第2話 泥の中の設計図
ヴァルシュタイン砦の朝は、
目覚ましより先に、風が牙を剥く。
「……っさむ!!」
フロナは布団から跳ね起きた瞬間、
肺が縮むほどの冷気に全身を貫かれた。
息を吸っただけで、喉が痛い。
吐く息は白く、天井に届く前に霧散する。
部屋は、石と木と隙間風だけでできているらしい。
帝都の屋敷にあった、絹の天蓋も、ふかふかの羽根布団もない。
あるのは、薄い毛布と、冷たいベッド板。
そして、容赦なく入り込んでくる極北の朝だ。
(生きてますね……私)
そう実感できるのは、
痛覚が、きっちり現実を叩きつけてくるからだ。
◆
「おはようございます、ドレイクハルト嬢」
同室を担当している雑務係の少女・ミーナが、
まだ半分眠った顔で、小さく頭を下げた。
「はい、おは……うっ……」
立ち上がった瞬間、足が攣りそうになる。
昨日から合わせて運んだ荷袋は、ざっと十数袋。
薪、水、穀物、工具。
(帝都の書き物仕事より、
現場作業のほうが絶対にエネルギー消費激しい……!)
内心で悲鳴を上げながら、
フロナは自分の裾をきゅっとまくり上げた。
「今日も手伝わせてください」
「え、いいんですか? 令嬢なのに」
「肩書きは、砦での労働に一切貢献しませんので」
即答すると、ミーナが吹き出した。
「気に入りました!
あ、薪小屋はこっちです!」
◆
砦の裏手――薪小屋。
朝の光を浴びて、霜をまとった丸太が山積みになっている。
吐く息と一緒に、木の匂いが鼻をくすぐった。
「これ……全部?」
「全部です!」
ミーナの声は、朝の空気みたいに澄んでいる。
(はいはい、了解、最適解……
求められてるのは、人力ですね……)
フロナは斧を握った。
数式ではなく、現実が腕を要求してくる。
「ふっ……はあっ!!」
斧が木を割るたび、乾いた音が朝に響く。
そのたび、霊素が、わずかに震えた。
(……気のせいじゃない)
砦の地下。
そこに渦巻く何かが、昨日よりはっきり主張している。
◆
昼近く。
「嬢ちゃん、本当にやる気かよ」
荷運び係の男たちが、苦笑混じりに声をかけてきた。
「令嬢が泥まみれなんて絵面、初めて見るぜ?」
「似合ってますか?」
「似合わねえ!」
「ですよね」
笑いながら、フロナは麻袋を肩に担ぎ直す。
足元から、霊素がざわざわと這い上がってくる。
湿った土の匂い。
流れの止まった地下水。
魔素が、重く澱んでいる。
(この土地の魔力……病気みたい)
袋を積み上げながら、
フロナの思考は自然と計算へ移行した。
地形の凹凸。
腐った水路。
岩盤の裂け目。
(もし、ここを通せたら――)
思考が加速する。
肩に食い込む重さの下で、数字の線が勝手に結び目を作った。
(三点……ここを掘れたら……)
「ん?」
隣から声が落ちる。
気づけば、フロナは口に出していた。
「ここ……と、ここと……」
「どこ指さしてんだ?」
声の主は、荷運びを監督していた辺境伯――カイだった。
しれっと手伝っているらしく、
袋を担いでいても、その目はやたら鋭かった。
◆
「地下水が……溜まってるんです」
フロナは、息を整えながら答えた。
「魔素が水に淀んで、土壌と作物の流れを止めてる。
たぶん、この村が痩せてる原因も、
魔物が近づきやすい理由も、同じです」
「……見えるのか?」
「感じます。勝手に」
フロナは泥の中にしゃがみ込み、地面へ指を触れた。
「ここを三つ。
斜面の下と、荒れ地の端と、砦の南東。
掘り抜けば、溜まった水と魔力が抜けます」
「掘り抜くって、誰が」
「当然、人手で」
「馬鹿か?」
「予定は、いつだって急に生まれます」
カイは、大きくため息を吐いた。
「根拠は?」
「霊素の声と、構成の計算です」
「理屈になってねぇ」
「説明できるように整理します。
ただ、今日の時点で言えるのは――」
フロナは指先を握る。
「ここを何もしないと、いずれ沈みます」
風が、沈黙を押し広げた。
◆
カイは袋を肩に乗せたまま、フロナを見下ろす。
「どこもかしこも守る余裕はないぞ」
「わかってます」
「お前一人の直感で動かすには、村の規模がでかい」
「だから、実験します」
「……は?」
「一番小さい水路で。
成功したら、規模を広げましょう」
その答えに、カイの口元がわずかに跳ねた。
「帝都の机上の計算じゃねぇんだぞ?」
「机上じゃないです。現場です」
フロナは、ぴしゃりと返す。
「だからこそ、
ここでしか成立しない式があります」
◆
「――で、何すりゃいい」
カイは袋を放り投げ、腕を組んだ。
フロナはぱちくりと瞬いた。
「巻き込まれる気、なかったんじゃ……」
「言いたい放題聞いたら、
試さないと落ち着かねぇタイプなんでな」
(……あ、この人、根はめんどくさい)
けれど、そのめんどくささが、
フロナは少しだけ嬉しかった。
「では、水路の図と、鍬と、元気な人手を」
「ミーナー!
