第9話 氷の大広間と、宣告の声
帝国大広間は、いつもより冷たく見えた。
磨き上げられた白い大理石の床は、足音を硬く跳ね返し、
天井から垂れる巨大なシャンデリアは、星空の代わりに氷の光を振りまいている。
両脇に並ぶ帝国旗――いつもより、明らかに枚数が多い青。
(うん、“ただのお祝い”の空気じゃない)
さっきまで窓から見下ろしていた準備の光景が、
今は完成した舞台として目の前に広がっている。
全貴族招集。
帝国旗の増設。
皇族用高座の前には、ひときわ大きな紋章旗。
「皇太子殿下から、重大なご宣言があるそうですわよ」
「まあ、ご成婚の日取りかしら?」
「北方戦線への本格進軍かもしれんぞ」
あちこちで小さな声が弾ける。
フロナは、決められた位置で静かに立っていた。
皇太子の婚約者として、高座の斜め後ろ。
“飾り”として最も綺麗に見える角度。
(今日も、水色の飾りとしてのお仕事)
自分で自分にそうラベリングする。
水色の髪は、母が選んだ淡い青のドレスとよく馴染んでいた。
見た目だけなら、きっと完璧だ。
中身まで問われなければ、の話だけれど。
◆
やがて、ファンファーレが鳴り響く。
重い扉が開く音。
重圧を含んだざわめきが、一度だけ波のように広がり、すっと引いた。
「皇太子、セドリック・ハーグレイヴ殿下、ご入場!」
宣言とともに、青髪の青年が姿を現す。
完璧な微笑。整えられた軍装。
帝国の“青”を体現したような人。
(……綺麗)
その感想だけは、まだ変わらない。
胸の奥で何かにひびが入っていても、
目に映る姿の美しさまで変わるわけじゃない。
ただ今日は、その隣に――
以前にも増して堂々と、リリアーヌが立っていた。
炎のような赤いドレス。火の宝石を散らした首飾り。
「帝国の勝利」を絵に描いたみたいな組み合わせ。
(その位置、本来は“私のものだったはず”なんだけどね)
口に出すつもりはない。
心の片隅でだけ、ひっそりと流しておく。
セドリックとリリアーヌは揃って高座へ上がり、
フロナは数歩下がって、定位置で膝を折った。
◆
「諸君」
セドリックの声が、大広間に澄んで響く。
「本日は、急な招集にも関わらずこうして集まってくれたこと、感謝する」
ざわめきが静まり、視線が一斉に高座へ向く。
フロナは、その背中を見つめていた。
あの背中に、どれだけの未来を預けてきただろう。
(今日、何を選ぶつもり?)
構成魔導アーキテクトの頭が、無意識に可能性を列挙する。
――北方戦線の本格進軍宣言。
――帝国の新政策発表。
――あるいは、
(“皇太子妃”の話)
霊素の風が、ひゅう、と嫌な音を立てた。
「帝国は今、外に敵を抱え、内に不安定な要素を多く抱えている」
セドリックは、演説口調で続ける。
「だからこそ、民の前には揺るがぬ象徴が必要だ」
(……象徴)
胸の奥が、きゅっと縮む。
父や母の口からも、散々聞いてきた言葉だ。
皇太子の隣に立つ者は、
帝国の“顔”であり、“看板”であり、“宝石”であるべきだと。
「これまで私は、フロナ・ドレイクハルト嬢を婚約者として傍らに置いてきた」
名前が出た瞬間、
大広間の空気がわずかにざわめく。
「水色の髪を持つ公爵令嬢。
構成魔導の才と、霊素魔法の素養を兼ね備えた稀有な存在」
字面だけ切り取れば褒め言葉だ。
けれどフロナには、
その声色の温度が妙に低く聞こえた。
(これは――)
構成的に言うなら、“前置き”。
このあと放つ「本命の一撃」を、最も効果的に通すための布石。
◆
「だが――」
セドリックは、ゆっくりと言葉を区切った。
「私は、この数年で理解した」
短い沈黙。
「帝国の象徴に必要なのは、中途半端な“混ざり物”ではないということを」
ざわっ、と大広間が揺れる。
フロナの喉が、ひゅっと鳴った。
(混ざり物)
それは、ずっと彼女に付きまとってきた言葉。
青と銀のあいだで揺れる水色。
構成と霊素を詰め込まれて壊れた術式。
全部まとめて、「不吉な混ざり物」。
「フロナ・ドレイクハルトは、構成と霊素、二つの術式を与えられながら
いまだ実戦的な魔法を一つも放てぬ」
セドリックの声は淡々としていた。
「魔導試験では常に“未達”。
霊素制御試験では“不安定”の判定」
