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第1話 偽りの手紙

 辺境の夜明けは、帝都よりずっと静かだ。

 けれど――静けさは、いつだって優しいとは限らない。


 雪はまだ残っている。

 砦の石壁の影に、白が薄く貼りついて、朝の光を鈍く返していた。

 風は冷たい。頬を撫でるというより、確かめるように触れてくる。


 フロナは火鉢のそばで、ひとつ息を吐いた。

 湯気が立つ。指先が少しだけ温まる。

 それでも胸の奥に沈む冷たさは、消えなかった。


 霊素魔法エーテル・フェアリーが、ざわついている。

 雪の匂いの向こうに、湿った鉄と古い香油の気配。

 遠いはずの帝都の気配が、細い糸のように伸びてきて、喉元に絡みつく。


(……来る)


 扉が軽く叩かれた。

 見張りが顔を覗かせる。


「フロナ様。帝国から……封書が届いています」


 封蝋は青。

 帝国の紋章が、無駄に誇らしげに押されている。

 赤い蝋が、なぜだか血の色に見えて、フロナは一瞬だけ視線を逸らした。


 封書を受け取った瞬間、指先がひやりとした。

 紙の温度ではない。

 ――”意図”の冷たさだ。


 机に置く。

 すぐには開けず、しばらく眺める。


 構成魔導アーキテクトが、勝手に走り始める。

 差出人。

 筆圧。

 封の癖。

 使われた紙。

 インクの匂い。


 結論は、速かった。


(罠)


 それでも、フロナは封を切った。

 紙が裂ける音が、やけに大きく響いた。


> フロナへ

>

> 母エリセが倒れた。

> 心労が重なり、もう長くない。

> 最期に一目、お前に会いたいと願っている。

>

> 私も――お前に、伝えねばならないことがある。

> どうか、戻ってきてほしい。

>

> 父 ヴァルター


 フロナは、静かに紙を置いた。


 霊素フェアリーが拾う。

 文の裏に滲む、焦りと飢え。

 助けを求める匂いではない。

 奪うための切迫、だ。


 理性は、はっきりと警告していた。


(行けば、捕まる)


(戻れば、使われる)


 それでも。


 フロナの指は、無意識に胸元へ伸びた。


 外套の内側には、

 銀の細い鎖の、小さなペンダントがあった。


 水色の澄んだ石がついている。

 霜を閉じ込めたみたいに、光を含んでいる。

 魔力はない。ただ、綺麗なだけの石だ。


 セドリックからまだ婚約者になる前、

 小さい頃にもらったものだった。


 何度も捨てようとした。

 でも、できなかった。


 そして、まだフロナの服の下にある。


 思い出は、厄介だ。

 人は変わっても、記憶だけは裏切らない顔をして残る。


 弱さだと分かっている。

 それでも、情は理性より遅く、しぶとい。


 フロナはペンダントを握りしめた。


 そのとき、背後で足音がした。


 カイだった。

 巡回を終えたばかりらしく、外套の肩に雪が残っている。


 彼は、フロナの手元を見て、すぐ察した。


「……帝国か」


 フロナは頷く。


 カイは手紙を読み、最後まで目を通すと、紙を机に戻した。


「行くな」


 即断だった。


「罠だ」


「……うん」


 フロナは小さく笑う。


「私も、そう思う」


 カイの眉が深く寄る。


「分かってるなら、なおさらだ」


「分かってるのに」


 フロナは視線を落とした。


「母のことは、嘘かもしれない。でも……嘘じゃない可能性もある」


 言葉にした途端、胸が痛んだ。


「それに、私が行かなければ、帝国は別の形で取りに来る」


 脅し。

 徴発。

 武力。


 カイの目が鋭くなる。


「だからって、お前が行く理由にはならない」


「理由じゃない」


 フロナは顔を上げた。


「……決着をつけたい」


 帝都に置いてきたもの。

 燃えた予測書。

 誰にも見られなかった献身。


「切り捨てたと思っていた情が、まだ残ってる。それが悔しい」


 正直な言葉だった。


 カイは黙ったまま、フロナの胸元を見る。


「……それ、まだ持ってるのか」


「……うるさい」


 反射的に隠す。


 カイは、ため息をひとつ吐いた。


「捨てろとは言わねぇ」


 意外な言葉だった。


「今、無理に捨てたら、余計に縛られる」


 彼は一歩近づく。


「でも」


 低く、はっきりと言った。


「行くなら――俺を連れて行け」


 フロナが目を見開く。


「……危ない」


「分かってる」


「捕まるかもしれない」


「それでもだ」


 即答だった。


「罠だと分かってる場所に、お前ひとりで行かせる気はない」


 その言葉は命令じゃない。

 守ると決めた人間の、選択だった。


 フロナの胸の奥で、何かがほどける。


「……ありがとう」


 小さな声。


 カイは頷きもしない。

 ただ、窓の外を見る。


「約束しろ」


「何を?」


「どんなことがあっても、諦めるな」


 フロナは、しっかりと頷いた。


「うん」


 霊素フェアリーが、ざわりと震えた。

 未来が、分岐する音。


 フロナはペンダントをそっと握り、外套の内にしまう。


 この旅で、

 それを手放すことになるかもしれない。


 ――あるいは、完全に終わらせることになるかもしれない。


 辺境の朝は、相変わらず静かだった。


 その朝は、あまりにも何事もなかった顔で、彼らの背中を押していた。



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