 それでも、住んでみると悪くない。


「澪」


「何?」


「便座、下げてあるから」


「見れば分かる」


「そうかよ」


 窓の外では、春の雨が降り始めていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


家賃を払わない同居人との生活は、ひとまずここまでです。


朔と澪の掛け合いを気に入っていただけましたら、評価や感想を残していただけると嬉しいです。

なお、便座はきちんと下げてお帰りください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。