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第2話 泥の中の設計図

 ヴァルシュタイン砦の朝は、

 目覚ましより先に、風が牙を剥く。


「……っさむ!!」


 フロナは布団から跳ね起きた瞬間、

 肺が縮むほどの冷気に全身を貫かれた。


 息を吸っただけで、喉が痛い。

 吐く息は白く、天井に届く前に霧散する。


 部屋は、石と木と隙間風だけでできているらしい。

 帝都の屋敷にあった、絹の天蓋も、ふかふかの羽根布団もない。


 あるのは、薄い毛布と、冷たいベッド板。

 そして、容赦なく入り込んでくる極北の朝だ。


(生きてますね……私)


 そう実感できるのは、

 痛覚が、きっちり現実を叩きつけてくるからだ。



「おはようございます、ドレイクハルト嬢」


 同室を担当している雑務係の少女・ミーナが、

 まだ半分眠った顔で、小さく頭を下げた。


「はい、おは……うっ……」


 立ち上がった瞬間、足が攣りそうになる。


 昨日から合わせて運んだ荷袋は、ざっと十数袋。

 薪、水、穀物、工具。


(帝都の書き物仕事より、

 現場作業のほうが絶対にエネルギー消費激しい……!)


 内心で悲鳴を上げながら、

 フロナは自分の裾をきゅっとまくり上げた。


「今日も手伝わせてください」


「え、いいんですか? 令嬢なのに」


「肩書きは、砦での労働に一切貢献しませんので」


 即答すると、ミーナが吹き出した。


「気に入りました!

 あ、薪小屋はこっちです!」



 砦の裏手――薪小屋。


 朝の光を浴びて、霜をまとった丸太が山積みになっている。

 吐く息と一緒に、木の匂いが鼻をくすぐった。


「これ……全部?」


「全部です!」


 ミーナの声は、朝の空気みたいに澄んでいる。


(はいはい、了解、最適解……

 求められてるのは、人力ですね……)


 フロナは斧を握った。


 数式ではなく、現実が腕を要求してくる。


「ふっ……はあっ!!」


 斧が木を割るたび、乾いた音が朝に響く。

 そのたび、霊素フェアリーが、わずかに震えた。


(……気のせいじゃない)


 砦の地下。

 そこに渦巻く何かが、昨日よりはっきり主張している。



 昼近く。


「嬢ちゃん、本当にやる気かよ」


 荷運び係の男たちが、苦笑混じりに声をかけてきた。


「令嬢が泥まみれなんて絵面、初めて見るぜ?」


「似合ってますか?」


「似合わねえ!」


「ですよね」


 笑いながら、フロナは麻袋を肩に担ぎ直す。


 足元から、霊素がざわざわと這い上がってくる。


 湿った土の匂い。

 流れの止まった地下水。

 魔素が、重く澱んでいる。


(この土地の魔力……病気みたい)


 袋を積み上げながら、

 フロナの思考は自然と計算へ移行した。


 地形の凹凸。

 腐った水路。

 岩盤の裂け目。


(もし、ここを通せたら――)


 思考が加速する。

 肩に食い込む重さの下で、数字の線が勝手に結び目を作った。


(三点……ここを掘れたら……)


「ん?」


 隣から声が落ちる。


 気づけば、フロナは口に出していた。


「ここ……と、ここと……」

「どこ指さしてんだ?」


 声の主は、荷運びを監督していた辺境伯――カイだった。


 しれっと手伝っているらしく、

 袋を担いでいても、その目はやたら鋭かった。



「地下水が……溜まってるんです」


 フロナは、息を整えながら答えた。


「魔素が水に淀んで、土壌と作物の流れを止めてる。

 たぶん、この村が痩せてる原因も、

 魔物が近づきやすい理由も、同じです」


「……見えるのか?」


「感じます。勝手に」


 フロナは泥の中にしゃがみ込み、地面へ指を触れた。


「ここを三つ。

 斜面の下と、荒れ地の端と、砦の南東。

 掘り抜けば、溜まった水と魔力が抜けます」


「掘り抜くって、誰が」


「当然、人手で」


「馬鹿か?」


「予定は、いつだって急に生まれます」


 カイは、大きくため息を吐いた。


「根拠は?」


「霊素の声と、構成の計算です」


「理屈になってねぇ」


「説明できるように整理します。

 ただ、今日の時点で言えるのは――」


 フロナは指先を握る。


「ここを何もしないと、いずれ沈みます」


 風が、沈黙を押し広げた。



 カイは袋を肩に乗せたまま、フロナを見下ろす。


「どこもかしこも守る余裕はないぞ」


「わかってます」


「お前一人の直感で動かすには、村の規模がでかい」


「だから、実験します」


「……は?」


「一番小さい水路で。

 成功したら、規模を広げましょう」


 その答えに、カイの口元がわずかに跳ねた。


「帝都の机上の計算じゃねぇんだぞ?」


「机上じゃないです。現場です」


 フロナは、ぴしゃりと返す。


「だからこそ、

 ここでしか成立しない式があります」



「――で、何すりゃいい」


 カイは袋を放り投げ、腕を組んだ。


 フロナはぱちくりと瞬いた。


「巻き込まれる気、なかったんじゃ……」

「言いたい放題聞いたら、

 試さないと落ち着かねぇタイプなんでな」


(……あ、この人、根はめんどくさい)


 けれど、そのめんどくささが、

 フロナは少しだけ嬉しかった。


「では、水路の図と、鍬と、元気な人手を」

「ミーナー!

