第9話 吹雪の夜の誓い
夜の砦は、昼より音が多い。
薪が爆ぜる音。
風が木壁を叩く音。
遠くで見張りの足が雪を踏む音。
そして――屋根を削るように吹き荒れる、吹雪の音。
「……これは、外に出たら死ぬやつですね」
フロナが真顔で言うと、向かいの男がため息を吐いた。
「軽い口で“死ぬ”を使うな」
「構成的に、今の風速と体温低下の推移を計算すると――」
「計算しなくていい」
カイ・ヴァルシュタインは、毛皮の外套を投げるように椅子に掛けた。
外套の雪が床に落ち、すぐに溶けて暗い染みになる。
火鉢の近く。
倉庫を改装した簡素な執務室。
机の上には、フロナが引いた線だらけの地図と、山のような帳簿。
ここ数ヶ月、二人は毎日のようにこの部屋で夜を迎えていた。
水路が戻った。
土が息をした。
魔素の澱みは流れ出し、村は少しずつ“生き返って”いる。
――なのに、今夜の空気は、どこか硬かった。
◆
「見回り、出る」
カイが短く言い、腰の剣を確かめる。
「この吹雪で?」
「こういう夜に限って、魔物は動く」
それが辺境の常識だ。
火の明かりが揺れるたび、窓の外の闇が濃く見える。
「私も行きます」
フロナが立ち上がると、カイの動きが止まった。
「……冗談だろ」
「冗談ではありません。私が“危ない”と言った地点は、今夜です」
「だからって、お前が外で凍えてどうする」
「凍えません。対策はあります」
フロナはさらりと言って、机の端に置いてあった小瓶を手に取った。
淡い銀色の粒子が、瓶の中で小さく舞っている。
「霊素の保温膜。薄いけど、皮膚温の低下を遅らせます」
「……お前、いつ作った」
「さっき」
「さっき!?」
カイが頭を抱える。
「お前、そういうの“さっき”で作れるのかよ……」
「作れます。褒めてます?」
「褒めてねぇ。心配してんだ」
フロナの語彙力が、ほんの一瞬だけ迷子になりかけた。
「……心配、は」
言いかけて、咳払いする。
「合理的です。私が死んだら、あなたの作業量が増えますから」
「それ、“合理”の使い方が冷たいな」
「冷たいのは外です」
「そういう問題じゃねえ……!」
カイが一歩近づいて、フロナの肩を掴む。
その手は、外気のせいで冷えていた。
冷たいのに――妙に、安心する重さだった。
「……今夜はやめろ。吹雪が強すぎる」
「でも」
「命令だ」
カイの目が、揺れない。
フロナは一瞬だけ唇を噛み――頷いた。
「……はい」
納得していないのは自分でも分かる。
けれど、ここで言い張ると、彼は本気で怒る。
その事実が、なぜか胸の奥に熱を落とした。
◆
カイが見回りに出ていったのは、それから十分後。
フロナは部屋で待つことになった。
火鉢の火が小さくなる。
外は、吹雪が叫び続けている。
待つだけの時間が、フロナは苦手だった。
(情報が来ないのが、一番嫌い)
霊素の流れを探る。
地図を頭に展開する。
――村の北、崖沿いの旧道。
魔素の流れが、ほんの少しだけ歪んでいる。
(……嫌な予感)
フロナが立ち上がった、その瞬間。
扉が乱暴に開いた。
「おい!」
雪をまとったカイが、息を切らして戻ってくる。
「村の北だ。崖の近く、魔物が出た」
「やっぱり」
「実は……」
カイは怒鳴りながらも、どこか焦っていた。
「……兵が一人、戻ってない」
その言葉で、フロナの胸が沈む。
(数が欠ける)
辺境では、それは“死”に直結する。
「私、行きます」
「行くな!」
「行きます」
フロナは、今度は引かなかった。
「今夜の最適解は、私が現場情報を拾って、あなたが形にすることです」
「お前が凍えたら最悪解だ!」
