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第5話 不吉な数字と、信じてほしい人

 季節は、本来なら豊穣を運んでくるはずの初夏だった。


 帝都の市場では、陽光をたっぷり吸った若木の果実が青いまま輝き、

 焼きたての香りを誇るパン屋の前には、今日も変わらない行列ができている。


 一見すれば、帝国は満ち足りている。


 ――にもかかわらず。


「……嫌な形してる」


 皇太子執務室の片隅で、

 フロナは光式に描かれた一本の曲線をじっと見つめていた。


 帝国全域の穀物流通を、構成魔導アーキテクトで解析し、

 入庫量と消費量、戦備と民生のバランスを三ヶ月先まで“組み替えた”結果。


 滑らかだった線は、ある地点を境にするすると沈んでいく。


「ここから先、三ヶ月目で……がくん」


 指先で谷をなぞると、光のひとふりが揺れた。


 単なる不作なら、まだ打つ手はある。

 気象の揺らぎなら、霊素の風に耳を澄ませば方向が読めた。


 けれど、これは違う。


 隣国との小競り合い。

 貴族商会による買い占め。

 雪解けを待たず出立した輸送隊の損耗。

 街道の一部区間での魔素枯れ。


 すべてが細く絡まり、静かに積み上がる“欠乏”。


(このままなら――

 パンが、庶民の食卓から順番に消えていく)


 構成魔導は、数字という網で未来の影を掬い取る術。

 霊素魔法エーテル・フェアリーは、大地と空気に宿る気配から行く末を嗅ぎ分ける術。


 両方が同じ言葉を告げている。


 ――腹を空かせた人の声が増える。


 背筋が、すうっと冷えた。


「……殿下に、言わなきゃ」


 喉の奥で、恐怖と義務と愛情が絡まる。

 それでも言葉にせねばならない。


(嫌われてもいい。

 殿下の治世が崩れるくらいなら)



「食糧危機?」


 書類の山の向こうから、セドリックの声が返ってきた。


 笑っていない。

 だが、深刻にもなっていない。


 ――困惑。

 その言葉がぴたりとはまる表情。


「正確には“危機の予兆”です」


 フロナは光式を展開し、帝国の地図の上に曲線を重ねる。


「ここ半年の流通がこれ。

 そして今後三ヶ月の推移がこちら。

 このまま輸送と備蓄の再編を怠れば――」


「待て待て待て」


 セドリックが片手を上げて制す。


「数字ばかり並べられても頭が痛くなる。

 要するに、どうなるって?」


「帝都からパンが消え始めます」


 静かに告げた。


「次に地方都市。

 そこで買い占めが起こり――」


「不吉なことを言うな」


 今度ははっきり、拒絶の響き。


 胸の奥で、なにかが小さく崩れた。


「殿下。これは“不吉”ではなく、“予測”です」


「同じことだ」


 短い言い捨て。


「帝国の未来を担う者が暗い話ばかりしてどうする。

 民が聞けば不安になる」


「だから民に言う前に言っているのです」


 噛みしめるように言う。


「対策を講じていただきたいのです。

 今なら間に合います。

 備蓄倉の配置を変え、輸送路を再編すれば――」


 セドリックは数字の壁を見、

 そしてすぐに目を逸らした。


「こういうのは、よくある杞憂だろ?」


「杞憂なら、それでいいのです」


 間髪入れず返す。


「起こらなかったら笑い話で済みます。

 けれど――起きてしまったら、笑えないのは殿下です」


 本音はもっとずっと深かった。


(殿下の名が飢えと共に語られる未来なんて耐えられない)



 ノックが響き、空気が変わった。


「失礼いたします、殿下」


 暖色の声。

 リリアーヌが炎の気配をまとって入ってくる。


「軍議、お疲れさまでした。

 皆さま、殿下の決断に大変感動しておりましたわ」


「そうか。ありがとう、リリアーヌ」


 浮かぶ笑み。

 ついさっきまで険しさを見せていた顔とは別物。


 フロナは光式を指で閉じ、数字を散らせた。


(タイミングが悪かっただけ。

 違う、邪魔に感じたわけじゃない)


