第8話 結界は、内側から崩れる
辺境の夜は、冷たかった。
砦の灯りが落ち、
薪の匂いが薄くなる頃。
カイは、独りで外に立っていた。
国境で足止めされたあの日から、
眠った回数を数えられない。
眠っても、起きる。
起きても、胸の奥が同じ形で痛む。
(連れて行かれた)
フロナは帝都へ戻った。
そして、戻ったまま――戻ってこない。
何より最悪なのは、
「助け方」が分からないことだった。
力があっても、行き先が見えない。
剣を握っても、
斬るべきものが見えない。
◆
帝国の王城は、結界で守られている。
外から破るのはほぼ不可能。
そして、フロナがどこにいるかも分からない。
“地下”という噂だけが流れた。
地下のどこだ。
王城の地下か。
魔導兵団の地下施設か。
ドレイクハルト家の研究区画か。
情報は霧みたいに散って、掴めない。
カイはまず、金を使った。
辺境の交易で得た資金を、惜しげもなく撒いた。
帝都の下級役人。
物資を運ぶ荷運び人。
夜の街で生きる情報屋。
だが、返ってくるのは薄っぺらい噂ばかり。
「皇太子が“核”を取り戻したらしい」
「城の地下で、何かが動いている」
「最近、結界がやけに安定した」
どれも決定打にならない。
帝国は、フロナの存在を“隠している”。
それは当然だった。
純血主義の帝国が、
混ざり物の女に国を回させていると知られたら。
帝国の正統性が死ぬ。
だから、隠す。
隠しきれない分は、嘘で塗る。
(……ふざけるな)
カイは奥歯を噛んだ。
◆
帝都を覆う結界は、完璧だった。
王城を起点に張り巡らされた青白い膜は、
魔物も、敵国の術者も、反乱者も拒む。
それが、帝国の誇りだった。
だが――
完璧なのは、外から見たときだけだ。
◆
辺境ヴァルシュタインに、一人の青髪の男が辿り着いたのは、夜明け前だった。
門番が異変に気づいたとき、
男はすでに雪の上に倒れていた。
外套は裂け、
靴底は擦り切れ、
足首には、鎖を引きずった痕。
追われてきた人間の、それだった。
砦の詰所の、
火鉢の前で、男は毛布に包まれていた。
顔色は悪く、
指先は震え、
目だけが異様に冴えていた。
「名前は」
向かいに座るカイが、短く問う。
男は、水を一口飲み、しばらく黙ってから答えた。
「……名乗る資格は、もうありません」
それでも、絞り出すように言う。
「元・帝国中央行政局文官です」
その肩書きに、空気が張り詰めた。
辺境に来るはずのない人間。
「なぜ、ここへ来た」
男は、膝の上で手を握りしめた。
「……私は、反対しました」
「何に」
「フロナ・ドレイクハルト様を、
“装置”として使うことに」
カイの視線が、鋭くなる。
「中央では、分かっていたんです」
男は俯いたまま続ける。
「彼女が帝国を回していることも。
限界まで使われていることも」
唇が震える。
「私は言いました。
“人間を繋ぐ仕組みではない”と」
短く、乾いた笑い。
「……愚かでした」
男は拳を握る。
「次の日、家に帰ると……家族がいなかった」
声が、掠れる。
「妻と、子ども二人。
連行されたと聞きました」
沈黙。
「その夜、私も捕まりました」
男は手首を見せた。
魔力拘束具で焼かれた痕が、くっきり残っていた。
「“忠誠が足りない”と。
“皇太子の判断に異を唱えた”と」
息を整え、続ける。
「牢で……聞かされました。
家族は、処理されたと」
その言葉は、あまりにも平坦だった。
感情が、もう追いついていない。
「私は……そこで壊れました」
男の肩が、震え出す。
「でも……生き残ってしまった」
顔を覆い、呻く。
「処刑の順番待ちの間に、
地下で混乱が起きたんです」
皮肉にも、それはフロナの過負荷による一時的な誤差だった。
「看守が持ち場を離れ、
結界管理区画が一瞬だけ無人になった」
男は、顔を上げた。
「私は……逃げました」
荒い息。
「帝国に戻る場所はない。
正義を語る資格もない」
それでも。