「凍えないようにします」
フロナは小瓶を握りしめる。
「混ざり物の利点を、今だけ使わせてください」
カイが、歯噛みする。
だが次の瞬間、彼はフロナの手首を掴んだ。
「……わかった。行く。だが絶対に俺から離れるな」
「はい」
返事は短い。
でも胸の奥が、少しだけ明るくなった。
(“離れるな”って言ってくれたの、嬉しいかも)
◆
外に出た瞬間、世界が白くなった。
風が暴力のように吹きつけ、視界が削られる。
息を吸うだけで肺が痛い。
カイが前に立ち、フロナの身体を風から守るように進む。
それだけで、彼が“盾”だという意味を、フロナは骨で理解した。
「霊素、どうだ」
「……北に、嫌な渦があります。あと」
フロナは目を細め、地面に意識を沈める。
霊素が、細い声で囁く。
「……人の熱が、一つ。動いてない」
カイの肩が跳ねた。
「位置」
「三十歩先、右。崖の手前。雪の下」
「……クソ」
カイが走る。
フロナも遅れないように追う。
雪を掘る。
凍りついた指先が痛い。
それでも、霊素膜がわずかに守ってくれている。
やがて、雪の下から手が出た。
「いた!」
兵は生きていた。
ただ、足が折れていた。
「すまねぇ……俺、足が……」
「喋るな。死ぬ」
カイが低く言い、兵を背負う。
その瞬間――
吹雪の中、何かが動いた。
黒い影。
雪に溶けるような体。
狼のような魔物が、歯を剥く。
「……来る」
フロナの声が震える。
(数、二……いや、三)
霊素は嘘をつかない。
構成は瞬時に組み上がる。
「カイ、左に二歩! ここ、落ちます!」
「は?」
「崖が――!」
次の瞬間、足元の雪が割れた。
古い道の下に空洞があり、
そこに重い雪が乗っていたのだ。
カイが反射で跳び、ギリギリで踏みとどまる。
兵を背負ったまま、それをやってのけるのがこの男の強さだった。
「……お前、今ので俺ら三人分の命を拾ったな」
「今は感想いりません!」
「だな」
カイの目が、鋭くなる。
◆
魔物が迫る。
だが、ここで戦えば負ける。
兵を抱えたままでは、数に押し潰される。
(撤退ルート)
フロナの頭の中に、地形が立ち上がる。
雪の層。風向き。岩場。木の密度。
霊素が、気配を教える。
「右の林に入って。木が多い。魔物は直進が得意だから、曲がれない」
「分かった」
カイは迷わない。
フロナが“見えたもの”を、即座に現実へ変換する。
――それは、帝都では絶対に起きなかった連携だった。
走る。
吹雪が顔を叩く。
魔物の吠え声が近い。
フロナの呼吸が乱れ始める。
(情報が、入ってくる)
霊素の囁きが増える。
構成の線が、勝手に広がる。
未来の可能性が枝分かれし、頭が熱を持つ。
「……っ」
視界が揺れる。
息が浅くなる。
(だめ、また――)
帝都で何度も起きた。
情報に飲まれて、身体が追いつかなくなる発作。
フロナが膝をつきかけた瞬間――
カイが、兵を背負ったまま片手を伸ばし、フロナの手を掴んだ。
「落ち着け」
握力が強い。
吹雪の中で、その手だけが確かな“現実”だった。
「吸え。吐け。今は“全部”見なくていい」
「……でも、見える……!」
「見えてるなら、言葉にしろ。俺が形にしてやる」
カイの声は低く、怒鳴りそうで怒鳴らない。
「お前が見てるものを、俺に渡せ」
フロナの目に、熱いものが滲んだ。
(……翻訳してくれる人)
帝都にはいなかった。
両親も、セドリックも、
フロナが“見えてしまう世界”を怖がるか、利用するかしかなかった。
この人は違う。
怖がらず、利用せず、
「受け止めて、形にする」と言った。
「……右、三本目の樹の根元。そこに溝。飛んで」
