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第9話 吹雪の夜の誓い

 夜の砦は、昼より音が多い。


 薪が爆ぜる音。

 風が木壁を叩く音。

 遠くで見張りの足が雪を踏む音。


 そして――屋根を削るように吹き荒れる、吹雪の音。


「……これは、外に出たら死ぬやつですね」


 フロナが真顔で言うと、向かいの男がため息を吐いた。


「軽い口で“死ぬ”を使うな」


「構成的に、今の風速と体温低下の推移を計算すると――」


「計算しなくていい」


 カイ・ヴァルシュタインは、毛皮の外套を投げるように椅子に掛けた。

 外套の雪が床に落ち、すぐに溶けて暗い染みになる。


 火鉢の近く。

 倉庫を改装した簡素な執務室。

 机の上には、フロナが引いた線だらけの地図と、山のような帳簿。


 ここ数ヶ月、二人は毎日のようにこの部屋で夜を迎えていた。


 水路が戻った。

 土が息をした。

 魔素の澱みは流れ出し、村は少しずつ“生き返って”いる。


 ――なのに、今夜の空気は、どこか硬かった。



「見回り、出る」


 カイが短く言い、腰の剣を確かめる。


「この吹雪で?」


「こういう夜に限って、魔物は動く」


 それが辺境の常識だ。

 火の明かりが揺れるたび、窓の外の闇が濃く見える。


「私も行きます」


 フロナが立ち上がると、カイの動きが止まった。


「……冗談だろ」


「冗談ではありません。私が“危ない”と言った地点は、今夜です」


「だからって、お前が外で凍えてどうする」


「凍えません。対策はあります」


 フロナはさらりと言って、机の端に置いてあった小瓶を手に取った。

 淡い銀色の粒子が、瓶の中で小さく舞っている。


霊素フェアリーの保温膜。薄いけど、皮膚温の低下を遅らせます」


「……お前、いつ作った」


「さっき」


「さっき!?」


 カイが頭を抱える。


「お前、そういうの“さっき”で作れるのかよ……」


「作れます。褒めてます?」


「褒めてねぇ。心配してんだ」


 フロナの語彙力が、ほんの一瞬だけ迷子になりかけた。


「……心配、は」


 言いかけて、咳払いする。


「合理的です。私が死んだら、あなたの作業量が増えますから」


「それ、“合理”の使い方が冷たいな」


「冷たいのは外です」


「そういう問題じゃねえ……!」


 カイが一歩近づいて、フロナの肩を掴む。


 その手は、外気のせいで冷えていた。

 冷たいのに――妙に、安心する重さだった。


「……今夜はやめろ。吹雪が強すぎる」


「でも」


「命令だ」


 カイの目が、揺れない。


 フロナは一瞬だけ唇を噛み――頷いた。


「……はい」


 納得していないのは自分でも分かる。

 けれど、ここで言い張ると、彼は本気で怒る。


 その事実が、なぜか胸の奥に熱を落とした。



 カイが見回りに出ていったのは、それから十分後。

 フロナは部屋で待つことになった。


 火鉢の火が小さくなる。

 外は、吹雪が叫び続けている。


 待つだけの時間が、フロナは苦手だった。


(情報が来ないのが、一番嫌い)


 霊素の流れを探る。

 地図を頭に展開する。


 ――村の北、崖沿いの旧道。

 魔素の流れが、ほんの少しだけ歪んでいる。


(……嫌な予感)


 フロナが立ち上がった、その瞬間。


 扉が乱暴に開いた。


「おい!」


 雪をまとったカイが、息を切らして戻ってくる。


「村の北だ。崖の近く、魔物が出た」


「やっぱり」


「実は……」


 カイは怒鳴りながらも、どこか焦っていた。


「……兵が一人、戻ってない」


 その言葉で、フロナの胸が沈む。


(数が欠ける)