「……あの方を、
あのまま使い潰すことだけは、
どうしても……許せなかった」
視線が、真っ直ぐに向く。
「辺境は、
フロナ様を“人間として扱った”場所だと聞いた」
そして。
「――あなたなら、助けられると思いました」
長い沈黙のあと、
カイは、短く答えた。
「……必ず、助ける」
それだけだった。
だが、その一言には、逃げ場のない覚悟があった。
「知ってることを、全部吐け」
男は、涙を零しながら深く頭を下げた。
「……はい」
その夜、
帝国が隠してきた“構成室”の輪郭が、
初めて形を持った。
文官の情報は、決定的だった。
王城地下に、
異常な量の“通信線”が通されている。
水でも、魔石でもない。
情報の供給路。
結界制御、物流補正、軍需配分。
すべての最終判断が、そこへ集約されている。
つまり。
そこが、
フロナのいる場所。
だが、分かっても辿り着けない。
王城地下は、
偽の壁と罠で埋め尽くされた迷宮だ。
侵入路は潰され、
古い水路は封鎖されている。
そこで、カイは“人”を探した。
修繕工。
元・結界保守兵。
地下で荷を運ぶ密輸屋。
最初は誰も口を割らない。
帝国の報復が、怖いからだ。
カイは脅さなかった。
代わりに、言った。
「帝国はもう、お前らを守らない」
止まりかけた物流。
飢えの噂。
皇太子の暴走。
「守るのは、
都合のいい血筋と、都合のいい嘘だけだ」
沈黙のあと、
密輸屋が唾を吐いた。
「……地下に、“使われてない道”がある」
「どこだ」
「昔の排水路だ。
地図にはないが、王城の下を通ってる」
それでも、足りなかった。
排水路から入れても、
構成室に辿り着けなければ意味がない。
最後の鍵は――
フロナが残していた。
辺境の机の引き出しの中、
何度も探した場所に、
一通の封筒があった。
宛名はない。
ただ、彼女の筆跡で書かれていた。
――もしものとき。
見つけられる人へ。
中には、地図ではない紙。
地図にしないための断片だった。
――第三補助結界
――地脈接続点
――排水路と誤認
――監視対象外
――石組み:三段目、左から二つ目
――“音”で確認
最後に、一文。
――あなたに、託します。
でも、無理はしないで。
カイは、目を閉じた。
(……最初から、計算してやがったな)
連れて行かれる前から。
自分が追いつく未来を。
◆
そして今。
帝都地下水路にカイはいる。
苔に覆われた壁の前で、
カイは紙を握り、指示通り石をずらした。
――低い軋み。
結界の基礎術式が、内側で歪む。
「……反応が遅れてます」
技術者が呟く。
「当然だ」
カイは歩みを止めない。
「中枢が正常なら、
今の時点で俺たちは焼かれてる」
つまり――
フロナは、限界まで使われているのだろう。
早く、助け出さないと。
フロナの限界が近いかもしれない。
◆
同じ頃の構成室。
フロナは、台座に繋がれたまま目を閉じていた。
意識は浅い。
だが、霊素がざわめく。
(……外?)
情報の癖が、変わった。
胸の奥が、微かに熱を持つ。
(……カイ)
来ないでほしい。
でも、来てほしい。
構成図の隅で、
自分が残した“抜け道”が反応しているのを感じた。
(……見つけてくれたんだ)
祈りにも似た矛盾が、胸に広がる。
◆
王城の管理室で、
結界管理局の計器が揺れ始めた。
「侵入反応……内側!?」
技師の顔が青ざめる。
だが、皇太子セドリック・ハーグレイヴは、気にも留めない。
「フロナは?」
「構成室に……問題なく」
「なら問題ない」
彼はまだ知らない。
結界が崩れ始めている理由を。
それが、
自分の足元からだということを。
◆
最後の壁が、外れた。
冷たい空気が流れ込む。
帝都の“裏側”。
腐った水と、鉄と、古い石の匂い。
そして、遠くに感じる霊素のざわめき。
カイは低く言った。
「待ってろ」
祈りじゃない。
宣言だ。
結界は、もう保たない。
帝国は、
内側から、確実に崩れ始めていた。