「了解」
「次、崖じゃない。岩。滑る」
「了解」
言葉が短くなるほど、呼吸が戻る。
カイが“形”にするほど、フロナは“見続けられる”。
――二人の役割が、噛み合っていく。
◆
砦の灯りが見えた。
門が開く。
見張りが叫ぶ。
「負傷者だ!」
兵が運び込まれ、治療が始まる。
フロナは、ようやく息を吐いた。
膝が笑う。
手が震える。
カイが外套を脱いで、フロナの肩に乱暴に掛けた。
「……自分が冷える前に、人の心配ばっかすんな」
「あなたもです」
フロナは言い返す。
「兵を背負ったまま走るの、非合理です」
「合理で生きてねぇんだよ、こっちは」
「知ってます」
フロナは小さく笑う。
「そこが、あなたの強さです」
言った瞬間、フロナはしまったと思った。
褒め言葉が口から出るとき、語彙力が飛ぶ癖がある。
案の定、次の言葉が続かない。
「……えっと、その……」
頬が熱い。
吹雪の中にいたのに、変だ。
カイは一瞬、目を見開いて――
それから、ほんの少しだけ、困ったように笑った。
「……そういうの、急に言うな。胃が痛くなる」
「胃が?」
「こっちは慣れてねぇんだよ。天才の直球に」
「直球ですか」
「直球だ」
そして、カイは視線を外しながら、ぽつりと言った。
「……帝都じゃ、こういうの言われなかったんだろ」
その一言に、フロナの胸がきゅっと縮む。
――言われなかった。
言われたのは、価値を測る言葉だけ。
役に立つ。役に立たない。
美しい。汚い。
純血。混ざり物。
「……言われませんでした」
フロナは、正直に言った。
するとカイは、火鉢の火を見つめたまま、静かに口を開いた。
「俺が辺境伯になるまでのこと、話したことなかったな」
フロナは、静かに頷いた。
カイは火鉢の奥を見つめる。
赤い火は小さいが、闇に押し負けず、じっと燃えている。
「俺は、土と闇の混ざり物だ」
あまりにもあっさりとした声だった。
「属性が一つなら、帝国じゃ“扱いやすい”って評価される。
土なら土、闇なら闇。役割がはっきりしてるからな」
指先で、火鉢の縁を軽く叩く。
「でも俺は混ざった。
土の安定性も、闇の浸食性も――どっちも中途半端だ」
灰色の瞳が、揺れる火を映した。
「力はある。
けど、うまく使えねぇ。
制御しようとすると、どっちも暴れる」
「……」
「だから俺は、魔法を“使わない”」
使えない、ではない。
**使わない**。
「使えば、周りを壊すか、自分が壊れる。
帝国はそういうのを“欠陥”って呼ぶ」
カイは、短く鼻で笑った。
「見た目にも出てるしな」
黒い髪。
灰色の瞳。
土の色と、闇の色が、はっきり混ざった外見。
「帝都じゃ、これだけで説明が終わる。
“ああ、混ざり物だ”って」
フロナの指先が、冷えた。
「それで、前の辺境伯に子がいなかった」
声が、少しだけ低くなる。
「帝国にとって、辺境は“管理できればいい土地”だ。
華も、栄達もいらねぇ。
だから――」
言葉を切り、はっきり言う。
「血が薄かろうが、混ざっていようが、
**継がせる相手が他にいなければ問題ない**」
火鉢が、ぱち、と鳴った。
「俺は選ばれたんじゃない。
残っただけだ」
淡々とした言葉が、逆に重い。
「昔、帝都に行ったことがある。
子どもの頃に一度だけ、父に連れられてな」
視線が、少し遠くなる。
「門の前で止められた。
“属性が混ざっている者は、宮中に入れるな”って」
護衛の視線。
測るような目。
「髪と目を見て、すぐ分かった顔をされた。
調べる必要もないんだ。
混ざり物は、顔に出るから」
喉が鳴る。
呼吸を整える音。
「父は笑ってた。