 辺境では、それは“死”に直結する。


「私、行きます」


「行くな!」


「行きます」


 フロナは、今度は引かなかった。


「今夜の最適解は、私が現場情報を拾って、あなたが形にすることです」


「お前が凍えたら最悪解だ!」


「凍えないようにします」


 フロナは小瓶を握りしめる。


「混ざり物の利点を、今だけ使わせてください」


 カイが、歯噛みする。


 だが次の瞬間、彼はフロナの手首を掴んだ。


「……わかった。行く。だが絶対に俺から離れるな」


「はい」


 返事は短い。

 でも胸の奥が、少しだけ明るくなった。


(“離れるな”って言ってくれたの、嬉しいかも)



 外に出た瞬間、世界が白くなった。


 風が暴力のように吹きつけ、視界が削られる。

 息を吸うだけで肺が痛い。


 カイが前に立ち、フロナの身体を風から守るように進む。

 それだけで、彼が“盾”だという意味を、フロナは骨で理解した。


霊素フェアリー、どうだ」


「……北に、嫌な渦があります。あと」


 フロナは目を細め、地面に意識を沈める。


 霊素フェアリーが、細い声で囁く。


「……人の熱が、一つ。動いてない」


 カイの肩が跳ねた。


「位置」


「三十歩先、右。崖の手前。雪の下」


「……クソ」


 カイが走る。

 フロナも遅れないように追う。


 雪を掘る。

 凍りついた指先が痛い。

 それでも、霊素膜がわずかに守ってくれている。


 やがて、雪の下から手が出た。


「いた!」


 兵は生きていた。

 ただ、足が折れていた。


「すまねぇ……俺、足が……」


「喋るな。死ぬ」


 カイが低く言い、兵を背負う。


 その瞬間――


 吹雪の中、何かが動いた。


 黒い影。

 雪に溶けるような体。

 狼のような魔物が、歯を剥く。


「……来る」


 フロナの声が震える。


(数、二……いや、三)


 霊素フェアリーは嘘をつかない。

 構成アーキテクトは瞬時に組み上がる。


「カイ、左に二歩! ここ、落ちます!」


「は?」


「崖が――!」


 次の瞬間、足元の雪が割れた。


 古い道の下に空洞があり、

 そこに重い雪が乗っていたのだ。


 カイが反射で跳び、ギリギリで踏みとどまる。

 兵を背負ったまま、それをやってのけるのがこの男の強さだった。


「……お前、今ので俺ら三人分の命を拾ったな」


「今は感想いりません!」


「だな」


 カイの目が、鋭くなる。



 魔物が迫る。


 だが、ここで戦えば負ける。

 兵を抱えたままでは、数に押し潰される。


(撤退ルート)


 フロナの頭の中に、地形が立ち上がる。

 雪の層。風向き。岩場。木の密度。

 霊素フェアリーが、気配を教える。


「右の林に入って。木が多い。魔物は直進が得意だから、曲がれない」


「分かった」


 カイは迷わない。

 フロナが“見えたもの”を、即座に現実へ変換する。


 ――それは、帝都では絶対に起きなかった連携だった。


 走る。

 吹雪が顔を叩く。

 魔物の吠え声が近い。


 フロナの呼吸が乱れ始める。


(情報が、入ってくる)


 霊素フェアリーの囁きが増える。

 構成アーキテクトの線が、勝手に広がる。

 未来の可能性が枝分かれし、頭が熱を持つ。


「……っ」


 視界が揺れる。

 息が浅くなる。


(だめ、また――)


 帝都で何度も起きた。

 情報に飲まれて、身体が追いつかなくなる発作。


 フロナが膝をつきかけた瞬間――


 カイが、兵を背負ったまま片手を伸ばし、フロナの手を掴んだ。


「落ち着け」


 握力が強い。

 吹雪の中で、その手だけが確かな“現実”だった。


「吸え。吐け。今は“全部”見なくていい」


「……でも、見える……!」


「見えてるなら、言葉にしろ。俺が形にしてやる」


 カイの声は低く、怒鳴りそうで怒鳴らない。


「お前が見てるものを、俺に渡せ」


 フロナの目に、熱いものが滲んだ。


(……翻訳してくれる人)


