第8話 終わりそうな夢のかたち
翌朝の宮廷は、相変わらず規律正しく動いていた。
侍従の足音、紙の触れ合う音、澄んだ鐘の余韻。
まるで昨日も、昨夜も、何ひとつ変わらなかったかのように。
(……壊れてるの、私だけか)
皇太子執務室の机に書類をいくつも並べながら、
フロナはぼんやりと、そんなことを思う。
指は迷いなく紙を整理し、印章欄にしおりの魔素を忍ばせる。
構成魔導アーキテクトの仕事は、もう反射だった。
軍の補給線。穀物流通。税率の微調整。
小さな数字の積み重ねが、帝国の足元を支えている。
(これ全部、殿下のためって思ってやってきた)
その前提に、初めてぐらりと疑問が刺さる。
(……本当に、全部?)
◆
「フロナ! 今日も仕事が早いな!」
勢いよく扉が開いて、あの声が飛び込んできた。
セドリック。
帝国の青髪が朝日を跳ね返し、室内が一瞬明るくなる。
「おはようございます、殿下」
声は、いつも通り落ち着いていた。
自分で不思議なくらいに。
「今日の予定は? 例の書類、出してくれたか?」
「はい、こちらです」
フロナは淡々と書類の束を差し出す。
「北方補給線の再編案と、中央倉庫の在庫調整です。
どちらも殿下の御決裁をお待ちしています」
「最高だな、ほんと助かる」
セドリックはいつもの調子で笑った。
その笑顔が好きだった。
胸の奥がふっとほぐれた日もあった。
……でも今は、少し遠い。
(“助かる”って言葉も、
聞こえ方が変わるんだなあ)
今の自分の中に残っているのは――
セドリックではなく、帝国を守りたいという感覚。それだけ。
◆
「おはようございます、殿下。フロナ様」
遅れて入ってきたのは、完璧な赤。
リリアーヌ・フレアライト。
炎の加護を纏った純血の侯爵令嬢。
ここ最近は、朝の執務室に彼女がいるのが当たり前になっていた。
「おはよう、リリアーヌ。
今日も“明るい話”頼むよ」
「もちろんですわ、殿下」
二人のやりとりが滑らかに噛み合う。
フロナは、その横で静かに資料をまとめる。
昨夜、聞いてしまった言葉が
どうしても脳裏から消えない。
『顔だけはいいから飾っておくにはいいが、妃としての価値はない』
(……飾りとしても、最近出番ないけどね)
皮肉が浮かんで、乾いた笑いが喉の奥にこびりついた。
◆
「フロナ?」
名前を呼ばれ、肩がびくりと跳ねた。
「は、はいっ」
「ぼんやりしているぞ。寝不足か?」
セドリックが軽く覗きこむ。
青い瞳に映った自分は――
薄い影だ。
(便利な幼なじみ。陰の補佐。……それが今の立ち位置)
もう、名前に期待しないように心が動く。
「少し、眠りが浅かったようです」
「働きすぎだ。ほどほどにしておけよ」
(それ、子どもの頃に言ってほしかった)
胸の中で崩れて、跡形もなく溶ける。
「では殿下。倉庫の在庫推移を確認して参ります」
「頼んだ」
セドリックはすぐにリリアーヌへ視線を戻した。
炎と笑顔のペアは、今日も眩しい。
◆
(……逃げたな)
不要な確認だと自覚しながら、
フロナは廊下へ出た。
誰もいない渡り廊下。
霊素の風が、涼しく頬を撫でる。
それなのに、胸の奥のざわめきは鎮まらない。
「整理、しなきゃ」
ぽつり、声が零れた。
「構成魔導みたいに……
全部いったんバラして、見るところから」
窓辺に腰を下ろし、膝を抱える。
水色の髪が、ひとしずく揺れた。
◆
(まず最初に置く前提は――)
心の中に黒板を浮かべ、大きく書く。
> **私はセドリック様を愛している**
間違いない。
事実そのもの。
(でも、その“愛”の形は?)
幼い日の記憶が蘇る。
泣きながら構成式を書いていた自分に、
『フロナ、君は特別だ』
その手を差し伸べた少年。
(あれで私は救われた)
存在理由ができた。
だから決めたのだ。
(殿下が正しい場所に辿り着けるなら、
私は影でも、道具でも、何でもいい)
それがフロナの“役割”だった。
◆
(でも今の殿下は――)
黒板に、現実のセドリックを並べて記述する。
炎を選ぶ。
風の声を嫌う。
暗い数字を拒む。
そして。
『飾っておくにはいい』
(……私が知ってた殿下と、違う)
理想と現実の一致率。
構成魔導が無慈悲に弾き出す。
(たぶん、半分ない)
「そっか」
呟いた声は、驚くほど落ち着いていた。
「私が愛してたのって――
現実の殿下じゃなくて」
窓の向こう、広がる空。
「**私が勝手に作った理想のセドリック様**なんだ」
◆
認めた瞬間、胸が少し軽くなった。
(だからあんなに傷ついたんだ)
理想にしてきた姿から外れた言葉を聞いて、
心の奥で組んでいた“未来図”が崩れてしまった。
(現実の殿下は――
光る人だけど、影もある)
そこを見ないふりをしていたのは、自分だった。
「面倒くさいなあ、私」
自嘲の笑いが落ちる。
「勝手に設計図を作って、
そこに殿下を押し込めようとしてた」
それを愛と呼んでいた。
違和感に目をつむって。
◆
「じゃあ――今の私は殿下を愛してる?」
問いを立てて、自分に向けて放つ。
ひと呼吸。
「……まだ好きなんだと思う」
拗らせてもなお残る情は、簡単には剥がれない。
「でももう、**信頼してるか**って言われたら――」
言葉が喉の奥で震えた。
「――**違う**」
きっぱりと声に出した瞬間、
胸の奥でひび割れていた何かがぱきんと砕けた。
理想像が消えた空間に、現実が落ちてくる。
(殿下を中心に置く必要は、もうない)
◆
霊素の風が、そっと頬を撫でる。
まるで、「それでいい」と囁くように。
(帝国はまだ好きだ)
構成が見せる国の血流。
霊素が伝える大地の息づかい。
それは、セドリックとは関係なくフロナの大切なもの。
「民が飢える未来は絶対に嫌」
ゆっくりと立ち上がる。
「殿下がどう動くにせよ、
私は私の“最適解”を選ぶ」
やっと、そう言えた。
◆
その瞬間――
遠くの中庭からざわめきが起きる。
視線を向けると、
侍従たちが帝国紋章の大旗を大広間へ運び込んでいる。
見覚えのある光景。
(全貴族招集。
重大発表)
フロナの周りの霊素が、鋭く鳴いた。
(――来る)
残酷な未来へ続く裂け目が、確かに口を開け始めていた。
「セドリック様」
ここにはいない愛しい人の名前を、
思わず呼んでしまう。
「それ、誰の未来図?」
父の理論でも、母の虚栄でもなく。
フロナが描いた理想でもなく。
今のセドリックが、自分で選ぶ現実。
それが、彼女の恋の最終判断になる。
◆
「限界、近いな」
小さな呟き。
でもそこには、昨日までになかった芯が宿っていた。
フロナは執務室へと歩き出す。
水色の髪が、迷いを捨てたように軽く揺れた。
その背中は、ほんの僅か――
セドリックという重力から離れ始めていた。
このあと起きる大広間の出来事が、
その距離を容赦なく断ち切るとも知らずに。