笑って『仕方ないな』って言って、俺だけ置いて行った」
その言葉は、雪よりも冷たい。
「その日から決めた」
カイは、フロナを見る。
「帝国には期待しない。
魔法の評価も、血の評価も、全部だ」
灰色の瞳が、静かに光る。
「なら、俺は俺で、この土地を守る。
魔法を使えなくても、混ざり物でも――
ここなら、意味はある」
火の明かりが、雪の外套を揺らした。
強くて、そして深く孤独な横顔。
「……孤独だったでしょう」
フロナの声は、そっと触れるようだった。
カイは、少しだけ目を逸らす。
「別に。慣れだ」
「慣れても、心は痛いです」
霊素が、静かに揺れる。
同意するように。
カイは、しばらく黙っていた。
「フロナはさ」
カイが、ぽつりと呟く。
「帝国で、もっと酷いこと言われただろ」
フロナは、笑おうとして――やめた。
笑うほど、軽い記憶じゃない。
「……はい」
短く答える。
カイが、握りしめた拳を緩める。
「なのに、よく折れなかったな」
その言葉が、フロナの胸に落ちた。
折れなかった。
折れたくなかった。
誰かのために必死で、
自分のために折れる余裕がなかった。
「……折れたら、負けです」
フロナは言う。
「私は、負けたくなかった。
“失敗作”のままで終わりたくなかった」
言葉が震える。
でも、止めない。
「でも、ここでは……」
フロナは火鉢を見つめる。
「ここでは、もし負けても終わりじゃない気がします」
カイが、息を吐いた。
「……そうだな」
そして、ほんの少しだけ近づく。
距離が近い。
息が当たる。
フロナの頭が一瞬、真っ白になる。
(あ、これ……情報じゃなくて、感情の方が処理できないやつかも)
「フロナ」
カイが、真面目な声で呼ぶ。
「……はい」
「フロナを、帝国には戻さない」
フロナの心臓が跳ねた。
「二度と、あんな冷たい場所に戻さない」
言葉は乱暴ではない。
けれど、決意の重さがある。
フロナは、目を瞬かせた。
「……私、戻るつもりはありません」
「知ってる」
カイが少し笑う。
「でも、帝国は“戻せ”って言うだろう」
その現実が、ふっと部屋の温度を下げる。
(帝国は、失ったものを取り返しに来る)
フロナの構成が、未来の線を引く。
霊素が、不穏な風向きを囁く。
まだ来ていない。
だが、必ず来る。
カイは、フロナの手を取った。
吹雪の中で握った時と同じ。
強くて、現実的で、逃げ道を塞ぐ手。
「来たら、俺が止める」
「……私も帰りません」
フロナは即答した。
「この領地の最適解は、私がここにいることです。
だから、ここにいます」
その理屈っぽさに、カイが息を吐いて笑う。
「……お前らしいな」
フロナも、小さく笑った。
笑った拍子に、胸の奥が少し痛む。
痛いのに、温かい。
それが、信頼以上の感情だと気づくのに、
フロナはまだ少し時間が必要だった。
吹雪は、まだ止まない。
けれど砦の中には、確かな火がある。
誰かの命を拾った夜。
誰かの孤独に触れた夜。
そして――帰る場所を、はっきり選んだ夜。
窓の外、闇の向こうで、風が唸る。
まるで遠い帝都が、
こちらの火を嗅ぎつけ始めたかのように。
(来るなら来い)
フロナは心の中で呟いた。
(私はもう、“帝国の影”じゃない)
カイの手が、まだ握られている。
その温度を確かめるように、フロナは指を少しだけ絡めた。
カイが、驚いたように一瞬だけ目を見開き――
そして何も言わず、握り返した。
吹雪の夜、二つの孤独が寄り添った。
その瞬間から、
帝国にとって一番厄介な“未来”が、静かに動き始めた。
――次に来るのは、きっと「特使」だ。




