第10話 帝国の特使
砦の門は、帝都の門よりずっと正直だ。
来る者を歓迎する鐘の音もしない。
ただ――必要かどうかを、冷たい鉄の軋みで告げる。
雪は、音を消して降っていた。
白い粒が風に削られ、刃のように横へ流れる。吹きすさぶたび、門扉の蝶番が低く唸る。
そこにあるのは「威厳」ではなく、ただの現実だ。
「……来たぞ」
見張りの兵が短く言った。
門前に、一台の馬車が止まっている。
帝国仕様の塗装。青い紋章。磨き上げられた金具。
ただし――それらは雪と泥で汚れ、かろうじて「帝国」だとわかる程度だった。
雪が降り積もるたび、青が薄れ、金具はくすむ。まるで、権威そのものが剥がれ落ちていくみたいに。
馬車から降りてきたのは、よく太った男だった。
毛皮は上等そうに見えるが、肩の辺りが薄く擦れている。
「金はないが、見栄は捨てられない」――そういう匂いが、鼻を刺した。脂と香油と、焦りの混ざった匂い。
「ヴァルシュタイン領主! カイ・ヴァルシュタイン殿はおられるか!」
男は声を張り上げた。
声量だけは、帝都の大広間と同じだ。
けれど、この砦では声が雪に吸われる。反響しない。響かせるための壁がないからだ。
カイが門の上から見下ろし、眉をひそめる。
「……誰だ」
「私は帝国より派遣された特使だ! ルード・バルメン子爵だ!」
名乗りながら、男――ルードは周囲を見回して固まった。
砦の内側。
積み上げられた薪。
整えられた兵糧庫。
吹雪の中でも動く鍛冶場の煙。
煙はまっすぐに上がらず、風にちぎれながら白い空へ溶けていく。
それでも火は消えない。人の手が絶えず守っているから。
帝都で聞く「辺境は不毛」という言葉と、目の前の現実が噛み合っていない。
「な、なぜ……こんな……」
ルードの視線が、次に止まったのは――村人たちだった。
凍てつく風の中でも、笑っている。
荷を運び、焚き火を囲み、互いに声をかけ合っている。
寒さが厳しいほど、人の輪があたたかい。
あまりにも、普通に生きていた。
(帝国の端で、普通に……?)
その価値観の揺らぎが、顔に出ていた。
「門を開けるな」
カイの声は淡々としていた。
「……え?」
ルードが間抜けな声を漏らす。
「俺は、お前の顔も名も知らない。
帝国の紙切れ一枚で人間を通すほど、こっちは暇じゃない」
門の上から、カイが雪の粒を払うように言い捨てる。
雪は彼の黒髪に白く引っかかり、すぐ溶けて水になった。体温のある場所だけ、雪は留まれない。
「用があるなら、要点を言え」
ルードは慌てて胸を張った。
「し、支援だ! 帝国が……この辺境を支援するために――」
「は?」
カイの眉が、さらに寄る。
その瞬間、門前の空気が少し冷えた。
吹雪ではない。人の温度が一段下がる感じだ。
フロナは門の陰でそれを見ていた。
水色の髪を帽子の下に隠し、いつもより地味な外套。
けれど、霊素魔法は正直で――ルードの内側の焦りを、ざわざわと拾ってくる。
(支援、じゃない。お願い、だ)
フロナの頭の中で、構成魔導が線を引く。
帝都の物流の崩れ。税収の欠損。魔石の枯渇。軍の停止。
それらの「結果」が、この男の腹に詰まっている。
「……あの、カイ様」
フロナが一歩出る。
カイが目だけで問う。
――出るのか。
フロナは小さく頷き、門の前へ進む。
ルードは、フロナを見た瞬間に固まった。
水色の髪をした元皇太子の婚約者。
帝国の噂で散々笑われた人物だった。
「……え?」
ルードの顔が白くなる。
「ま、まさか……フロナ・ドレイクハルト……!?」
次の瞬間、彼は周囲を見て――さらに固まった。
村人たちが、フロナの動きに気づき、自然に道を開ける。
誰も嘲笑しない。
むしろ、軽く会釈をして、笑う。
「フロナ様、寒くないですか?」
「今日は風が強いですから、これを」
毛糸の手袋が差し出される。
羊毛の匂いがほのかにして、指先が少しだけ救われる。
フロナは受け取り、短く礼を言った。
ルードの目が飛び出しそうになる。
「な……なぜ……」
帝国で「混ざり物」と呼ばれた令嬢が、
ここでは当たり前のように人々の中心にいる。
そして――カイが門の上から睨むように言った。
「用があるのは、俺じゃない。
フロナにだろ」
ルードがびくっと震えた。
門は結局、半分だけ開けられた。
完全には開かない。歓迎のない通し方だ。
ルードは雪を踏みしめながら中へ入る。
足音はぎしぎしと鳴り、泥が靴裏に重く貼り付く。
――そして、腰を抜かした。
砦の広場の端に、巨大な倉庫があった。
中には、整然と袋が積まれていた。
それは乾燥肉、麦、塩、薬草などの袋だった。
魔導灯が安定して灯り、
兵たちは鍛冶場の前で武具を整えている。
金属の擦れる音、火の爆ぜる音、温い湯気。
「生きている」場所の音がする。
「飢え」と「停止」に慣れた帝都人の目には、これは眩しすぎた。
「こ、こんな……ここは辺境だろう!?