 帝都にはいなかった。

 両親も、セドリックも、

 フロナが“見えてしまう世界”を怖がるか、利用するかしかなかった。


 この人は違う。


 怖がらず、利用せず、

 「受け止めて、形にする」と言った。


「……右、三本目の樹の根元。そこに溝。飛んで」


「了解」


「次、崖じゃない。岩。滑る」


「了解」


 言葉が短くなるほど、呼吸が戻る。

 カイが“形”にするほど、フロナは“見続けられる”。


 ――二人の役割が、噛み合っていく。



 砦の灯りが見えた。


 門が開く。

 見張りが叫ぶ。


「負傷者だ!」


 兵が運び込まれ、治療が始まる。

 フロナは、ようやく息を吐いた。


 膝が笑う。

 手が震える。


 カイが外套を脱いで、フロナの肩に乱暴に掛けた。


「……自分が冷える前に、人の心配ばっかすんな」


「あなたもです」


 フロナは言い返す。


「兵を背負ったまま走るの、非合理です」


「合理で生きてねぇんだよ、こっちは」


「知ってます」


 フロナは小さく笑う。


「そこが、あなたの強さです」


 言った瞬間、フロナはしまったと思った。

 褒め言葉が口から出るとき、語彙力が飛ぶ癖がある。


 案の定、次の言葉が続かない。


「……えっと、その……」


 頬が熱い。

 吹雪の中にいたのに、変だ。


 カイは一瞬、目を見開いて――

 それから、ほんの少しだけ、困ったように笑った。


「……そういうの、急に言うな。胃が痛くなる」


「胃が?」


「こっちは慣れてねぇんだよ。天才の直球に」


「直球ですか」


「直球だ」


 そして、カイは視線を外しながら、ぽつりと言った。


「……帝都じゃ、こういうの言われなかったんだろ」


 その一言に、フロナの胸がきゅっと縮む。


 ――言われなかった。

 言われたのは、価値を測る言葉だけ。


 役に立つ。役に立たない。

 美しい。汚い。

 純血。混ざり物。


「……言われませんでした」


 フロナは、正直に言った。


 するとカイは、火鉢の火を見つめたまま、静かに口を開いた。




「俺が辺境伯になるまでのこと、話したことなかったな」


 フロナは、静かに頷いた。


 カイは火鉢の奥を見つめる。

 赤い火は小さいが、闇に押し負けず、じっと燃えている。


「俺は、土と闇の混ざり物だ」


 あまりにもあっさりとした声だった。


「属性が一つなら、帝国じゃ“扱いやすい”って評価される。

 土なら土、闇なら闇。役割がはっきりしてるからな」


 指先で、火鉢の縁を軽く叩く。


「でも俺は混ざった。

 土の安定性も、闇の浸食性も――どっちも中途半端だ」


 灰色の瞳が、揺れる火を映した。


「力はある。

 けど、うまく使えねぇ。

 制御しようとすると、どっちも暴れる」


「……」


「だから俺は、魔法を“使わない”」


 使えない、ではない。

 **使わない**。


「使えば、周りを壊すか、自分が壊れる。

 帝国はそういうのを“欠陥”って呼ぶ」


 カイは、短く鼻で笑った。


「見た目にも出てるしな」


 黒い髪。

 灰色の瞳。

 土の色と、闇の色が、はっきり混ざった外見。


「帝都じゃ、これだけで説明が終わる。

 “ああ、混ざり物だ”って」


 フロナの指先が、冷えた。


「それで、前の辺境伯に子がいなかった」


 声が、少しだけ低くなる。


「帝国にとって、辺境は“管理できればいい土地”だ。

 華も、栄達もいらねぇ。

 だから――」


 言葉を切り、はっきり言う。


「血が薄かろうが、混ざっていようが、

 **継がせる相手が他にいなければ問題ない**」


 火鉢が、ぱち、と鳴った。


「俺は選ばれたんじゃない。

 残っただけだ」


 淡々とした言葉が、逆に重い。


「昔、帝都に行ったことがある。

 子どもの頃に一度だけ、父に連れられてな」


 視線が、少し遠くなる。


「門の前で止められた。

 “属性が混ざっている者は、宮中に入れるな”って」


 護衛の視線。

 測るような目。


「髪と目を見て、すぐ分かった顔をされた。

 調べる必要もないんだ。

 混ざり物は、顔に出るから」


 喉が鳴る。

