第7話 親の理論と、娘のバグ
夜会の翌朝、ドレイクハルト公爵家は、いつも通り静かだった。
庭の噴水は、決められた高さで一定のリズムを刻み、
剪定された木々には、余計な枝ひとつ見当たらない。
鳥のさえずりすら、誰かが構成魔導で配置したんじゃないかと思うほど、整った「静けさ」だった。
その中で、フロナの足音だけが、ひどく場違いに響いている気がした。
(……眠れてない顔、バレてないといいけど)
鏡を見る勇気はなかった。
せめて、と水色の髪だけはいつも通り整えてある。
混ざり物で役立たずの色だと蔑まれてきたその色を、今日はいつもよりきっちりまとめた。
それだけが、ぎりぎりの見栄だった。
向かう先は一つ。
屋敷の奥、魔導研究室。
◆
「父様。少し、お話ししたいことが」
分厚い扉を二度叩くと、
すぐに中から、聞き慣れた低い声が返ってきた。
「入れ」
軋む音とともに扉を開けると、
冷たい魔素灯に照らされた、壁一面の式と図面が目に飛び込んでくる。
積み上がった魔導式の紙束。
魔素循環モデルの立体図。
人の気配より、数字の方がよほど濃い部屋。
その中心に立つのが、ヴァルター・ドレイクハルト。
帝国随一の構成魔導の権威であり、
青髪の公爵であり――
そして、フロナを「究極の演算機」にしようとした張本人だった。
「珍しいな。お前から私の時間を要求するとは」
父は視線を式から離さないまま言う。
「魔素循環の新モデルなら、そこに資料を置いておけ。後で見る」
「いえ。今日は、そのことでなくて」
フロナは、胸の奥でそっと息を整えた。
(聞くだけ。ちょっとだけでいいから、確かめたい)
「私の、魔法のことです」
ペンの動きが止まる。
紙の擦れる音も、魔素灯のわずかな唸りも、一瞬だけ遠くなった。
「……今さら何だ」
「父様。私が“魔法を放てない”のは――」
何度も頭の中で並べ直した言葉を、ひとつずつ口に出す。
「二つの術式が互いに干渉しあっているからではないでしょうか」
構成魔導アーキテクトと、霊素魔法エーテル・フェアリー。
理論と感覚。
規則と揺らぎ。
「構成の式と、霊素の流れ。どちらも単体なら感覚できます。
でも、同時に動かそうとすると――必ずどこかで“絡まる”んです」
フロナは、指先で小さな光の粒を描いてみせた。
片方の手で構成式、もう片方で霊素の粒子。
ふたつの軌跡が触れ合った瞬間、ぱちん、と不穏な音を立てて弾ける。
青と銀がぐしゃりと押し潰され、煤けた霧になって消えた。
「こうやって。
それが私の“呪い”なんだと思います」
ヴァルターはようやく顔を上げた。
冷たい青の瞳が、娘を値踏みするように細められる。
「……つまり、それが“できない理由”だと言いたいのか?」
「理由、というより構造です」
フロナは、自分の胸元あたりを押さえた。
「私という器に、二つの術をそのまま詰め込んだから、内部で競合が起きている。そんな感覚です。
もし術式を分離できれば――」
言葉を選びながら続ける。
「構成を使うときは霊素を静めて、霊素を使うときは構成式を休止させるような仕組みがあれば、少しは――」
「お前は、自分の無能を“理論の欠陥”のせいにしたいのか」
ばっさりだった。
頭から真っ二つに斬られたような感覚。
「ち、違います。父様の理論が間違っているとは――」
「間違っていない」
ヴァルターは椅子から立ち上がり、
壁一面の魔導式を、誇らしげに顎で示した。
「構成魔導の理論は完全だ。
霊素魔法など、本来は“誤差の塊”にすぎない」
