最終話 地図の読み方
春のヴァルシュタインは、穏やかだった。
山から流れる風はやわらかく、
畑には新芽が並び、
街道を行き交う馬車の数も、年々増えている。
かつて「辺境」と呼ばれた土地は、
今や、どこへ行くにも通り道になる場所だった。
◆
「ここから、川は二つに分かれます」
フロナは、地面に広げた地図を指差す。
集まっているのは、十人ほどの子供たち。
年齢も、出身もまちまちだ。
「右に行くと港町。
左に行くと、山の集落」
子供の一人が首をかしげる。
「じゃあ、どっちが正解?」
フロナは、少し考えてから答えた。
「正解は、ありません」
子供たちが一斉に顔を上げる。
「どこへ行きたいかで、
選ぶ道が変わるだけです」
少し離れた木陰で、
カイが腕を組んでその様子を見ていた。
剣は腰にあるが、
今では飾りに近い。
フロナが子供たちに囲まれている姿を見るたび、
彼は、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……相変わらず、人気だな」
授業が終わり、子供たちが走り去ったあと、
カイがそう言う。
「そうだと嬉しいわ。」
「私はあなたのように、睨まないからかな?」
フロナは冗談めかして返す。
「俺の目付きが悪いのは、どうしようもないからな〜」
「フロナがもし睨んだら、子供たちは泣くぞ」
「それは困りますね」
二人は、顔を見合わせて笑った。
地図を丸めると、
フロナはふっと息を吐いた。
「少し、疲れました」
その言葉に、
カイは即座に彼女の隣に立つ。
「無理しすぎだ」
「無理はしていません。
でも……今日は、甘えたいです」
その言葉に、
カイは一瞬、目を瞬かせる。
そして何も言わず、
フロナの肩に自分の外套をかけた。
「……はいはい」
口調はぶっきらぼうだが、
動作はひどく丁寧だった。
二人は並んで丘を登った。
歩幅は、自然と揃っている。
フロナは、そっとカイの腕に触れた。
確認するように。
カイは、嬉しそうに、
わずかに距離を詰めた。
それだけで、
フロナの胸の奥が温かくなった。
「ねえ、カイ」
「ん?」
「私、昔は……
誰かの役に立たないと、
ここにいてはいけないと思ってたの」
カイは歩みを止めない。
「今は?」
「今は……
何もしなくても、
ここにいていいと思えるの」
少し照れた声でフロナは応えた。
カイは、立ち止まり、
フロナの頭に手を置いた。
くしゃっ、と
乱暴ではないが、
優しい仕草だった。
「それでいい」
短い言葉。
「役に立たなくても、
俺は、フロナを選ぶ」
フロナは、思わず笑ってしまう。
「……ずるいですね」
「今さらだ」
丘の上から、街を見下ろす。
明かりが灯り始め、
人々の生活が、今日も続いている。
フロナは、
カイの肩に頭を預けた。
ためらいはない。
彼女はもう、
誰かに寄りかかることを
「弱さ」だと思わないから。
ヴァルシュタインで、
夕暮れの鐘が鳴った。
「今日は、何を食べたい?」
カイが聞く。
「あなたが作るなら、何でも」
「それ、逃げだろ」
「信頼です」
カイは、小さく息を吐いて笑う。
二人は、手を繋いで歩き出す。
強くは握らない。
でも、離れない。
それが、
この先も続いていく距離だった。
フロナは、空を見上げた。
世界はまだ複雑で、
問題も尽きない。
それでも――
愛する人と一緒に帰る場所がある。
それだけで、
人生は、十分に美しかった。
ー終わりー
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、
うまくできなかった日や、
自分を責めてしまった夜などに、
そっと読んでもらえたらいいな、と思いながら書きました。
自分を理解して、そばにいてくれる人に出会い、
フロナは、静かで確かな幸せの中を歩き始めました。
このお話が、
あなたの心にも、少しあたたかさを残せたなら嬉しいです。