不毛で、魔物の庭で、帝国の支援なしには――」
「支援?」
フロナが静かに繰り返す。
声は柔らかい。
でも、その柔らかさは刃だ。
「帝国が、ここを?」
ルードはハッとし、慌てて取り繕った笑みを浮かべる。
「そ、そうだ! 帝国は寛大だ!
辺境に手を差し伸べ、民を救い――」
「では、なぜあなたの手は震えているのですか?」
フロナの問いは、ただの事実確認だった。
ルードは息を飲む。
彼の指先は、毛皮の縁を掴んだまま小刻みに揺れている。
寒さのせいにしたいのだろう。けれど、寒さだけではない。
「兵糧庫を見たとき、あなたの目が先に動きました。
人じゃなく、“数”を数える目になった。
その顔は支援じゃない。奪いに来た人の顔でした」
フロナは一歩近づく。
雪の匂いが淡く漂う。その中に、乾燥肉の塩気と薬草の青い香りが混ざっている。
「あなたは、怯えているように見えます」
ルードの喉が鳴った。
カイが門の影から腕を組んで見ている。
何も言わない。
それだけで、圧がある。砦の壁より頑丈な沈黙。
「……フロナ様」
ルードは咳払いして、姿勢を正した。
「そ、その……帝国が、少々……困窮しておりまして」
「少々、ですか」
「ほんの、少々だ!
だが帝国の威光が落ちてはならない!
ゆえに、辺境には――」
「援助してほしい、と」
フロナが言い切った。
ルードの顔が引きつる。
「ち、違う! これは交渉だ!
帝国と辺境が互いに助け合う――」
「互いに、ですか」
フロナは微笑んだ。
その笑みは優しい。
だからこそ、残酷だった。
「帝国のルールでは、私は何でしたか?」
ルードは黙る。答えを知っている。
知っていて、言えない。
「純血主義。
青髪至上。
混ざり物は役立たず」
フロナの声は淡々としている。
淡々としているから、逃げ道がない。
「私は“失敗作”でしたよね。
欠陥品。
帝都の恥」
ルードの唇が震える。
「では」
フロナは、目を細めた。
その瞳は氷より澄んでいて、火より熱い。
「失敗作に助けを求めるのは、矛盾では?」
ルードの膝が、目に見えてぐらついた。
「……で、ですが!」
ルードは必死に声を張り上げる。
「そ、それは皇太子殿下の判断であって……!
私が言ったわけでは――」
「あなたも笑っていました」
フロナは即答した。
ルードが凍る。
「え……?」
「宴席で。
“水色は混ざり物の色だ”と。
“公爵家の恥だ”と」
フロナは首を傾げる。
「覚えていませんか?
