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パンを買いに行く  作者: kumako


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8.お笑い芸人の死/哲学者の死

2つの死についての話です。

 2つの死のうち、ひとつは「自殺のような自然死」だった。もうひとつは「自然死のような自殺」だった。Rサンは、前者の死で死んだ。お笑い芸人は、後者の死で死んだ。

「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」という言葉通り、2人はそれまでとは違う世界へと踏み出して行った。それは、1年間の停滞の後で訪れた嵐だった。


    * * *


「私たちさ、1年間待てば良かった。1年間待っていればさ、ホテルに行ってはしゃいだり、コンサートに行ってうつけたりしなかったと思うもの……」

「コンサートに行くことはうつけることじゃないよ。ホテルに行くこともはしゃぐことじゃない。どっちも怠けることでもない。……アンタ、勘違いしているよ、それは死んだ人にとっても失礼なことだ!」

「そうかな……」

「そうだよ、アタシたちは鋭気を養ったんだ。アタシたちは生きていかなきゃいけないんだ。アタシもそう、比那もそう、根舞羅もそう。根舞羅には、Rサンの死、知らせたの?」

「知らせた……」

 比那は、ゆっくりとうなずく。


 それは、お笑い芸人の死から3ヶ月後のことだった。人は──たった3ヶ月でまったく健康な状態からあの世まで移行できるんだ、と比那は思った。それは、哲学者の死だった。

 ……比那は、死の床にあったRサンから、その死についての説明を受けた数少ない人間の1人だ。

 ひとりは、R氏の弟。ひとりは、R氏の妹。さらにひとりは、R氏の大学の同僚だった元教授。さらにひとりは、配偶者だった妻の妹。そして、医師が数名と看護師長、比那。

 比那は、仲間の看護師たちから背中を押されるようにして、Rサンの話を聞いた。

「皆さんもご存知の通り……」

 と、R氏は切り出す。

「この春に、とても人気のあったお笑い芸人が謎の死を遂げました。いいえ、謎ではありませんね。今では、皆彼がどんなふうにしてその生を終わらせたのか、知っているんですから。手記も出版されています。……僕はねえ、彼の死を知ったとき、とても羨ましいと思った。とても不謹慎ですが、そう思ったんです。その想いは、どうしても僕の心のなかから取り除くことができません。これはねえ、嫉妬です。とてもとても強い、嫉妬の気もちなんです」

 そこで、R氏は一旦言葉を切った。皆が固唾を飲んだ。

「でもねえ、悪い悪いと思いながらも、僕は僕を止められない。僕はずっと思ってきたんだ、妻がこの世から去って以降、妻の後を追いたいと。妻といっしょに消えてなくなりたいと。この想いは不遜でしょうか? 僕はそう想いません。この春に自分の命を絶ったお笑い芸人は、崇高な死を遂げた……僕はそう思っています。彼は──皆さんご存知のように、自分の病気を惜しんで亡くなったのです。でも、はかなんだのとは違う。彼は生き切った。彼は、その病気の予後が良くないということを知り、もう二度と人前に舞台に立つことはできないと知ったとき、この世から消えることを選んだのです。これが勇気でなくて何でしょうか? ──僕には勇気がない。彼には勇気がある。僕は、彼の死の後を追うことすらできない。妻の後を追えなかったように。僕はねえ? もう40年前に終わった人間なんですよ? 半年前にじゃない。一年前にじゃない。お笑い芸人が死んだ3ヶ月前にじゃない! 僕は彼が羨ましい! これだって崇高な気もちです。死にきれなかった僕が、たった1つ立派な気もちを残して逝くんです。これはねえ、レクイエムです。僕なりの追悼です、妻に対しての、お笑い芸人Xに対しての……」

 そこでRサンが噎せたので、医師の1人が比那に指示を出して、比那はRサンの背中をさすった。それから、ゆっくりゆっくり時間をかけて調子を回復させると、Rサンはその死の秘密について語り始めた。

 この3ヶ月の間、Rサンはずっと医師や看護師に隠れて煙草を吸っていた。Rサンのすでに限界を迎えていた肺は、見るまに弱っていった。

 Rサンは、弟からの差し入れと称して、ポテトチップスの袋に煙草とライターを忍ばせ、病棟内にこっそりと持ち込み、隠れてトイレでそれを吸っていた。

 Rサンの弟は、Rサンがすでにそれほど致命的に肺を病んでいることは知らずにいた。ただただ40年以上我慢した上での、老後を前にしたささやかな気晴らしのように思っていた。

 だから、Rサンの弟氏と妹氏の後悔の念を思うと、比那はRサンのことが許せなくなってしまう。唯一、亡き妻の妹氏だけは、「お兄さん、今までずっと我慢してきたから……」と言って、義兄の慰め役に回った。


 Rサンの死というのは、そんなものだった。Rサンは本当にあっけなく亡くなった。死後、検視解剖が行われたが、大方の予想に反して、その肺はとても綺麗で染みひとつ見当たらないようだった……

 葬儀は7月15日に行われた。

 比那を始めとして、病院関係者が何人か、Rサンの火葬に参列してその骨を拾った。

 X病院のなかで、Rサンの死は、その後「哲学者の死」として、尊厳死の一例として、語られることになった。それは……数年後のことである。Rサンの墓碑銘には(Rサンはキリスト教徒だった。だから、自ら命を絶つということができなかった……)、「市井の哲学者、ここに逝く」と、刻まれた。その墓碑銘に、Rサン自身が納得できたかどうか、当然のことながら、誰にも分からない。風の強く吹く、夏の暑い日だった……。

まあ、病院や医療関係者の描写はフィクションです。

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