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第1話 極北の洗礼

 冷たさが、膝からじわじわと這い上がってくる。


 凍りかけた泥と、何度も踏み固められた雪。

 そこに両膝をついた瞬間、冷気が布越しに染み込み、骨の奥を直接撫でてきた。


 フロナは、ゆっくりと息を吐く。


 白い息は空中でほどけ、すぐに風に引き裂かれる。

 吸い込む空気は鋭く、喉の奥がひりついた。帝都の冬とは、冷たさの“質”が違う。


(……はい。極北、容赦ない)


 指先にまとわりつく泥は重く、半端に凍って粘ついている。

 指の熱を、逃がさないように絡め取ってくる感触。


 帝都育ちの令嬢の手には、あまりにも似合わない。


 ――でも、もう似合うかどうかを気にする立場じゃない。


 顔を上げる。


 視界の先に、“壁”があった。


 石と木を組み合わせた、分厚い砦の外壁。

 吹雪と年月に削られた表面には薄く氷が張り、雪明かりを受けて鈍く光っている。


 帝国の紋章旗が、低い空の下でだらしなく揺れ、

 その隣で黒い狼の旗が、獣の毛皮のように風を弾き返していた。


 空は低く、雲は重い。

 光は弱く、雪面と氷だけが、かすかな輝きを返している。


 風は刃物みたいに頬を切り、皮膚の熱だけを正確に奪っていく。

 鼻をかすめるのは、冷えた土と古い木材、どこか遠くの焚き火の匂い。


 それでも――霊素フェアリーは、帝都の大広間の空気よりずっと素直に流れていた。


 香料も、虚飾もない。

 あるのは、冷たい空気と、土と、火の気配だけ。


 雪の縁で、小さな白灰色の小鳥が一羽、身を丸めていた。

 羽毛を膨らませ、風が緩む一瞬を待ってから、短く鳴いて空へ飛び立つ。


(ここからが、私のフィールド)


 そう自分に言い聞かせた、その瞬間――


「……おい」


 低い声が、冷気を割って落ちてきた。


 フロナが振り向くと、砦の門の前に一人の青年が立っていた。


 黒髪に、何もかも見透かすかのような澄んだ灰色の瞳。

 その視線は、感情よりも先に状況を量る。

 

 厚手の外套の下には、使い込まれた革の鎧を着ていた。

 鎧には見栄も誇示もなく、ただ「必要だった」痕跡だけが残っていた。

 

 腰に下げた剣も同じだ。

 飾り気はなく、だが――生き残るために、十分だった。

 

 帝都の宰相や騎士たちとは違う。

 彼の美しさは、磨き上げられた“美しさ”ではない。

 

 生きるために余分なことをすべて削ぎ落とし、

 **必要なものだけを残して立っている**ように見えた。

 フロナは純粋に、その男に”素朴な美しさ”があると感じた。


 その灰色の視線が、泥と雪にまみれたフロナを射抜く。


「……帝国のお姫様が、何してんだ」


 刺すような言葉。

 だが、そこにねっとりした悪意はない。


 ただ、「場違いだ」と事実を述べている声だった。



 フロナは、泥を払おうとして――途中でやめた。


(どうせすぐ、また汚れる)


 合理的な判断で、手を膝に置く。

 冷えで痺れかけた指先が、じん、と痛んだ。


 でも、痛みは情報だ。無視しない。


「私は――」


 名乗ろうとした瞬間、青年が先に口を開いた。


「水色の髪。帝都から追い出された公爵令嬢」


 灰色の瞳が、雪に映えるフロナの髪をじっと見る。


「フロナ・ドレイクハルト。“混ざり物ミックス”。間違いないな」


 言葉そのものは、帝都で散々聞いたものと同じだった。


 ただ、温度が違う。


 帝都ではそれは嘲笑であり、飾りとしての評価だった。

 ここでは――**分類**だ。


(ふうん……もうここでは、私の肩書きってそれなんだ)