頭の中で、過去の評価票が自動再生される。
実技の“失敗”印。
教官たちの冷たい視線。
“期待外れ”というタグ。
(うん、事実だけどね……)
反論の余地は、ない。
だからこそ、ここで切り取られると致命傷になる。
「さらに、その髪色」
セドリックの視線が、はじめて真正面からフロナを捉えた。
それに釣られて、
大広間の視線が一斉に水色の髪に集まる。
「帝国は青髪のような純血の色を至上とする。だが彼女の髪は、中途半端な水色」
白い大理石の上で、水色だけが浮いて見える。
「古くから“混ざり物の色”と忌避されてきた色だ」
再びざわめき。
囁き声。
好奇と侮蔑と退屈が混ざった視線。
(その迷信、構成的には根拠薄いんだけど)
いつもの自分なら心の中でツッコんでいるところだが、
今日はもう、笑いに変換する余力がなかった。
◆
「私はこれまで、幼なじみとしての情から、彼女を傍らに置き続けてきた」
“情”という単語が、胸に小さく刺さる。
(……情、だったんだ)
──恋でも、誇りでもなく。
構成魔導の脳が、淡々と線を引く。
「だが、帝国の未来を考えれば考えるほど、私は理解せざるを得なかった」
セドリックは、隣に立つリリアーヌの手を取った。
「象徴には、“純粋な炎”が必要だと」
リリアーヌが一歩前に進む。
大広間の視線が、今度は彼女に集中する。
炎のような赤髪。
純血の火の家系。
昨夜見せた、誰もが息を呑む炎の舞。
「リリアーヌ・フレアライト侯爵令嬢は、帝国が誇る純血の火魔法使いだ」
セドリックの声に、誇らしさが混じる。
「彼女の炎は迷いなく、敵を焼き、民に希望を見せる」
(……私は?)
自分に向けられた言葉と、
リリアーヌに向けられた言葉の落差。
それが、これまでの年月の重さをあっさり塗り替えていく。
「フロナ・ドレイクハルトは、
構成に溺れ、霊素に振り回される“不安定な混ざり物”」
静かな断罪。
「帝国の象徴にふさわしいのはどちらか――言うまでもないだろう」
◆
(……ああ)
フロナは、どこか遠くから自分を見ているような感覚で思った。
(これ、“公開断罪”の組み立て方としては完璧だ)
前提の提示。
比較対象の導入。
片方の欠点の列挙。
もう片方の長所の強調。
そして、最後に結論。
構成魔導の観点から見れば、美しいほどの流れ。
本当に、心底どうでもいいところで才能を発揮しないでほしい。
そして今、
“結論”の番が来た。
セドリックはひとつ深く息を吸い、
大広間の空気がぴんと張り詰める。
「よって――」
彼はリリアーヌの肩を抱き寄せながら、宣言した。
「無能であり、不吉な混ざり物の色を持つ
フロナ・ドレイクハルトとの婚約を、ここに破棄する!」
その声は、氷の大広間の隅々まで突き刺さった。
ざわめきが、一気に爆発する。
「こんな場で破棄宣言を……!」
「しかし、殿下のお言葉にも一理ある」
「水色の髪、やはり不吉だったのね」
「構成と霊素を両方欲しがった結果がこれとは、皮肉なものだ」
耳を塞ぎたくなる声が、四方から降ってくる。
けれどフロナは、耳を塞がなかった。
(ちゃんと聞いておこう)
これは――
自分の夢が終わる音だから。
◆
セドリックの視線が、再びフロナを射抜く。
「フロナ」
名を呼ばれ、フロナは静かに膝をついた。
膝が崩れたわけじゃない。
身体が、礼儀として覚えている動きだった。
(最後くらい、“婚約者らしく”)
せめて形だけでも、矜持を守りたかった。
「殿下。このような場を設けられたこと――」
口がいつもの定型文を紡ごうとして、そこで止まる。
「……いえ。ご決断、承りました」
思っていたよりずっと、澄んだ声が出た。
震えも、掠れもない。
誰より自分が驚くくらいに。
「私が“混ざり物”であり、
帝国の象徴にふさわしくないと判断されたのなら――」
フロナはそっと顔を上げた。
水色の瞳がまっすぐにセドリックを捉える。
「その判断の結果は、今後すべて
“殿下ご自身の名のもと”に刻まれることとなります」
霊素の風が、ざわ、と揺れた。
(言った……)
心の中で小さく額を押さえる。
(今の、ほぼ“警告”だよね)
でも、もう取り消しはきかない。
セドリックは一瞬だけ眉をひそめ、
すぐに鼻で笑った。
