第12話 帰路
帝都の地下から地上へ抜ける通路は、ひどく静かだった。
フロナの記憶に残る帝都は、常に音で満ちていた。
命令の声、魔導機構の稼働音、計算盤を叩く乾いた響き。
けれど今、耳に届くのは――
水が滴る音。
石が、重力に従って転がる音。
ただそれだけだった。
カイの腕の中で、フロナは浅く息をする。
身体は限界だった。
頭の奥では、かつて帝国全土を覆っていた無数の構成図が、ゆっくりと溶けていく。
(……もう、繋がっていない)
物流も、結界も、命令系統も。
彼女の意識と帝国を結んでいた“線”は、すべて切れていた。
それは喪失ではなく、解放だった。
「フロナ」
カイが名を呼ぶ。
腕に、わずかに力がこもる。
「無理に起きていなくていい」
その声に、命令の響きはない。
守る側として、ただ隣にいる声だった。
「……大丈夫です」
フロナは、かすかに首を振る。
「……ちゃんと、終わりましたから」
カイは何も言わなかった。
ただ歩き続ける。
背後で、低い振動が走った。
石積みが崩れる音。
帝国のどこかで、支えを失った何かが倒れていく。
だがもう、振り返る必要はなかった。
◆
地上へ出たとき、空はまだ夜の色を残していた。
夜明け前。
だが、完全な闇ではない。
雲の切れ間が、わずかに白んでいる。
冷たい風が頬を打つ。
それでも、地下よりずっと息がしやすかった。
「もう少しだ」
カイが言う。
その一言が、進行方向そのもののように感じられた。
だが次の瞬間、背後から声が飛ぶ。
「待て!!」
帝国の兵だった。
数は多くない。
魔法の気配も、統率もない。
そこにあるのは、追わなければならないという“習慣”だけ。
カイが身構えようとした、その時。
「……やめてください」
フロナが、小さく言った。
水色の瞳が、兵たちを見る。
怯えはなかった。
怒りも、裁きもない。
「帝国は、もう動いていません」
淡々とした声だった。
「命令も、補給も、計算も。
すべて、止まりました」
兵の足が止まる。
「あなたたちが追っているのは、人ではありません。
もう存在しない“仕組み”です」
沈黙。
剣を落とす音が、一つ。
次に、もう一つ。
「……帰ってください」
フロナは続ける。
「家に。
生活に。
明日のパンを考える場所へ」
それ以上、言葉はいらなかった。
兵たちは、誰に命じられるでもなく背を向ける。
追撃は、なかった。
◆
再び歩き出してから、フロナの意識は急速に遠のいていった。
身体が、完全に限界を迎えている。
「……カイ」
名前を呼ぶだけで、胸の奥が静かになる。
「眠っていい」
即答だった。
「起きたら、もう帝都じゃない」
フロナは、微かに笑う。
「……信じます……」
「信じろ」
短く、迷いのない声。
「俺がいる」
誓いではない。
未来の約束でもない。
ただ、今ここにある事実だった。
フロナはその声を最後に聞きながら、目を閉じる。
◆
夜が、終わる。
地平線の向こうから、光が滲み出す。
帝都の尖塔は、もう視界に入らない。
背後で何かが崩れる音がしたが、
それは彼女の世界の出来事ではなかった。
カイは、眠るフロナを抱き直す。
「……帰ろう」
それは、国家でも、城でもない。
彼女が選び、
彼女の才能が生きる場所へ。
その腕の中で、フロナは深い眠りに落ちていた。
――迷いのない、眠りだった。