 内心だけで、フロナは小さく肩をすくめる。


 “公爵令嬢”でも、“皇太子妃候補”でもなく。

 “混ざり物”。


 雪原で小動物の種類を分けるみたいに、シンプルで、分かりやすい。


「――お前、ここで何をするつもりだ?」


 青年が続ける。


「見たところ、吹雪の中を歩ける体格じゃねえし、

 剣を振れる腕にも見えない。魔物の群れを前にして、何ができる?」


「生きるつもりです」


 即答だった。


 風が、二人の間を吹き抜ける。

 砦の壁に積もった雪が、さらりと落ちた。


 青年の眉が、わずかに動く。


「死にに来たつもりはないので。

 生きるために、必要なことをします」


 フロナは、泥だらけの裾をつまみ上げ、立ち上がる。

 膝が痛む。冷えが骨に残る。


 でも、それも全部、ここで生きるための情報だ。


「掃除でも、薪割りでも、帳簿でも。

 与えられた仕事の最適解を見つけるのは得意なので」


「……最適解ね」


 青年は、ふっと鼻で笑った。


「言葉が帝都だな」


 そして、門の影から一歩出る。


「俺はカイ・ヴァルシュタイン。

 ヴァルシュタイン領の領主だ」


(やっぱり)


 胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 報告書で何度も見た名前。

 帝都の地図の端に、いつも一緒に記されていた署名。


 ――現場指揮官。

 ――魔物出現時の初動対応。

 ――魔素陣の再配置案。

 ――兵站の救済要請。


 紙の上では、散々“対話”していた人間だ。


 だが、彼の目はフロナを知らない。

 帝都の影で数字を弄っていた“誰か”に、顔は付いていない。



「カイ・ヴァルシュタイン様ですね」


 フロナは、きちんと一礼する。


「帝都からの正式な通達では、私は本日付けで

 ヴァルシュタイン領の“実務支援”として――」


「要らねえ」


 ばっさりだった。


「……早いですね」


「ここは、紙の上で格好つける余裕はねえんだよ」


 カイの言葉は、雪よりも乾いていた。


「帝国のひ弱な令嬢が、

 ちょろっと実務(笑)を手伝ったぐらいでどうにかなる土地じゃない」


 ああ、とフロナは理解する。


 “令嬢”という肩書きは、ここではマイナス評価だ。


「ここでは、自分の身体と頭で責任を取る奴しか要らねえ」


 カイは、フロナの足元を見た。


 泥で汚れた靴。

 雪に貼り付く裾。


「足を滑らせただけで死ぬ場所だ。

 泣きながら帝都に帰られるのは御免だな」


「安心してください」


 フロナは、静かに言い返す。


「帝都にはもう、帰る場所がありません」


 カイの目が、ほんのわずかに細められた。


「……追放されたって自覚はあるんだな」


「構成的に見て、そう解釈するのが一番スッキリするので」


 フロナは淡々と頷く。


「それに、ここは――」


 彼女は目を伏せ、ほんの少しだけ、地面の向こう側へ意識を向けた。


 霊素フェアリーが、ざわりと揺れる。

 冷たい風の中に、別の流れが混ざっていた。


 地中深くで渦を巻く、重たい魔素。

 川の流れがねじれたような違和感。


(やっぱり。バランスが悪い)


 帝都からここまでの道のりで、

 何度も感じていた違和感が、ここでピークに達している。


「ここは、構造的にかなり危ないですから」


 フロナはつぶやいた。


「放置したら、たぶん、じきに崩れます」


「……は?」


 カイの声が低くなる。


「何を根拠に言ってる」


「霊素の声と、構成の勘です」


 即答。

 そして、少しだけ肩をすくめる。


「混ざり物なので。両方、勝手に入ってきます」



 風が強くなった。

 雪が、二人の間を切り裂くように舞い上がる。


 カイはしばらく黙ってフロナを見ていたが、やがて息を吐く。


「……好き勝手言うな」


「すみません。

 口より先に、情報が出てくる仕様なので」


 自覚はある。直せないけれど。


「ただ、もしここが崩れたら――」


 フロナは、砦の外へ視線を向けた。


 雪の下で眠る村々。

 肩を寄せ合うように建つ家々と、細く立ち上る煙。


「帝国にとっても、大きな損失になります」


「帝国? 知るか」


 カイは、鼻で笑った。


「俺が守るのは、この砦と、その周りの村だけだ」


 その言葉に、霊素フェアリーが小さく震えた気がした。


(ああ、そういう人なんだ)


 帝都全体を俯瞰するフロナとは違う。

 目の前の土地と人に、責任を賭けるタイプ。


 だからこそ、数字の“裏側”をちゃんと見て動いていたのだろう。


 報告書の端に書かれた、雑な字の一文がよみがえる。


 ――「この案なら、村一つ潰さずに済む。助かった」


(そういう人の盾にならないと、数字は意味がない)