暇そうな奴ら、全員連れてこい!」
「了解でーすっ!」
あっという間に、状況が動く。
――その瞬間だった。
頭の奥に、雪崩のように情報が流れ込んできた。
(っ……!)
魔力の流向。
地層の歪み。
凍土の下に閉じ込められた水圧。
見えないはずのものが、
**「そこにある」と断言する速度で迫ってくる。**
雪の下で眠っていた流れが、一斉に目を覚ました。
冷たい地面の奥から、
重たいざわめきが、脳裏を叩く。
思考が、追いつかない。
脳が、一瞬で沸騰した。
「――っ、は、はぁ……っ」
視界が歪む。
白い空と土の色が、ゆっくり混ざる。
吸い込んだ冷気が、肺を刺す。
指先の感覚が、薄れていく。
膝が、わずかに折れた。
その瞬間――
腕を、強く掴まれた。
「おい」
間近にある、灰色の瞳。
雪明かりを映したその目は、
異常なほど、静かだった。
「急に黙るな。息、吸えてるか」
「ちょっと……情報が……多くて……」
「なら止まれ。死ぬぞ」
「死ぬ気は……ないです……っ」
「そういう問題じゃねえ!」
声が、はっきりと耳に届く。
ぐっと、手に力が込められた。
冷え切った掌に、
確かな熱が流れ込む錯覚。
「落ち着け」
低く、命令みたいに。
「見えてるなら、俺に渡せ。
形にすんのは――俺たちの仕事だ」
その一言で。
絡まりきっていた線が、
**ほどける音**がした。
(……あ)
情報が、意味を持ち始める。
(翻訳してくれるんだ、この人)
霊素と構成が、
初めて同じ速度で呼吸を始めた。
心の奥が、すっと軽くなる。
◆
フロナは、ゆっくりと息を整えた。
白い息が、二人の間で溶ける。
「……ありがとうございます」
「礼は要らねえ。仕事しろ」
「はい。全力で」
それだけで、十分だった。
フロナは、泥の中でしっかりと立ち上がる。
霊素が揺れる。
構成が、静かに回る。
地面の奥で眠っていた流れが、
**“触れられる距離”**にある。
(じゃあ――動かそう)
帝都に置いてきた未来図の続きを、
ここで描く。
◆
カイが、鍬を肩に担いだ。
雪を踏む音が、低く響く。
「場所を示せ」
「こちらです!」
「掘る深さは?」
「あとで調整します!」
「最初から決めろ!!」
「判断は現場優先です!」
「お前に現場が理解できるのか?」
「今、掴みかけてます!」
言葉は噛み合っていない。
だが、動きは一致していた。
ミーナと兵たちが集まり、
鍬とシャベルが次々に渡される。
「なんかよく分かんないけど、掘るんですよね!」
「深さは!?」
「とりあえず言われた辺りで!」
「雑すぎませんか!?」
「現場はだいたいこんなもんだ!」
笑い声と文句が混じり、
砦の外れで、土が跳ね飛ぶ音が鳴り始めた。
◆
土の匂いが、空気を満たす。
凍った地面を割るたび、
冷たい水が、じわりと滲み出す。
「出たぞ!」
「うわ、冷てぇ!」
水は澄んでいる。
けれど、どこか重たい。
まだ、流れ切っていない。
(……もう少し)
フロナは掘り進む様子を見つめながら、
頭の中で構成を組み替える。
数字と感覚が、
ようやく同じ拍子で脈打っていた。
◆
(これが、第一歩)
フロナは息を吸う。
極北の冷たい空気が肺を満たし、
吐いた息が白くほどける。
帝都が切り捨てた“混ざり物”は、
今、泥と雪の中で、確かに歯車を回している。
それは、まだ小さな音だ。
けれど――
**もう、止められない音でもあった。**
◆
(ここが沈む前に、流れを作る)
フロナは、斧と鍬と数字の間で、
ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……よし」
雪を運ぶ風が、音をさらう。
霊素が、楽しそうに揺れた気がした。
砦の外れで始まったこの小さな掘削は、
やがて極北の地図を書き換えることになるかもしれない。




