第12話 氷都を出て、風の地図へ
馬車の車輪が、ゆっくりと帝都の石畳を離れていく。
車体がきしむたびに、窓の外の景色が少しずつ低くなっていく。
白い城壁、青い旗、整えられた街路樹――全部、見慣れたはずの風景だ。
それでも、フロナは振り返らなかった。
礼儀だからでも、強がりでもない。ただ――
(今、あそこを見たら、決壊する)
自分の限界を、構成的に理解していた。
(殿下……)
心の中で呼んでも、返事は来ない。
もうあの人の隣には、別の色の炎が灯っている。
◆
馬車が城下を抜けるまでのあいだ、
フロナの脳裏には、いくつもの“小さな場面”が浮かんでは消えていた。
徹夜明けの朝、
書類の山を抱えて執務室に入ると、セドリックが笑って言った。
『相変わらず働き者だな、フロナ。君がいてくれて助かる』
そんな何気ない一言に、単純に頬が熱くなったこと。
後から思えば、
「都合よく助かる演算機がいて嬉しい」くらいの意味だったのかもしれないのに、
当時の自分はそれを、ほとんど「愛の片鱗」のように受け取っていたこと。
小さな優しさを、何十回も反芻して、
勝手に大きな物語に育ててしまっていた。
(……それを全部、「無かったこと」にされたんだなあ)
婚約破棄の宣言。
「無能」「欠陥品」「混ざり物」「失敗作」。
あれだけの言葉を浴びせられてなお、涙は出なかった。
泣けるほど軽くは――愛していなかったからだ。
(あそこまで踏みにじられて、
それでもまだ“好き”だって言い張るのは、さすがに難しいよね)
胸の真ん中は、ぽっかりと空いたまま。
でも、その空洞は不思議と、少しだけ風通しが良くなっていた。
◆
馬車の中で、フロナは小さく息を吐いた。
父に叩き込まれた構成魔導アーキテクト。
母に押し込まれた霊素魔法エーテル・フェアリー。
どちらにも完全には属せず、どちらにもなりきれなかった“混ざり物”。
構成の式を組めば霊素が暴れ、
霊素に耳を傾ければ構成が干渉して崩れる。
(ずっと、“呪い”だと思ってたけど)
ふと、窓の外に視線を向ける。
帝都の整えられた街並みが遠ざかり、
畑と小さな村が増えていく。
畝の角度。
用水路の分岐。
家々の立ち並び方。
ただ眺めているだけで、頭の中で線と点がつながり始めた。
地形の起伏と、
川の流れと、
土の中を走る見えない魔素のうねり。
霊素のささやきが、「この辺りは痩せている」とか、
「この川は、もうすぐ氾濫しそう」とか、淡々と教えてくる。
それを、構成魔導が即座に図に組み替える。
(……あ)
気づけば、体の中で暴れていたはずの二つの術式が――
帝都という枠から一歩外に出た途端、嘘みたいに静かに噛み合っていた。
(これは)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(呪いなんかじゃない。――武器だ)
セドリックが「鎖」と呼んだ数字。
父が「誤差」と言い切った霊素。
全部まとめて、「理解できなかった側の問題だったんだな」と、ようやく気づく。
◆
馬車は北へ、さらに北へと進んだ。
整えられた街道は、いつの間にか土の道に変わり、
やがて土の上にも、まだらな雪が積もり始める。
車輪が凍った泥を踏むたび、
ぐしゃ、と鈍い音がした。
(ここから先が、ヴァルシュタイン領の管轄……だったはず)
地図を思い浮かべる。
帝国の北端、魔物の出没地帯とされる灰色の帯。
報告書の欄外に、何度も書かれていた地名。
その横には決まって、同じ署名があった。
(カイ・ヴァルシュタイン)
――現場指揮官。
――魔物出現時の初動対応。
――魔素陣の再配置案。
――兵站の救済要請。
数字と文字の海の中で、
唯一「信用できる」と判断した名前。
帝都で、フロナは一度だけ言った。
『構成魔導案そのまま実行します。
――カイ・ヴァルシュタインに繋いでください』
返ってきたのは、『誰だそれは?』という、気怠そうな皇太子の声。
(……“誰だそれは?”、ね)
頬の内側を、そっと噛む。
(この国を守る手の一つすら知らないで、
“帝国の象徴”って名乗るんだから、なかなか大胆だよ、殿下)
それでも――
もう、それを正面から責める権利は、自分にはない。
フロナは“影”の役目を解かれ、
帝都から切り離された。
あとは、彼自身が選んだ未来を自分で受け止めるだけだ。
◆
日が傾き、空が鈍い鉄の色に変わるころ、
馬車は大きく揺れた。
がこん、と車輪が深いわだちに落ち、
フロナは思わず座席の縁を掴む。
「……っ」
外から、荒々しい声が響いた。
「着いたぞ、ここまでだ!」
御者の怒鳴り声。
どうやら、帝都から同行してきた御者は、この先までは行かないらしい。
(まあ、そうだよね。
“魔物の庭”まで、好き好んで入る帝都人はいない)
「降りろ、ドレイクハルト嬢!」
扉が、がんっと乱暴に開かれた。
フロナが返事をするより早く、
御者の手が彼女の荷物を外へ放り投げる。
「ちょ、ちょっと――!」
抗議の声を上げかけた瞬間、
御者はフロナの手首を乱暴につかんだ。
「ここから先はヴァルシュタイン領の責任だ。
帝都の命令どおり、“届けた”からな!」
言い捨てるように、ぐい、と引っ張る。
「待っ、あ――」
次の瞬間、フロナの身体は馬車のステップから外へと放り出されていた。
視界がぐるりと回り、
冷たい空気と、ぬるりとした感触が同時に襲いかかる。
ずしゃあっ、と嫌な音を立てて、
フロナは地面に叩きつけられた。
「つめっ……!」
背中に走る衝撃。
手のひらに、じわりと泥と雪が張り付く。
ここは、石畳ではない。
凍りかけた泥と、踏み固められた雪。
そしてその上に、容赦なく吹き付ける極北の風。
帝都で纏っていた上質なマントは、
ものの数秒で、泥と雪まみれになった。
(なるほど。これが……)
フロナは、顔を上げる。
そこには、帝都とはまるで違う世界が広がっていた。
石ではなく木で組まれた厚い城壁。
その上には、見慣れた帝国の青い旗と、見慣れない黒い狼の紋章旗。
空は低く、雲は重く、
吐いた息は白く、すぐに風に千切れて消える。
それでも――霊素は、生きていた。
冷たく、荒々しく、
けれど大広間の重たい空気より、ずっと正直な流れで。
(これが、“北”)
混ざり物の水色の髪を揺らしながら、
フロナは膝立ちになって、前を見据えた。
(ここからは、私の選んだ場所)
帝都で終わった物語は、もう振り返らない。
この先に待っているのが、
冷たい現実か、理不尽な扱いか、
あるいは――投げ捨てられるような出迎えだとしても。
(それでも、進む)
フロナ・ドレイクハルトは、背筋を伸ばした。
混ざり物の令嬢が、帝都の外で何を組み替えるのか。
その答えは、
まだ誰も知らない。