(誤差って言い切っちゃうあたりが、父様らしいけども)
喉まで出かかったツッコミを、フロナは飲み込む。
「お前に二つを叩き込んだのは、両者を統合する“証明”のためだ」
ヴァルターの瞳に、わずかな熱が灯る。
「世界は数式で記述できる。
ならば霊素の揺らぎも、いずれ構成で押さえ込める」
「……“押さえ込む”のが、正しい形なんでしょうか」
口が、勝手に動いた。
「精密に枠を作ることと、揺らぎを殺すことは違うと思います」
ヴァルターの目が、カチリと冷たさを増す。
「フロナ」
名を呼ぶ声音に、
幼い頃から馴染んだ圧が宿っていた。
「お前は“演算機”だ。感情で理論を語るな」
心臓が、どくんと強く打つ。
「お前の魔法がうまくいかないのは、二つの術式がどうこうではない」
淡々とした声が続く。
「お前の努力が足りないだけだ。
構成を完璧に理解すれば、霊素などねじ伏せられる」
それは、何度も聞かされてきた決め台詞だった。
十歳の頃から、睡眠時間を削り、吐きながら式を回していた少女に向かって放つには、なかなかの台詞だと思う。
(はい出た、“努力不足”)
しかしそれも、心の中だけで呟く。
「……父様。私、自分が“壊れている”自覚はあります」
夜会で、セドリックに不良品と評された夜から。
その言葉は、もう心のどこかに根を張っている。
「でも、それが全部“努力不足”だと言われるのは、さすがに――」
「事実だ」
ばっさり二回目。
「お前に施した教育は、帝国最高峰だ。教師も、教材も、時間も」
ヴァルターの声には、わずかな苛立ちが混ざる。
「それでなお結果が出ないなら――
原因はお前自身にあると考えるのが、最も合理的だ」
「“設計ミス”の可能性は?」
言ってから、自分でも驚いた。
父の理論に正面から疑問を投げたのは、
もしかすると初めてかもしれない。
一瞬だけ、ヴァルターの表情に「意外」という色がよぎる。
けれど、すぐに消えた。
「……フロナ」
彼は静かにため息をついた。
「感情が混ざると、お前はすぐ馬鹿になるな」
石を投げつけられたような言葉だった。
「設計に問題はない。私の理論に穴はない。
“失敗作”が出たとすれば、それは材料の質の問題だ」
材料。
(今、さらっと娘を材料って言ったよね?)
「お前は稀有な資質を持っている。
しかし同時に、脆い。想定した出力まで到達できなかっただけだ」
「それって……」
(やっぱり“壊れた試作品でした”って意味では?)
喉がうまく動かない。
言葉が、胸のあたりで詰まる。
「父様。
私、“正しく壊れてる”ってことですか?」
「壊れているかどうかは問題ではない」
ヴァルターは再び机上の式に視線を戻した。
「重要なのは、結果だ。
お前がいつか構成を完全に体得し、霊素の揺らぎをねじ伏せてみせれば――」
「“ああ、私の設計は正しかった”って、父様の証明になる?」
静かな声で問いかける。
ヴァルターは、答えなかった。
――答えなかったことが、答えだった。
◆
「……わかりました」
フロナは、形だけ頭を下げた。
足元が、少しだけふわふわする。
床に立っている感覚が薄い。
「私の努力が足りない。
そういうことにしておきます」
これ以上ここで何を言っても、式は一つも書き換わらない。
ヴァルターの世界は、すでに完成した数式で埋まっている。
そこに「フロナ」という変数はあっても、“ひとりの娘”としてのフロナは存在しない。
(父様にとって私は、まだ“証明が完了していない定理”みたいなものなんだろうな)
