9.パンを買いに行く
ようやくパンを買いに行きます。
やがて、春川も比那も、その日常の生活へとじょじょに戻って行った。大切な人が死んだときによくあるように、比那が少しの罪悪感に囚われる、ということもないわけではなかった。
しかし、比那にとってRサンはあくまでも「他人」であり、彼との関係は患者と看護師のそれでしかなかった。やがては、その死について克服すべきだったし、忘れるべきだった。忘れなければいけない、と思っていた。
春川が彼女に言ったように、彼女たちのそれぞれの人生を「やはり生きて」行かなくてはいけないのである。そこにいくぶんの停滞はあっても、完全に止まってしまって良いはずがなかった。人の死とは、その先のない塹壕ではない、開かずのドアでも踏み切りでもない。異界への入口ではあるのかもしれないけれど、デッドエンド(どん詰まり)ではない。そこで皆が立ち止まったままになれば、社会はすぐに、存在することを止めてしまうだろう……。
* * *
だが、何もないというわけにはいかないようだった。Rサンの死から半月の間、比那だけでなく、春川も暗い気もちに囚われていた。
そして、もっとも落ち込んでいたのはやはり、自分のことを「気遣いのできる男」と言っていた、山田根舞羅である。春川亜梨沙や穂口比那の比ではなかった。彼は、彼自身が体調を崩して死んでしまいそうなほどに落ち込んだ。まるで、彼自身がRサンを死に追いやってしまったとでも言うかのように。
と言うのは、
「俺、Rサンのことをソウルメイトって思っていなかった。Rサンに、あなたは僕のソウルメイトですって、言ってあげなかった。……俺がRサンを殺したんだ、この世にソウルメイトは12人もいるのに。まだまだ俺のソウルメイトはいても良かったはずなのに」
「そんなことないよ、あなたがRサンを殺したわけないじゃん。考え過ぎだって……」
「人の死に、考え過ぎなんて、あるの? 俺は信じられない。姉さんたちの言葉とも思えない」
「山田……」
亜梨沙も、根舞羅に声をかけようとして口を噤んでしまった。
「じゃあさ、どこか行こう? どこか行って、Rサンのお葬式をしよう? 私たちで……」
「アタシたちで? いいの? そんなことして?」
「本当のお葬式じゃないけど……このままだったら気もち悪いもん。私も根舞羅も納得しないよ?」
「分かった。クルマはワタシが出すわ?」
* * *
そんなふうにして、3人の遠出が決まった。それは、正確には「遠出」なんかではあり得なかったけれど、比那と亜梨沙は、それを「遠出」と呼んであげたいような気がしていた。
根舞羅も、
「そうだね、これは『遠出』だね……。Rサンを遠くに送り出すんだから、これは僕たちにとっても『遠出』なんだよ」
あらためて根舞羅にそう説明されると、比那と春川は違和感なく、それを受け入れられるように思えた……
3人は、S市の北部を貫いている北環状線を通って、中沙峠までパンを買いに行き、そこから加茂町にある薬師山までドライブに出かけることにした。
中沙峠には、Rサンを火葬に付した斎場があり、薬師山はM県にあっては珍しい霊場だった。山頂から麓にかけてゆるやかな斜面が広がっていて、その裾野は牧草地になっていた。乳牛などが放牧されている。レストハウスもあり、安物のカレーやラーメンなんかが食べられる。
比那たち3人は、Rサンが生前好きだった惣菜パンとノンアルコールのワインドリンクを買って行って、そこで献杯をしようということになった。
* * *
目的地となるパン屋は、いつも通り比那が、ネットの情報誌で見つけてきた「マメイド・タヴァーン」という店だった。パティスリーにイートインのスペースが併設されていて、レストランのように店内で食事と喫茶を楽しめるように作られていた。
おすすめのパンには、「パンプキン・バレード」「ブロック・スイートポテト」「ベーコン・ガイア」「ヴィレッジ・シュリンプ」「フィレ・オ・バサ」といった名前がついていた。
大抵は素材の名前をそのまま冠した素朴なネーミングだったが、時々意味の分からない名前のものが交じっている。
