第1話 目覚め
どれくらい眠っていたのか、フロナには分からなかった。
ただ、意識の底に沈みながら、
何度も同じ感覚だけを繰り返し受け取っていた。
――温度。
――呼吸。
――誰かが、そばにいるという確かな気配。
それは夢よりも現実に近く、
現実よりも穏やかだった。
最初に戻ってきたのは、音だった。
遠くで、風が鳴っている。
木の葉が擦れ合う、柔らかな音。
次に、光。
瞼の裏が、ゆっくりと白くなる。
フロナは、ほんの少しだけ指を動かした。
「……」
声は出なかった。
けれど、それで十分だった。
「……起きたか」
すぐ近くで、低い声がする。
フロナは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。
石ではなく、木で組まれた梁。
帝都の天井ではない。
ここがどこかを理解する前に、
視界の端に黒髪が入った。
カイが、椅子に腰掛けたまま眠っていた。
剣を壁に立てかけ、
外套を羽織ったまま。
その姿を見た瞬間、
胸の奥が、すっと静まった。
(……帰ってきたんだ)
そう思った途端、
張り詰めていたものが、音を立ててほどけた。
フロナは、もう一度目を閉じる。
安心して、呼吸ができた。
「三日だ」
次に目を覚ましたとき、
カイは起きていて、窓際に立っていた。
「丸三日、ほとんど起きなかった」
驚くほど、穏やかな声だった。
フロナは、天井を見上げたまま、ゆっくりと息を吸う。
痛みは、ない。
疲労は残っているはずなのに、
頭の中は不思議なほど静かだった。
「……変、ですね」
声が出た。
掠れてはいたが、確かだった。
「頭が……うるさくない」
カイが、こちらを見る。
「前は?」
「ずっと、声が重なっていました」
フロナは、言葉を選びながら話す。
「霊素の流れと、構成式が。
現場と、計算が……ぶつかって、騒がしくて」
それが、当たり前だった。
だからこそ、限界を超えた。
けれど今は。
「……今は?」
カイが、静かに促す。
フロナは、目を閉じたまま、内側を探った。
霊素は、確かに流れている。
生き物のように、柔らかく。
同時に、構成図も見える。
だが、それは無理に重ならない。
必要なところで、自然に噛み合っている。
「……壁が、ありません」
そう言った瞬間、
自分でも少し驚いた。
「衝突していた境界が……消えています」
カイは、少し黙ったあと、短く笑った。
「壊れたか」
「……ええ」
フロナも、微かに笑う。
「でも、壊れて良かった」
帝国で、あれほど酷使された。
生体装置として、限界まで引き伸ばされた。
だからこそ、
越えられなかった場所を、越えてしまった。
「……もう、無理はできませんけど」
「させない」
即答だった。
カイは窓から視線を外し、こちらを見た。
「今度は、フロナを俺たちが守る番だ」
フロナは、その言葉を胸の中で噛みしめる。
守られるだけの存在でいたくない。
けれど、独りでもない。
でもその感覚は、心地よかった。
窓の外では、辺境の朝が始まっていた。
人の声。
馬のいななき。
市場の準備をする音。
帝都とは違う、生活の音がする。
(……パンの値段、どうなってるかしら)
ふと、そんなことを思って、
フロナは小さく息を吐いた。
もう、予測書を書く必要はない。
世界を支えるために、削られる必要もない。
これからは――
自分で、選ぶ。
フロナは、ゆっくりと身体を起こした。
「カイ」
「なんだ」
「……起きたら、全部が終わっていると思っていました」
「終わったのは、帝国だ」
カイは、はっきりと言う。
「フロナの人生は、ここからだよ」
フロナは、静かに頷いた。