 胸の奥で、小さく何かがかちりと噛み合った。





 カイは、ふっと笑った。


 今度の笑いには、ほんの少しだけ熱が混ざっていた。

 凍った空気の中で、火打ち石が擦れたみたいな、短い笑いだ。


「いいだろう、混ざり物。

 役に立つかどうか、試してみる」


 そう言って、彼は踵を返し、砦の中へ歩き出す。


 雪を踏みしめる音は重く、迷いがない。

 この土地を何度も行き来してきた者だけが持つ、無駄のない足取りだった。


 フロナはその背中を見送り、ひとつ、息を整える。


 吸い込んだ空気は冷たく、肺の奥で一瞬、痛みを残した。

 それでも、吐く息は白く、確かにここに存在している。


 彼女は一歩、前に踏み出した。


 極北の空の下。

 吹きさらしの砦の門前で。


 帝都では「失敗作」と切り捨てられた力が、

 ここではまだ――**試されてもいない**。


 その事実だけで、胸の奥に小さな熱が灯る。


 砦の門が、ぎい、と重い音を立てて開いた。


 木の匂い。

 焚き火の煙。

 乾いた金属の気配。


 訓練場から聞こえる掛け声と、誰かが鍋をかき混ぜる音。

 遠くで笑い声が上がり、すぐに咳に変わる。


 帝都にはなかった、**生き延びるための音**が、そこかしこに満ちていた。


(……なるほど)


 ここでは、命は飾られない。

 ただ、使われる。


 フロナは、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。



 門をくぐる直前、ふと足を止める。


 雪と木の境目。

 地面の奥で、微かな“歪み”が脈打っている。


「……あの、カイ様」


 背中越しに、ぶっきらぼうな声が返る。


「なんだ」


「この砦の地下、

 かなり大きな魔素の澱みがあります」


 カイの足が、ぴたりと止まった。


 吹き込んだ風が、二人の間を抜ける。

 砦の影で、雪がさらりと音を立てて崩れた。


「ここだけじゃありません。

 周りの村も含めて、流れが歪んでる」


 フロナは、ゆっくりと意識を沈める。


 霊素フェアリーが、ひそひそと囁く。

 数字が、構造が、勝手に並び始める。


 冷たい地層の奥で、

 重たい魔素が澱となり、動きを鈍らせている。


「放置すると……そうですね」


 頭の中に、いくつかの未来図が浮かんだ。


 崩れる地盤。

 歪む川。

 耐えきれずに沈む家々。


「一年以内に、どこかが大きく“崩れ”ます」


 雪明かりの下で、フロナの水色の瞳が細められる。


「ここで死ぬ予定はありませんけど」


 ほんの少し、口角が上がった。


「“領地ごと沈む”予定も、あまり好きじゃないので」


 カイは振り返る。


 その目には、「冗談なのか」「本気なのか」を測る色が、一瞬だけ走った。


 そして、低く言う。


「……今の話、詳しくは中で聞く」


「はい。

 資料と地図と、できれば過去十年分の報告書があると嬉しいです」


 フロナの声は、すでに“仕事モード”に切り替わっていた。


「あと、川の流れと、古い水路の位置がわかる人も」


「……」


 カイは、じろりと睨む。


「やっぱり帝都人だな。

 到着一発目の会話が“資料と地図”かよ」


「ここにお花畑は見当たりませんし」


 フロナは淡々と返す。


「現実を見るところから始めないと、最適解には辿り着けません」



 カイは、短く息を吐き――

 そして、もう一度、笑った。


 今度の笑いには、ほんの少しだけ“期待”が混ざっていた。


「いいだろう、混ざり物」


 砦の奥へ歩き出しながら、言う。


「役に立つかどうか、試してみる」


 フロナはその背中を追い、門をくぐる。


 極北の空の下。

 氷と風と、生きる音に満ちた土地へ。


 彼女の内側で、

 構成魔導〈アーキテクト〉と霊素〈フェアリー〉が、静かに回転を始める。


 帝都では「失敗作」と呼ばれた混線が、

 この極北で、どんな形の“答え”を導くのか。


 まだ、誰も知らない。


 ――ただ、地の底でうごめく魔素の澱みだけが、

 近い未来の「崩れ」を、じっと待っていた。



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