私は覚えています。
そういう記憶は、霊素魔法が妙に鮮明に残すので」
ルードの顔が真っ青になる。
彼の脳裏に、過去の自分の笑い声が蘇ったのだろう。
雪の白さの中で、彼だけが汚れて見える。
「……あ、あれは……!」
言い訳を探す。
探せない。
カイが一歩前に出た。
それだけで、空気が揺れる。
吹雪が一瞬、止んだ気がした。実際には止んでいない。ただ、誰も息をしていないだけだ。
「お前、ここで死にたくないなら、言葉を選べ」
ルードは声を失った。
フロナはそれを横目で見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
(カイ様、圧が強い。助かる)
「では、提案を」
フロナは手を軽く叩く。
乾いた音が雪空に吸われ、すぐ消える。だからこそ、言葉が残る。
「あなたが帝国に持ち帰るべき結論は、ひとつです」
ルードが、ごくりと唾を飲む。
「ヴァルシュタイン領は、帝国の“支援”を必要としていない」
「……!」
「必要なのは逆です」
フロナは言い切った。
「帝国が、こちらを必要としている」
言葉が落ちる。重い。
それは“勝利宣言”ではない。事実の宣告だった。
ルードは膝から崩れそうになりながら、絞り出した。
「……では、帝国は、どうすれば……」
その瞬間、フロナの目が少しだけ冷えた。
「どうもしません」
ルードが顔を上げる。
「あなた方は私を捨てました。
だから私も、あなた方の責任を引き受けません」
淡々とした宣告。
怒鳴りもしない。
笑いもしない。
ただ、線を引く。雪原に杭を打つみたいに。
「――私が助けるのは、ここにいる人たちです」
フロナは背後の村人たちに視線を向けた。
その視線は温かい。火鉢の火みたいに。
そして、ルードへ戻すと、また冷たくなる。
「帝国の方々は、帝国のやり方で生きてください。
純血主義で。
混ざり物を排除し。
美しく、正しく、完璧に」
フロナは微笑む。
「それが出来ないから、今ここにいるのでしょう?」
ルードの口が、開いたまま閉じない。
◆
「か、カイ殿! これは……!」
ルードは縋るようにカイを見る。
カイは一言だけ返した。
「俺は辺境伯だ。
でも領地の判断は――フロナの言う通りでいい」
ルードの顔が歪む。
帝国では、女が前に出ることなど珍しい。
ましてや、混ざり物が決定権を持つなど。
価値観が、音を立てて崩れていく。氷が割れるときみたいに、静かに、でも確かに。
「な……なぜ……」
ルードは呟く。
「なぜ、こんな……失敗作が……」
言ってしまった。
カイの目が、氷みたいに冷たくなる。
フロナは、静かに息を吐いた。
「――今、もう一度言いましたね」
ルードの肩が跳ねる。
「混ざり物の私を、失敗作と」
フロナは、首を傾げたまま、優しく言う。
「だから、もう一つだけ教えます」
ルードは、怯えた目で見る。
「失敗作は、あなた方です」
静かな断罪。
フロナは続ける。
「才能の価値を見抜けない。
現場の声を聞けない。
数字の裏を想像できない」
淡々と、事実を積み上げる。
「その結果、帝国は止まり始めています」
ルードの顔から血の気が引く。
フロナは最後に、軽く息を吸った。
「帰ってください。
あなたがここにいる間、私の時間が無駄になります」
そして、少しだけ間を置く。
雪が一粒、彼女の睫毛に触れて溶けた。
「――次に来るなら、“帝国の条件”を持ってこないで。
“帝国の謝罪”を持ってきてください」
ルードは、言葉を失った。
◆
門の外へ追い出されるようにして、ルードの馬車が去っていく。
雪の向こうで、車輪の音が小さくなる。
やがて、帝国の青い紋章だけが白の中に滲み、消える。
白は何も覚えない。だからこそ、冷たい。
フロナは、ようやく肩の力を抜いた。
「……やりすぎましたか?」
ぽつりと聞くと、カイが横で息を吐いた。
「やりすぎじゃねぇ」
短い。
そして、不意にフロナの帽子を、指でつまんで直す。
雪が髪に落ちそうだったのを、避けたのだろう。
「フロナは優しすぎるのが、問題だ」
「え。私、優しかったですか」
「最後に“謝罪なら来い”って言った。
戻る道を一つ残しただろ?」
フロナは言葉に詰まった。
自分でも気づいていなかった。
「……」
カイは視線を逸らし、ぶっきらぼうに続ける。
「そんなの、帝国には贅沢だ」
その言葉の裏に、ひどく単純な感情が透けた。
――渡したくない。
帝国に、フロナを。
フロナの胸が、少しだけ熱くなった。
◆
その夜、フロナは地図を広げながら、霊素魔法の流れを追った。
遠い帝都の方角が、ざわついている。
風向きが変わる前触れ。雪雲の下で、空気が歪む。
見えないはずのものが、彼女には輪郭を持つ。
(特使が帰ったら、帝都はもっと荒れる)
構成魔導が未来を組み始める。
帝国が次に取る手。
脅し。命令。奪還。
そして――もっと厄介なもの。
(“取り戻す”じゃない。“壊してでも奪う”に変わる)
フロナはペン先を止めた。
紙の上の線が、ひどく細く、しかし確かに未来へ伸びている。
隣でカイが立っている。
外套の影が、地図に落ちる。
その影は濃く、あたたかい。
「……来ないで」
フロナが小さく言うと、カイが即答した。
「来させねぇ」
その声が、強い。
吹雪を切るみたいに、真っ直ぐだ。
フロナは笑う。
「では、最適解を更新します」
カイが眉を上げる。
「何だ」
「次は“守る”だけじゃなく――」
フロナの水色の瞳が、静かに冴える。
「帝国が二度と手を伸ばせない形に、変えましょう」
火鉢の火が、ぱちりと爆ぜた。
それは、戦いの合図みたいだった。