 ――そう言い聞かせる声が、心の端で震えている。


「……何か話していらしたのですか?」


 リリアーヌの視線が書類に触れる。


「食糧危機の話だ」


 セドリックが簡潔に答え、フロナの心臓が跳ねる。


「フロナが、飢えがどうとか――」


「危機の“予兆”です」


 割り込む声は少しだけ必死だった。


「今なら避けられます」


「まあ……」


 リリアーヌの顔に、一瞬だけ陰。


「殿下の近くで“不吉な話”をされるのはよろしくないですわ。

 言葉は想像を呼びますもの」


(それは、わかってる……でも)


 フロナは飲み込めなかった。


「だからこそ、事前の対策が必要です」


 押し返すように言葉を投げる。


「“殿下が備蓄を増やし、輸送を整えた”と布告すれば、

 民は強い帝国を感じます」


 セドリックは唸る。


「でもなあ……」


 リリアーヌが一歩進む。

 炎の粒子がゆらりと揺れた。


「殿下がお見せになるべきは数字ではなく――」


 指先に灯る、小さな炎の花。


「こうした、“力”ですわ」


 ぱあ。


 庭園の紅蓮とつながるような光。


(綺麗……)


 本心が零れる。

 妬みを押しのけるほどの、本物の感嘆。


「俺は、そっちを見せたいな」


 セドリックの言葉が決定打になった。


「フロナの帳簿を説明するより、

 リリアーヌの炎で“帝国は強い”って証明するほうが早いだろう?」


 理屈は理解できる。

 でも未来を見ているフロナには、あまりに浅く見えた。


「殿下。

 炎は、パンにはなりません」


 静かな声。


「物流も倉庫も、人の手配も。

 帝国を支えているのは、見えない土台です。

 それが崩れれば、火を眺めてもお腹は満たされません」


 セドリックの眉が険しくなる。


「……フロナ」


 名前に鋭い重みが宿る。


「君は昔からそうだ。

 慎重すぎて、前に進ませてくれない」


「心配しているからこそ、進んでほしいんです」


「それに――」


 横に視線を流す。


「リリアーヌが不安になるだろう?

 俺のそばには、明るい話だけ置いておきたい」


(その“明るい世界”に、私はもういない)


 胸が、冷たく締め上げられる。


 でも、それでも伝えたかった。


「……殿下」


 フロナは光式を再び開き、

 ひとつだけ“殿下でも理解できる形”に変えた。


 赤く点滅する、パンのアイコン。


「三ヶ月後。

 ここから、崩れ始めます」


 セドリックのまつげが、わずかに震えた。


「不吉なことを言うなと言ったはずだ」


「だから――“かもしれない”です」


 最後の語尾だけ弱める。

 追い詰めたくなかった。


 愛しているから。


「もういい」


 ぱん、と音を立て、光式が払い落とされる。


 数字は砕け散り、消えた。


「今日は演習の準備がある。

 暗い話は後だ」


 リリアーヌが寄り添う。

 青と紅。映える色が並ぶ。


 そこに、水色はなかった。



 執務室を出た瞬間、足がかすかに震えた。


(……やっちゃったな)


 わかっている。

 嫌われるリスクがあるのに、言ってしまったこと。


(でも、言わなきゃもっと後悔する)


 深呼吸して、頭の中で再び式を組む。

 霊素の風を読み、手を動かす。


 殿下が動かないなら、自分が動くしかない。


 辺境倉庫への“偶然の追加配送”。

 裕福な商会への“ささやかな抑制”。

 できる範囲で滞りを散らす。


(少しでも――持たせる)


 それが、今の自分にできる精一杯。


(殿下が気づかなくても、

 私は帝国を守る)


 それが献身であると信じていた。



(お願い。どうか外れますように)


 霊素の風は、答えを持たない。

 ただ、かすかに不安げに揺れていた。



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