 呼吸を整える音。


「父は笑ってた。

 笑って『仕方ないな』って言って、俺だけ置いて行った」


 その言葉は、雪よりも冷たい。


「その日から決めた」


 カイは、フロナを見る。


「帝国には期待しない。

 魔法の評価も、血の評価も、全部だ」


 灰色の瞳が、静かに光る。


「なら、俺は俺で、この土地を守る。

 魔法を使えなくても、混ざり物でも――

 ここなら、意味はある」


 火の明かりが、雪の外套を揺らした。

 強くて、そして深く孤独な横顔。


「……孤独だったでしょう」


 フロナの声は、そっと触れるようだった。


 カイは、少しだけ目を逸らす。


「別に。慣れだ」


「慣れても、心は痛いです」


 霊素フェアリーが、静かに揺れる。

 同意するように。


 カイは、しばらく黙っていた。



 

 


「フロナはさ」


 カイが、ぽつりと呟く。


「帝国で、もっと酷いこと言われただろ」


 フロナは、笑おうとして――やめた。


 笑うほど、軽い記憶じゃない。


「……はい」


 短く答える。


 カイが、握りしめた拳を緩める。


「なのに、よく折れなかったな」


 その言葉が、フロナの胸に落ちた。


 折れなかった。

 折れたくなかった。

 誰かのために必死で、

 自分のために折れる余裕がなかった。


「……折れたら、負けです」


 フロナは言う。


「私は、負けたくなかった。

 “失敗作”のままで終わりたくなかった」


 言葉が震える。

 でも、止めない。


「でも、ここでは……」


 フロナは火鉢を見つめる。


「ここでは、もし負けても終わりじゃない気がします」


 カイが、息を吐いた。


「……そうだな」


 そして、ほんの少しだけ近づく。


 距離が近い。

 息が当たる。

 フロナの頭が一瞬、真っ白になる。


(あ、これ……情報じゃなくて、感情の方が処理できないやつかも)




「フロナ」


 カイが、真面目な声で呼ぶ。


「……はい」


「フロナを、帝国には戻さない」


 フロナの心臓が跳ねた。


「二度と、あんな冷たい場所に戻さない」


 言葉は乱暴ではない。

 けれど、決意の重さがある。


 フロナは、目を瞬かせた。


「……私、戻るつもりはありません」


「知ってる」


 カイが少し笑う。


「でも、帝国は“戻せ”って言うだろう」


 その現実が、ふっと部屋の温度を下げる。


(帝国は、失ったものを取り返しに来る)


 フロナの構成が、未来の線を引く。

 霊素フェアリーが、不穏な風向きを囁く。


 まだ来ていない。

 だが、必ず来る。


 カイは、フロナの手を取った。


 吹雪の中で握った時と同じ。

 強くて、現実的で、逃げ道を塞ぐ手。


「来たら、俺が止める」


「……私も帰りません」


 フロナは即答した。


「この領地の最適解は、私がここにいることです。

 だから、ここにいます」


 その理屈っぽさに、カイが息を吐いて笑う。


「……お前らしいな」


 フロナも、小さく笑った。


 笑った拍子に、胸の奥が少し痛む。

 痛いのに、温かい。


 それが、信頼以上の感情だと気づくのに、

 フロナはまだ少し時間が必要だった。




 吹雪は、まだ止まない。


 けれど砦の中には、確かな火がある。


 誰かの命を拾った夜。

 誰かの孤独に触れた夜。

 そして――帰る場所を、はっきり選んだ夜。


 窓の外、闇の向こうで、風が唸る。


 まるで遠い帝都が、

 こちらの火を嗅ぎつけ始めたかのように。


(来るなら来い)


 フロナは心の中で呟いた。


(私はもう、“帝国の影”じゃない)


 カイの手が、まだ握られている。


 その温度を確かめるように、フロナは指を少しだけ絡めた。


 カイが、驚いたように一瞬だけ目を見開き――

 そして何も言わず、握り返した。


 吹雪の夜、二つの孤独が寄り添った。


 その瞬間から、

 帝国にとって一番厄介な“未来”が、静かに動き始めた。


 ――次に来るのは、きっと「特使」だ。



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