第4話 見えない支えの消失
帝都の朝は、いつも騒がしい。
馬車の車輪が石畳を叩く音。
露店の呼び声。
夜明けと同時に灯る魔導灯の、低く均一な駆動音。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが通りに流れ、
人々はそれを吸い込みながら歩く。
――少なくとも、以前はそうだった。
「……おい、進まねえぞ」
「また止まったのか?」
大通りの中央で、荷馬車が詰まっている。
一台、二台ではない。
視界の先まで、
重たい箱を載せた馬車が、
呼吸を忘れた獣の群れのように並んでいた。
馬の鼻息が荒く、
乾いた藁と汗の匂いが、いつもより濃い。
誰かが舌打ちし、
誰かが空を見上げる。
――それでも、理由は分からない。
◆
「どういうことだ!」
皇太子執務室で、セドリックが声を荒げた。
「北街道が止まった?
南も?
港からの荷も遅延?」
机の前に立つ文官は、
書類を抱えたまま、脂汗を浮かべている。
「は、はい……原因が特定できず……」
「原因がない遅延などあるか!」
拳が机を打ち、
紙の角がずれる。
以前なら、この程度の報告は、
執務室に届く前に“片付いていた”。
――そう、以前なら。
「……フロナがやっていた事務作業だろう?」
セドリックは、苛立ちを隠さず言い放つ。
「数字を並べて、帳簿をいじっていただけの仕事だ。
誰にでもできる」
文官たちは、無言で視線を交わした。
「ですが殿下……
フロナ様の担当範囲は――」
「だから!」
声が鋭く遮る。
「もういない人間の話はいい!」
椅子に深く腰を下ろし、
腕を組む。
「代わりを立てろ。
優秀な者はいくらでもいる」
その言葉を合図にしたかのように、
数人の文官が、一斉に頷いた。
――理解できないものを、
理解しようとする空気は、
そこにはなかった。
◆
だが、結果は三日で出た。
「……パンが届かない?」
「昨日から、市場に入っていません」
「肉もです。
保存食しか残っていないと……」
市場の空気が、ゆっくりと変わっていく。
焼き物の匂いが薄れ、
代わりに、乾いた粉と不安の匂いが漂い始める。
「なんでだ?
街道は整備されてるだろう!」
「雪でも降ったのか?」
「いや、天候は安定してるんですが……」
――誰も、気づかなかった。
街道の“最短ルート”が、
ほんのわずか、ずれていることに。
崩れかけた橋を避けるための、
一時的な迂回路が解除されていないことに。
霊素の流れが乱れた地点を避ける、
「見えない修正」が、消えていることに。
◆
「今日も不味いわ!」
甲高い声が、食卓に響いた。
リリアーヌ・フレアライトが、
スープ皿を睨みつけている。
「このスープ、薄いじゃない!」
「は、はい……材料が……」
「言い訳しないで!」
がしゃん、と皿が床に叩きつけられる。
湯気と共に、
野菜と脂の匂いが、空気に散った。
「皇太子とその婚約者のための料理よ?
どうしてこんな粗末なものを!」
セドリックは、眉をひそめる。
「……最近、料理の質が落ちているな」
「最近じゃないわ!
ずっとよ!」
リリアーヌは腕を組む。
「フロナがいなくなってからよ。
空気も重いし、食事も最悪」
その名前が出た瞬間、
セドリックの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
「……彼女は関係ない」
「本当に?」
リリアーヌは、首を傾げる。
「だって、あの子。
帳簿も物流も、
全部一人で見てたんでしょう?」
「……」
セドリックは何も言うことができなかった。
◆
その頃、
北街道の詰所では、
兵が頭を抱えていた。
「荷が来ない……」
「そして、来たとしても遅すぎる」
「先週から十件、小さくない事故も起きてる」
机の上に積まれる報告書。
――滑落。
――転倒。
――魔物との接触。
どれも、
ほんの少しの判断があれば、
避けられたはずの事故だった。
◆
「おかしい……」
執務室で、セドリックは呟いた。
「フロナの時は、もっと……」
そこで、言葉が止まる。
街道は滞らず、
市場は潤い、
文官は余裕を持って仕事をしていた。
それを、セドリックは
“当たり前”だと思っていた。
「殿下」
文官の一人が、
おずおずと口を開く。
「……フロナ様は、
正式な役職を持っていませんでしたが――」
「言い訳か?」
「いえ。
ただ……」
差し出された一枚の紙。
細かく、几帳面な文字。
簡潔な矢印。
「この迂回路の指示。
この倉庫の振り分け。
この日付の調整……」
文官は、喉を鳴らした。
「どれも、帝国の潤滑油として機能していたようです」
セドリックは、紙を見つめた。
見覚えのある筆跡がそこにはあった。
(……フロナ)
胸の奥に、
ゆっくりと、嫌な重みが広がる。
見えなかった支え。
理解できなかった調整。
それが今、
抜け落ちて初めて大切だったと気付かされてた。
「……ばかな」
セドリックは、紙を握り潰した。
「たかが帳簿だ。
数字遊びだったはずだろう!?」
怒鳴る声に、
もう以前の余裕はない。
「なぜだ……!」
机を叩く。
「なぜ、フロナの時は、
もっとスムーズに動いていた……!」
その問いに、
答えられる者はいなかった。
◆
帝都の入り口の、
滞る馬車列の向こうで、
誰かがぽつりと呟いた。
「……帝国、最近おかしくないか?」
その声は、
まだ小さく、
けれど確実に、街に染み込んでいく。
――見えない支えを失った帝国は、
まだ、自分が”傾き始めている”ことに気づいていない。
まだ、崩壊は始まったばかりだ。