「脅しか?」
「いいえ」
フロナは静かに首を振る。
「ただの“構成的な予測”です」
◆
「フロナ・ドレイクハルト」
セドリックの声が、今度は大広間全体に向く。
「お前は、これまでの行いをもってもなお
帝国の信頼に応えられなかった」
フロナは、彼の言葉から
「俺」や「私」といった主語が消えていることに気づいていた。
(もう、“セドリック個人”じゃない)
ここにいるのは、“帝国の顔”としての彼だ。
「無能であり、不吉な混ざり物の色を持つ者を
皇太子妃の座に据えるわけにはいかぬ」
無能。
不吉。
混ざり物。
その三つのラベルが、
今この瞬間、“公式なもの”として貼られていく。
(すごいな)
どこか他人事みたいな感想が浮かぶ。
(この一言で、“私という変数”が
帝国の公式記録上、完全にマイナス方向に固定された)
どれだけ裏で帝国を支えてきても、
それは誰の物語にも載らない。
――少なくとも、この場にいる人の認識では。
◆
フロナは、ゆっくりと立ち上がった。
膝は震えていない。
代わりに、指先だけが少し冷たい。
「殿下のご判断――
フロナ・ドレイクハルト、確かに承りました」
完璧な淑女の所作で、一礼する。
涙を期待している視線が、刺さる。
取り乱しを期待する視線も、刺さる。
でもフロナは泣かないし、縋らない。
(だって――)
胸の奥で、小さな声が囁く。
(私が愛してたのは、
もうここにはいない“理想の殿下”だから)
今、目の前にいるのは、
理想から外れた“ひとりの人間”。
その人が選んだ現実なら――
それも、受け入れるしかない。
構成魔導の頭が、静かに線を引いた。
◆
ふと、視線を感じて横を見る。
父ヴァルターは、無表情のままこちらを見ていた。
(“材料の質が悪い”と言いたげな顔)
母エリセは、扇子で口元を隠している。
(“みっともないことだけはしないで”って目)
助け舟を出す気配は、最初から一滴もない。
(これで、“家”からも距離ができるかな)
そんな考えが自然に浮かんできて、
フロナは自分で少し驚いた。
悲しみより先に、「解放」という単語が浮かぶとは思わなかったから。
◆
「では、ここに宣言する!」
セドリックの声が、最後の一撃へと向かう。
「私は、純血の火の魔法使い
リリアーヌ・フレアライト侯爵令嬢を――」
その先の言葉は、まだ正式には口にされていない。
けれど、大広間にいる誰もが続きを知っていた。
皇太子妃。
新たな婚約者。
帝国の象徴。
(ここで、私の役目は完全に終わる)
フロナの番は終わり、リリアーヌの番が始まる。
構成魔導の頭が、次の数手先を描こうとした、そのとき――
視界の端で、白い紙束がふと揺れた。
(……あれ)
脇の扉から、侍従たちが何かを運び込んでいる。
厚く綴じられた書類の山。
見覚えがありすぎる装丁。
(私が夜なべして作った、構成魔導の予測書……)
兵站の最適化。
食糧流通の再設計。
税率と暴動リスクの相関。
“殿下のために”と作り続けてきた未来図。
それが今、大広間の中央近くに静かに積まれていく。
その横へ、リリアーヌが歩み寄る。
指先に、小さな炎が灯る。
(ああ――)
まだ起きてもいない光景が、
信じられないほど鮮明に脳裏に浮かぶ。
燃え上がる紙束。
炎に照らされたセドリックの横顔。
そして、自分の中で何かが完全に終わる音。
(終わり、まだ先があったんだ)
フロナは、自分の心にまだ残っていた
“最後の甘さ”が焼かれていく気配を覚える。
「――フロナ・ドレイクハルトとの婚約を破棄し、
帝国は新たな象徴と共に歩む!」
セドリックの宣言が、氷の大広間に突き刺さる。
その足元で――
まだ火のついていない紙束が、静かに積まれていた。
フロナの知らない未来と、
フロナだけが知っている破滅の未来が、
今、同じ場所に並べられている。
◆
(殿下)
フロナは、心の中で最後にもう一度だけ呼びかける。
(これが、あなたの選んだ“最適解”?)
答えは、鐘の余韻とざわめきに紛れて戻ってこない。
ただ、霊素の風だけが
ひどく冷たく、ひどく静かに吹いていた。
――あの紙束が炎に飲み込まれるその瞬間まで、
フロナの心は、ぎりぎりの場所で立ち続けることになる。




