侯爵令嬢、野生の香り(アロマ)を求めて裏路地を駆ける
侯爵家への陞爵が決まり、屋敷がバタバタと引っ越し準備に追われる中、私は確信していた。
「(……今日だ。今日を逃せば、私は一生、貴族の皮を被った『筋肉の囚人』として生きることになる……!)」
私の目的はただ一つ。王都の港湾区に生息する、労働という名の鍛錬で磨かれた**「野良マッチョ」**たちの、命の輝き(汗の匂い)をこの鼻腔に焼き付けることだ。
「お嬢様! どこへ行かれるのですか! 今日はマナー講師の先生が……」
「ふにゃぁ! サーシャ、止めないで! 私は今、『天然の乳酸』を摂取しに行かなければならないのですわ!」
私は驚異的な(虚弱ゆえの)低姿勢でサーシャの脇をすり抜け、ボロ布のようなマントを羽織って屋敷を脱出した。
王都港湾区。そこは重い荷を担ぐ男たちの野太い声が響く、筋肉の聖域だった。
「……ふふ、ふふふふ。見て、あの港湾労働者たちの僧帽筋。……魔法で膨らませたのではない、安価な麦パンと過酷な労働によって構築された『生活のバルク』。……あぁ、空気が美味しいわ。……塩気と、鉄分と、そして……男たちの熱気が混じり合っている……」
私は物陰に隠れ、激しく鼻をヒクつかせた。
【聖域ノート:野生の汗における成分分析】
Lactate_Concentration = (Delta_Work_Load / Delta_Recovery_Time) x Pheromone
嗅覚判定: 熟成されたゴーダチーズのような濃厚さと、焼けた鉄板のような香ばしさが同居している。……これよ、これこそが『生』の証……!
「……ふにゃあ。……もっと、もっと近くで、あの最高級の揮発性アミノ酸を……っ」
私は四足歩行(虚弱すぎて直立が持続できない)で、荷揚げ作業を終えて休憩している大男たちの背後に忍び寄った。
そして、彼らが脱ぎ捨てた汗だくのシャツに、文字通り「ダイブ」しようとしたその時。
「……何をしているんだい、君は」
聞き覚えのある、低くて甘い、しかし今はひどく冷徹な声が頭上から降ってきた。
「……ふにゃ!? ……ア、アレン王子!?」
そこには、お忍びの格好をしたアレン王子が、ゴミを見るような……いや、深い悲しみを湛えた目で私を見下ろしていた。
「リリアーナ。……君が『野生の香りを求めて脱走した』とサーシャから聞いて、まさかと思ったが……。本当に、他人の汗の匂いを嗅ごうとしていたのか? 侯爵令嬢が? この世で最も美しい少女が、地面を這って?」
「……ち、違いますわ。……私はただ、大気中に飛散した筋タンパク質の代謝産物を、化学的にサンプリングしようと……」
「それを世間では『匂いを嗅ぐ』と言うんだ!」
王子は私の脇を抱え、ひょいと持ち上げた(私は「ふにゃにゃにゃ」と脱力した)。
「……いいかい、リリアーナ。そんなに汗の匂いが好きなら、僕が今から王宮の演習場で十時間ぶっ通しで特訓してくる。……だから、知らないおじさんのシャツに顔を埋めるのはやめてくれ。僕のプライドが、大胸筋ごと粉々に砕け散りそうだ」
「……王子の汗は、なんだかフローラルな香りがしそうで、化学的な刺激が足りないのですわ……。私はもっと、こう、ゴリラのような……」
「君という人は、本当に……!!」
結局、私は王子によって「確保」され、そのまま馬車で屋敷へ強制送還された。
帰り道、王子は「僕も明日から、匂いの強いプロテインを飲むべきだろうか……」と深刻な顔で呟いていたが、私はそれどころではなかった。
「(……あぁ、あと数センチで、あの上腕三頭筋から滴る雫を『分析』できたのに……。……ふにゃぁ。……私の侯爵令嬢生活、幸先が思いやられますわ……)」
美少女の皮を被った「変態おっさん科学者」の野望は、王子の必死の阻止によって、今日もまた未遂に終わるのだった。