多分、スタッフなりに思いを込めて名付けられているのだろうけれど、お洒落な店にありがちなように、若干空回りしているような気がしないでもない。
「ベーコン・ガイア」という名前を比那から聞いた春川と根舞羅とは、その名前を笑い飛ばした。
自分が馬鹿にされたわけではないものの、比那は多少ムッとする。その怒りは当然店へと向かった。
──もう少しきちんとした、と言わないまでも、無難な名前を付けてくれれば良いのに。これでは、子供のキラキラ・ネームと同じだ……そう思って、比那はこっそり根舞羅の顔をうかがった。
(そうだった、ここにもこんな名前の子がいたっけ……)
* * *
北山から富士見、貝塚、中沙峠へと、春川は裏道を選んで自動車を走らせて行った。クーラーをかけているせいで、暑くはない。ディスプレイ・オーディオから流れてくるFMの音楽が心地良かった。
目的の店、「マメイド・タヴァーン」に着くと、3人は車を降りた。途端に熱気が3人の肌を刺す。すでに、「不穏な空気」はあったのかもしれない。
3人の「遠出」は、Rサンの追悼としてはあまりふさわしくない、「殺伐」としたものになった。3人は店内でパンを選びながら、店員からカスタマー・ハラスメント認定を受けてしまったのである。
……他にも客がいるのに、パン選びに時間をかけすぎる、というのがその理由だった。それに、3人は「追悼」に浮かれて喋り過ぎた。
「Rサンなら、このパンが好きそう?」
「えーっ、Rサン、カロリー高いパン嫌いだよ?」
「海老ペースト入り、だって。マズそう……!」
などなど。さらには、支払いのさいに小銭の扱いを巡って店員と口論になり、
「他にもお客様がいらっしゃいますから、少し急いでいただいても良いですか? 慌てなくてもかまいませんので……」
「はあっ? アタシたち、客だろ? みんなそんなに急いでんの?」
「亜梨沙!」
「春川姉さん!」
そんなふうに止めるも、
「出て行ってください! もう二度と来ないでください!」
と、罵られる始末だった。
比那と春川、根舞羅はお互いの顔を見合わせて、目をぱちくりとしばたかせた。そして、店を出るさい、店のスタッフにそれと分かるように、振り返って中指を立ててみせた
店員は、
「こっちがファック・オフだ! 二度と来んな、クソが!」
と、荒れた。
薬師山は穏やかに晴れていた。
その日は平日の水曜日で、麓にあるレストハウスは閉店中だった。人が少なくて逆にちょうど良い、と3人は思った。その建物の外壁をぐるりと回って、裏側(薬師山の正面のことを考えるのであれば、表側)へと行く。
そこからはなだらかな下り坂が、加茂町の町内にむかって続いている。さらには、S市に隣接している吉平村のほうまで……。
3人は、空を見上げながら、アルコール・フリーのワインドリンクで献杯する。
「Rサンの思い出に!」
「Rサンの人生に!」
「Rサンのランダムな生き方に!」
「それ……追悼になってなくない?」
「なんでも良いのよ。アタシ、今日は悲しいけれど、Rサンとは知り合いじゃなかったんだし……」
「そうだね、人の死は誰のであっても悲しいね」
「そうじゃなくって、アタシはアンタと根舞羅がカナシンデいるから……」
「まあね」
「でも、ちょっとだけ悲しくはあるよ? 今言ったけれど」
「人の死って厳かですよね?」
「アンタがそういうこと言っても似合わないの!」
そう言って、亜梨沙は根舞羅の頭をはたく。
「あ、痛え、痛えなあ……」
「アンタは、スピリチュアルなことでも言ってなさい」
「俺が、真面目になっちゃおかしいですか?」
根舞羅は、頭を掻きながら春川に抗弁する。
「ああ、悪かった、悪かった。そんなことないよ、今日はお葬式だもんね?」
「安心しました。亜梨沙姉さん、悪い人じゃないんですね?」
「この期に及んで、それ言う?」
「だって、あなた……」
「まあまあ、今日はお葬式……」
やっぱり、なだめ役は比那だった。
「そうだね、しんみり」
「そうですね……」
「そうだよ、やっぱり……」
8月10日の、終戦記念日にも近い、うだるように熱い風が、3人の肌を撫でて通り過ぎていった……。
ヤカラ丸出しです。3人とも。