そんな予感が、妙に冷静に胸に落ちた。
「失礼します」
研究室を出ようとしたとき、背中にひとつだけ言葉が飛んできた。
「次の試験までに、この式を頭に入れておけ」
壁から剥がされた、新しい魔導式の紙束。
フロナは振り返らずに扉を閉めた。
◆
次に向かったのは、母エリセのサロンだった。
レースのカーテン越しに柔らかな光が差し込み、
香り高い茶葉の匂いがゆるやかに広がる部屋。
窓辺の椅子に座るエリセは、いつも通り完璧だった。
銀髪は一筋乱れず、
姿勢は絵画のようにまっすぐ。
帝都の貴婦人たちが憧れる「理想の令嬢像」を、そのまま大人にしたような人。
「まあフロナ。顔色が悪いわね。夜会で飲みすぎたの?」
「……飲めるほど、余裕はなかったわ」
エリセの視線が、娘の全身を一瞬でなぞる。
裾の長さ、姿勢、指先の動き――すべて査定されているような感覚。
「ドレスは似合っていたわ。
水色の髪と合わせるなら、もう少し淡い色でもよかったけれど」
(色の話から入るの、母様らしいな……)
「母様。私の魔法の話をしてもいい?」
そこだけは、はっきり言った。
エリセの手が、ぴくりと止まる。
「今さら何の話?」
「父様は、“構成を極めれば霊素をねじ伏せられる”って言ったの」
フロナは、心の中で組んだ疑問をそのまま口にする。
「でも霊素魔法って、本来“押さえつけるもの”じゃないわよね?
流れを感じて、寄り添って、導くものじゃなかった?」
エリセは、少しだけ眉をひそめた。
「そう教えたつもりだけれど」
「私の中では、その二つがずっと喧嘩してるの。
構成の枠で霊素を締めつけると、霊素が暴れて構成を壊そうとする」
指先に、再び小さな光を集める。
青と銀の粒子が触れ合った瞬間、今度もやはりぐしゃりと潰れた。
「これって、やっぱり“詰め込みすぎた”からじゃない?」
エリセはしばらく黙っていた。
その沈黙に、フロナはほんの少しだけ期待してしまう。
(もしかしたら、“そうね、ごめんなさい”って
一言くらい――)
「……フロナ」
母の声は、ひどく静かだった。
「そういう“みっともない失敗”を、人前でしないでって、何度言ったかしら」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「違うの、母様。これは失敗を見せたいんじゃなくて――」
「言い訳は聞きたくないの」
エリセは、優雅にため息をついた。
「霊素魔法は、心の鏡よ。
うまくいかないのは、心が濁っているから」
「心が……濁ってる」
「不安、恐れ、劣等感。
そういうものを抱えたまま魔法を使えば、霊素はあなたから離れていくわ」
エリセは、見えない埃を払うような手つきをした。
「あなたが“壊れている”と感じるのだとしたら――
それは術式の問題ではなく、あなた自身の内面の問題よ」
(はい出た、“心の問題”)
フロナは内心で、乾いた拍手を送る。
「じゃあ、構成と霊素を同時に叩き込んだのは?」
「その方が“完璧な宝石”になると思ったからよ」
エリセは、悪びれる様子もなく言った。
「理論も感性も兼ね備えた令嬢。
帝国の誰もが羨むような才女。
そうなれば、あなたは常に“選ばれる側”に立てる」
「……誰に?」
「皇太子に決まっているでしょう」
当然のように返されて、フロナは言葉を失う。
(今、その皇太子様から“不良品”って言われてきたばかりなんだけどな……)
「今さら“壊れていました”なんて言ったら、どうなると思う?
