第5話 値札のない夜
夜明け前の帝都は、奇妙な静けさに包まれていた。
魔導街灯は沈黙し、
石畳には人影がまばらに残るだけ。
遠くで、何かが崩れる鈍い音がした。
セドリックは、外套の襟を立てて歩いていた。
かつてなら、
この時間帯に城門を抜けることなどなかった。
だが今は、
誰も彼を呼び止めない。
それが、何より恐ろしかった。
「……急げ」
命令口調が、
自分を保つための癖のように口をついて出る。
隣を歩くリリアーヌは、
不安そうに周囲を見回しながらも、
それでも彼の半歩後ろに位置を保っていた。
それが、
彼女なりの“正しさ”だった。
城外で待っていた馬車は、
思ったよりも小さく、簡素だった。
隣国の商人を名乗る男は、
穏やかな笑みを浮かべ、二人を迎え入れる。
「混乱の中での移動は危険です。
ですが、この道なら問題ありません」
その言葉に、
セドリックは疑念を抱かなかった。
疑われる側で生きてこなかった者は、
疑うという感覚を知らない。
馬車が走り出すと、
帝都の尖塔がゆっくりと遠ざかっていく。
リリアーヌは、
その景色から目を逸らした。
「……私たち、助かるのよね?」
「当然だ」
即答だった。
そう言わなければ、
自分自身が崩れてしまいそうだったから。
王子は、
最後まで王子でなければならない。
そう信じていた。
馬車が止まったのは、
霧の立ちこめる街道の途中だった。
湿った空気。
鳥の鳴かない森。
「……ここは?」
リリアーヌの声が、わずかに震える。
「少し休憩を」
商人はそう言い、
ゆっくりと外套を脱いだ。
その視線が、
値踏みするようにリリアーヌをなぞる。
セドリックは、
一瞬だけ胸の奥がざわつくのを感じた。
だが、その感覚に名前をつける前に、
口が先に動いていた。
「……いくらだ」
森の中で、
その言葉だけが妙に大きく響いた。
リリアーヌは、
一拍遅れて理解する。
「……冗談、でしょう?」
笑おうとして、
唇が震えた。
「セドリック様……?」
呼ばれた名に、
彼は応えなかった。
彼の頭の中には、
ただ一つの計算しかなかった。
――自分が助かるかどうか。
金貨の音が、
静かに鳴る。
それは、
帝国の命令書よりも、
ずっと現実的な音だった。
商人は満足げに頷き、
次に、セドリックへと視線を移した。
「さて……君もだ」
「……何?」
反射的に笑う。
「私は、今商品を売った」
「君も買われる側だ」
淡々とした声。
「もう君に権力はない」
商人の目には、
敬意も恐れもなかった。
ただ、商品を見る目だけがあった。
「顔立ちがいい。
言葉遣いも、身のこなしも悪くない」
その評価が、
刃のように突き刺さる。
「……ふざけるな」
だが、その声には、
もう命令の力はなかった。
◆
二人が連れて行かれたのは、港町の外れだった。
潮の匂いと、古い酒の甘ったるい臭いが混じった通り。
陽はすでに落ち、
赤みを帯びた灯りが、窓という窓に揺れている。
建物は低く、重苦しい。
扉の前に立った瞬間、
リリアーヌは無意識に一歩引いた。
「……まさか、娼館?」
声が、掠れる。
答えはなかった。
代わりに、背中を押される。
拒否する言葉は、
どこにも行き場を持たなかった。
中は、妙に静かだった。
笑い声はある。
音楽も、かすかに流れている。
だが、それらはすべて、
決められた時間に、決められた感情を演じている音、だった。
廊下は狭く、
視線が、はっきりと突き刺さる。
値踏みする目。
興味と無関心が入り混じった視線。
リリアーヌは、
思わず腕を抱きしめる。
ドレスはもうない。
名前を呼ばれることもない。
代わりに、
小声で交わされる数字と、条件だけがあった。
◆
「美しい子ね。高く買い取るわ」
管理人の女は、
小さなな声でそう言った。
同情も、嘲笑もない。
ただの確認。
リリアーヌは、
返事ができなかった。
肯定も、否定も、
ここでは意味を持たないと、
本能的に理解してしまったからだ。
彼女は気づいてしまった。
ここでは、
拒否しても、誰も助けてくれないと。
◆
一方、セドリックは、
壁際に立たされていた。
背筋を伸ばそうとする癖が、
まだ抜けない。
だが、
誰もそれを評価しない。
「……貴族かしら?」
管理人の女が問うた。
「皇太子だ!帝国に返してくれ!」
答えた瞬間、
その言葉が、
自分の首を絞める縄になると気づく。
「人気が出そうね」
それだけだった。
王子として学んだ礼儀。
人前での振る舞い。
感情を隠す術。
すべてが、
ここでは“商品価値”として数えられていく。
◆
部屋は、思ったよりも小さかった。
窓はあるが、
外は見えない。
鍵のかかる音が、
やけに大きく響く。
リリアーヌは、
その音を聞いた瞬間、
足から力が抜けた。
「……嫌……」
それは、
誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、
これから辛い日々が続くことを、
ようやく理解した声だった。
◆
セドリックは、
隣の部屋に通される直前、
一瞬だけ振り返った。
リリアーヌの姿が、
視界の端に映る。
泣いているかどうかも、
分からない。
助ける、という選択肢は、
もう存在しなかった。
それでも、
胸の奥が、強く締め付けられる。
(……俺が)
言葉にならない思考が、
何度も浮かんでは消える。
(俺が、売った)
◆
その夜、
薄暗い部屋で、
セドリックは一人、座っていた。
壁は近く、
空気は重い。
ここには、
命令も、称賛も、
「期待」という名の幻想もない。
あるのは、
順番と、時間と、値段だけ。
彼は、
ようやく理解する。
ここが屈辱的なのは、
身体を使われるからではない。
人として扱われていないからだ。
その静けさの中で、
フロナとの思い出が、否応なく胸を満たす。
書類の山の向こうで、
黙々と計算を続けていた水色の髪。
「大丈夫です」と言いながら、
誰にも頼らなかった姿。
あの場所は、
彼女にとっても、
こんな牢獄だったのではないか。
役に立つかどうかで、
価値を測られ続ける虚しさ。
(……フロナ)
胸の奥で、
名を呼ぶ。
(ごめん)
声にはならない。
(君を、
こんな場所に、
縛りつけて利用していた)
謝罪は、
もう届かない。
それでも、
謝らずにはいられなかった。
セドリックは、
人生で初めて、
心の中だったけど、
謝罪というものをした。