 暇そうな奴ら、全員連れてこい!」

「了解でーすっ!」


 あっという間に、状況が動く。




 ――その瞬間だった。


 頭の奥に、雪崩のように情報が流れ込んできた。


(っ……!)


 魔力の流向。

 地層の歪み。

 凍土の下に閉じ込められた水圧。


 見えないはずのものが、

 **「そこにある」と断言する速度で迫ってくる。**


 雪の下で眠っていた流れが、一斉に目を覚ました。


 冷たい地面の奥から、

 重たいざわめきが、脳裏を叩く。


 思考が、追いつかない。


 脳が、一瞬で沸騰した。


「――っ、は、はぁ……っ」


 視界が歪む。

 白い空と土の色が、ゆっくり混ざる。


 吸い込んだ冷気が、肺を刺す。

 指先の感覚が、薄れていく。


 膝が、わずかに折れた。


 その瞬間――


 腕を、強く掴まれた。


「おい」


 間近にある、灰色の瞳。


 雪明かりを映したその目は、

 異常なほど、静かだった。


「急に黙るな。息、吸えてるか」


「ちょっと……情報が……多くて……」


「なら止まれ。死ぬぞ」


「死ぬ気は……ないです……っ」


「そういう問題じゃねえ!」


 声が、はっきりと耳に届く。


 ぐっと、手に力が込められた。


 冷え切った掌に、

 確かな熱が流れ込む錯覚。


「落ち着け」


 低く、命令みたいに。


「見えてるなら、俺に渡せ。

 形にすんのは――俺たちの仕事だ」


 その一言で。


 絡まりきっていた線が、

 **ほどける音**がした。


(……あ)


 情報が、意味を持ち始める。


(翻訳してくれるんだ、この人)


 霊素フェアリー構成アーキテクトが、

 初めて同じ速度で呼吸を始めた。


 心の奥が、すっと軽くなる。



 フロナは、ゆっくりと息を整えた。


 白い息が、二人の間で溶ける。


「……ありがとうございます」


「礼は要らねえ。仕事しろ」


「はい。全力で」


 それだけで、十分だった。


 フロナは、泥の中でしっかりと立ち上がる。


 霊素フェアリーが揺れる。

 構成アーキテクトが、静かに回る。


 地面の奥で眠っていた流れが、

 **“触れられる距離”**にある。


(じゃあ――動かそう)


 帝都に置いてきた未来図の続きを、

 ここで描く。



 カイが、鍬を肩に担いだ。


 雪を踏む音が、低く響く。


「場所を示せ」


「こちらです!」


「掘る深さは?」


「あとで調整します!」


「最初から決めろ!!」


「判断は現場優先です!」


「お前に現場が理解できるのか?」


「今、掴みかけてます!」


 言葉は噛み合っていない。

 だが、動きは一致していた。


 ミーナと兵たちが集まり、

 鍬とシャベルが次々に渡される。


「なんかよく分かんないけど、掘るんですよね!」

「深さは!?」

「とりあえず言われた辺りで!」


「雑すぎませんか!?」

「現場はだいたいこんなもんだ!」


 笑い声と文句が混じり、

 砦の外れで、土が跳ね飛ぶ音が鳴り始めた。



 土の匂いが、空気を満たす。


 凍った地面を割るたび、

 冷たい水が、じわりと滲み出す。


「出たぞ!」

「うわ、冷てぇ!」


 水は澄んでいる。

 けれど、どこか重たい。


 まだ、流れ切っていない。


(……もう少し)


 フロナは掘り進む様子を見つめながら、

 頭の中で構成アーキテクトを組み替える。


 数字と感覚が、

 ようやく同じ拍子で脈打っていた。



(これが、第一歩)


 フロナは息を吸う。


 極北の冷たい空気が肺を満たし、

 吐いた息が白くほどける。


 帝都が切り捨てた“混ざり物”は、

 今、泥と雪の中で、確かに歯車を回している。


 それは、まだ小さな音だ。


 けれど――


 **もう、止められない音でもあった。**



(ここが沈む前に、流れを作る)


 フロナは、斧と鍬と数字の間で、

 ほんの少しだけ口元を歪めた。


「……よし」


 雪を運ぶ風が、音をさらう。

 霊素フェアリーが、楽しそうに揺れた気がした。


 砦の外れで始まったこの小さな掘削は、

 やがて極北の地図を書き換えることになるかもしれない。


 




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