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第7話 地政学的チェックメイト

 地図は、嘘をつかない。

 ヴァルシュタイン砦の執務室にて、

 長机いっぱいに広げられた羊皮紙の上を、フロナはゆっくりと指でなぞっていた。


 ざらりとした感触と乾いたインクの匂いが心地いい。

 

 窓の隙間から、冷たく澄んだ空気が入り込んでくる。


 それは、雪原の匂いだった。

 人の手がほとんど入っていない、

 高く、静かな場所の匂いだった。


「……ここ」


 とん、とフロナは軽く叩いた。


「この峠、帝国の地図だと“通行困難”で放置されています」


「実際、冬は使えねえからな」


 カイが腕を組んだまま答える。


「雪崩と吹雪で、商隊はまず通らない」


「帝国の商隊は、ですね」


 フロナは、静かに顔を上げた。




「この峠、霊素フェアリーの流れが安定しています」


 指先は、地図の線を外れ、

 まだ描かれていない地形をなぞる。


 脳裏に浮かぶのは、

 切り立つ岩肌と、風に削られた尾根。

 雪は深いが、吹き溜まりは少ない。


「風が分断されていて、

 雪が一か所に溜まりにくい。

 積雪量は一定で、地盤も硬い」


 霊素フェアリーが、静かに囁く。


「魔物の通り道からも、わずかに外れています」


「……待て」


 カイが眉を寄せる。


「なんでそんなことが分かる」


霊素フェアリーが教えてくれます」


 さらりとした答えだった。


「“ここは、人が通る前提でできている”って」


 まるで、

 峠そのものが長い時間をかけて

 そう形作られてきたかのように。




 室内が、ざわついた。


「そんな峠、聞いたことないぞ」


「帝国の地図局が調査してないってことか?」


「正確には」


 フロナは、別の羊皮紙を広げる。


「“使えない”と判断して、切り捨てたんだと思います」


 帝国領。

 辺境。

 隣国。


 線と線が、頭の中で静かにつながる。


 谷を渡る風。

 尾根を越える雲。

 人の都合で引かれなかった道がそこにはある。




「帝国は、物流を中央で握っています」


 淡々とした声。


「主要街道、関所、関税。

 すべてを帝都に集約する構造」


 それは、

 人が人を管理するための線だ。


「でも」


 フロナは、細い線を一本引いた。


 羊皮紙の上に、

 自然の起伏に沿った、柔らかな線が生まれる。


「この峠を使えば、

 帝国を“経由しない”物流が成立します」




 皆が沈黙する。


 外で、風が砦の壁をなぞる音がした。


 次に息を吸ったのは、カイだった。


「……それって」


「はい」


 フロナは、迷いなく頷く。


「帝国の許可なしに、

 物が入り、物が出ていきます」




「正気か?」


 技術者の一人が声を荒げた。


「それは反逆だぞ」


「いいえ」


 フロナは、きっぱりと言い切る。


「未整備ルートの活用です」


 紙の上に、もう一本線を足す。


「帝国法では、禁止されていません。

 規定がない以上、罰則も存在しない」


 風は、

 国境も法律も知らない。




 カイは、長い間地図を見つめていた。


 無意識に、指が剣の柄に触れる。


「……このルートが成立したら」


 低い声。


「帝国は、俺たちを締め上げられなくなる」


「はい」


 フロナは、わずかに口元を緩めた。


「関税で絞れない。

 兵糧を止められない。

 魔石の供給も、脅しにならない」




 それは、戦争ではなかった。


 剣も、軍勢も、号令もいらない。


 ただ――

 「自然が許した道を、使っただけ。」


 それは、最も静かで、

 最も逃げ場のない一手となるだろう。


 




 数日後。


 峠の整備が始まった。


 雪を払い、

 石を動かし、

 霊素フェアリーの流れを塞がないよう、最低限だけ手を入れる。


「そこ、削りすぎるな」


「分かってる。

 雪の逃げ場がなくなる」


 鍬が入るたび、

 土が、ゆっくりと呼吸を取り戻す。


 峠は、

 人に使われることを拒んでいたのではない。


 乱暴に扱われることを、拒んでいただけだった。




 最初の商隊が姿を見せたのは、

 吹雪が切れ、

 陽が雪面に反射する朝だった。


 空は高く、

 雪は白く、

 峠は驚くほど静かだった。


「……本当に、通れた」


 隣国の商人が、息を呑む。


「帝国の関所を通らずに、

 ここまで来られるなんて」


「歓迎されています」


 フロナは、静かに答えた。


「ここは、

 自然と共に通る者を拒みません」




 物資が、少しずつ流れ始めた。


 最初は、穀物だった。

 硬く閉ざされていた倉の扉が開き、

 袋をほどいた途端、乾いた麦の匂いが辺境の空気に混ざった。


 次に、布。

 雪と泥に強い厚手の織物が運び込まれ、

 村人たちはそれを撫でながら、

 「今年の冬は越せそうだ」と小さく息を吐いた。


 工具が届く頃には、

 砦の裏で止まっていた修繕が再び動き出した。

 金属が打ち合わされる音が、

 乾いた空に、澄んで響いた。


 そして――情報。


 峠の向こうの天候。

  隣国の市の相場。

 帝国で何が滞り、何が余っているか。


 焚き火のそばで交わされる何気ない会話が、

 この土地に“先を読む力”を与えていく。


 辺境は、急には変わらない。


 だが、

 凍りついていた地面の下で、

 見えない流れが確かに動き始めていた。


 それは、

 春先の雪解け水のように――

 音もなく、しかし止めようのない速さで。


 ヴァルシュタインは、

 ゆっくりと、深く、息を吹き返していった。




「……なあ、フロナ」


 この夜も、星が輝く空の下で、

 砦の外の見回りを二人でしていた。


「最近思うんだけど、もう“領地”だけの話じゃねえな」


 カイが言う。


「はい」


 フロナは、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。


「“国”を揺らがす状態になってきましたね」

「そして、みんなの生活も、豊かになってきました」




 地図の上で、

 帝国はまだ大きい。


 けれど――

 支配の線は、確実に一本、切られた。


 刃ではなく、

 風と雪と、人の手によって。


 静かに。

 誰にも気づかれないまま。


 それが、帝国にとって一番恐ろしいことだった。




(帝国は、まだ気づいていない)


 フロナは思う。


(自分たちが、

 “中心”じゃなくなり始めていることに)


 大陸の地図が、

 自然の呼吸とともに、

 音もなく書き換わり始めていた。


 そしてその大陸の中心に、

 いつの間にか――

 「ヴァルシュタイン」の名が、置かれていた。



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