どれだけ噂になるか、想像できるでしょう」
エリセの声が、わずかに強くなる。
「これはあなたのためでもあるのよ。
自分から傷を見せて回るなんて、愚かだわ」
「でも、壊れているなら直したくて」
「直す必要なんてどこにあるの?」
即答だった。
フロナは、思わず目を瞬く。
「あなたは十分美しくて、
十分“皇太子の婚約者らしく”育っている」
「魔法は?」
「人前で盛大に失敗さえしなければいいわ」
エリセは軽やかに笑う。
「構成の細かい話は父様に任せておきなさい。
霊素がうまく扱えないなら、その分、立ち居振る舞いを磨きなさい」
「……中身は?」
「中身が見える距離に、あなたを近づける必要がどこにあるの?」
その一言で、
フロナの中で何かがすっと冷えた。
◆
「母様は、私が“どういう気持ちで”殿下の隣に立っているか、考えたことはある?」
自分でも驚くほど静かな声だった。
エリセは、少しだけ目を細める。
「愛情の話なら聞きたくないわ」
即答二回目。
「娘が恋で人生を台無しにする話には飽き飽きしているの。
あなたには“正しい位置”に立ってもらうだけでいいのよ」
(正しい位置=飾り)
言葉にしなくても、意味は痛いほど伝わる。
「……そう」
フロナは立ち上がった。
「ありがとう、母様。だいたい、わかった」
「何が?」
「私がどういう“前提条件”で設計されたのか」
水色の髪が、静かに揺れる。
「父様は“理論の証明”が欲しくて、
母様は“完璧な宝石”が欲しかった」
小さく笑ってみせる。
「そこに“私自身”が入る余地は、最初からなかったんだね」
エリセは、何も言わなかった。
言い訳も、否定も、謝罪も。
そのどれも、口にされることはなかった。
◆
屋敷の廊下に出ると、
霊素を帯びた風が、ひゅう、と肌を撫でた。
(……セドリック様にも“不良品”って言われて、
父様には努力不足と材料の質の問題って言われて、
母様には心が濁ってるって言われて)
頭の中で並べてみると、なかなか見事なフルコンボだ。
「笑えないジョークだなあ、これ」
苦笑が漏れる。
(でも――)
胸の奥は、もうあまり痛くなかった。
痛みが一定を超えると、逆に感覚が麻痺するのかもしれない。
(ここまで揃って“お前が悪い”って言われると、逆にちょっと冷静になる)
構成魔導の頭が、勝手に動き始める。
セドリック。
父。
母。
三者の言葉と行動を並べ、共通点と差異を整理する。
(みんな、自分の“理想のフロナ像”しか見てない)
皇太子の婚約者としてのフロナ。
究極の演算機としてのフロナ。
完璧な宝石としてのフロナ。
(そこに、“私が私としてどう生きたいか”は入ってない)
その事実に気づいた瞬間、
胸の奥で、何かがひっそりと音を立てた。
――多分、期待だ。
誰かに理解してもらえるはずだという、かすかな期待。
(まだ、セドリック様は違うと思ってた)
昨夜の夜会で、
その期待にはかなり大きなヒビが入った。
けれど今、両親の言葉を聞いてしまったあとでは――
(……あまり、変わらないのかもしれない)
そう思ってしまった自分が、一番怖かった。
◆
「……疲れた」
廊下の端の窓辺に、そっと背中を預ける。
外の庭は、相変わらず美しい。
噴水の水飛沫も、花壇の色合いも、
「誰かの理想通り」にきっちり配置されている。
(私も、その一部のつもりだった)
みんなが描いた理想の中に、自分を合わせて。
そこに収まっていれば、それが幸せだと信じていた。
「でも、その“幸せ”って、誰のためのものだったんだろう」
ぽつりとこぼれた独り言は、
霊素の風にさらわれていく。
(父様のため? 母様のため? セドリック様のため?)
ひとつだけ、欠けている名前があった。
(“私自身のため”って選択肢)
そこに思い当たったとき、
胸の奥で何かが、ゆっくりとひび割れ始める。
まだ崩れはしない。
けれど、確実に限界が近づいていた。
(……このまま行ったら、どこかで全部壊れるな)
構成魔導の脳が、
自分の心の未来図を勝手に描き始める。
予測結果は、あまりにも見たくないものだった。
「せめて、壊れる場所くらいは自分で選びたい」
フロナは、小さくそう呟いた。
それが、
彼女が精神的な限界に到達する前夜の宣言になっていることに、
このときのフロナは、まだ気づいていなかった。




