2.哲学的患者
哲学的な患者と関わることになる比那。
比那は、病院に着くともともと薄着のTシャツは脱ぐことなく、その上から看護師の制服に着替えた。正看護師の制服は白、准看護師やアルバイトの看護師見習いの制服は青である。
ナースステーションから一番近い病室に入っていくと、そこには「Rサン」という初老の男性の患者がいた。この部屋には、ほかに「Sサン」「Kサン」という2人の患者がいて、あと1つのベッドは今は空いていた。
Rサンは、定年まで大学の文学部の教授をしていた人物である。彼の弟は、S市の市議会議員を6期務めた人物、彼の妹は、東京で写真家をしていた。
Rサンは、ノートに図表を描きながら、こんなことを言う、
「このごろまた体重が増えてきてね……。食べるべきか、食べざるべきか、それが問題なんだ」
看護師の多くは、
「またRサンたら、要するにダイエットしないといけないんでしょう? 食べすぎは逆に体にとっては毒なんですよ」
と、軽くいなそうとする。
それに対して、Rサンは、
「違うんだなあ、ソレが。わたしは食べ過ぎじゃないんだよ? これは純粋に哲学的な問題でね? この図を見てみたまえよ、ここが先週の時点でのわたしの体重、適正体重だ。ここが2週間前の時点でのわたしの体重、ちょっと軽いねえ。そして3週間前、ずっと軽くなっている。問題だねえ、問題だよ。標準体重よりも10キロも軽い。これは痩せすぎだよ、この年になるとねえ、痩せすぎは太りすぎより、なお悪いんだよ。気を付けなくちゃ。……しかしねえ、ここから2週間食事量を増やす、するとわたしはとたんに標準体重よりも10キロも太ってしまうんだ。食事量をまた減らして、わたしが標準体重に戻るのは、じつに4週間後だよ? わたしは、これを哲学的体重増減と呼んでいる」
「要するに、過食と拒食を繰り返すんですね? そういう人はいます」
「いや、違うね。これは純粋に、わたしという実存の問題なのだ。……君は、実存心理という心理学の分野を知っているかね?」
Rサンは、その指で消灯テーブルをトントンと叩く。
「いやだわ、Rサンたら!」
「はっはは。講義はまた今度にしよう。わたしもいささか疲れたからね……」
比那は、他の看護師のようにR氏を軽くいなすことはしない。
必ずていねいにその話を聞く。
「それで、Rサンは今日は食べたい気分なんですか? 食べたくない気分なんですか?」
「食べたくない気分だねえ。ほら見給え、わたしは過食ではないだろう? しかし、これからわたしの体重はだんだん増えていくんだ。これは確実だよ、もう4年もこんな状態を繰り返しているんだよ」
「そして、4週間周期で痩せたり太ったりするの?」
──比那は、「痩せたり」という言葉を先に持ってきた。Rサンとしても、そのほうが気もちが良いだろうと思えた。
「……違うね、8週間だ」
「あらあら!」
「太ってから痩せるまでが4週間、痩せてからまた太るまでがまた4週間だよ。君は、単純計算ができないかね?」
「私、アタマ悪いんですよ?」
その通りだった。比那は、数学の計算ができない。そして、人の話を注意深く聞くことも苦手だ……。
「おやおや、君は謙虚だねえ。いや、君が頭が悪いなんていうことはないよ。他の看護師さんよりもよほど頭が良い」
R氏は白髪のヒゲをゆらしてカラカラと笑った。
「看護師<サン>なんて……Rさんこそ謙虚ですわ」
比那もR氏にあわせて笑う。
そういう比那に対して、同僚の看護師たちは、
「穂口さんって本当に我慢強いよねえ、私なんて単純計算ができないなんて言われたら、それだけでぶち切れますよ?」
「やだなあ、切れませんよ? 私」
「だから、我慢強いんだって、比那ちゃんは」
そしてまた、比那はあいまいに笑う。そんなこんなで、比那の仕事は適度なストレスと適度な疲労とともに過ぎていく。
クセの強い患者です。




