第10話 燃える紙束と、冷めていく恋
大広間の中央に、紙の山が築かれていく。
厚く綴じられた予測書類。
見慣れすぎた装丁。紙の端に見える、自分の字。
(……全部、私が書いたやつ)
兵站再編の提案。
税率と暴動リスクのシミュレーション。
帝国全土の穀物流通を「構成魔導アーキテクト」で組み替えた未来図。
徹夜で数字を並べ、
霊素のささやきと照合して、
何度も何度も書き直した紙束たち。
本来ならそれは、セドリックの治世を支える“土台”になるはずのものだった。
(なのに今日は、“焚き火の材料”扱い)
心の中でだけ、乾いた冗談をつぶやく。
指先はかすかに震えている。
でも、顔は笑っていないし、泣いてもいない。
――感情を乗せたら、きっと壊れるから。
◆
「殿下、この書類は?」
貴族の一人が、おずおずと尋ねた。
セドリックは、軽く顎で紙束を示す。
「構成魔導による“予測”だそうだ」
“だそうだ”と、見事な他人事口調。
「諸君の中には、耳にした者もいるだろう。
私の婚約者だったフロナ・ドレイクハルトが、
夜な夜な作っていたという数字の山だ」
(あ、紹介が雑)
心の中で、ついツッコミが出る。
(夜な夜な“作っていた”って……
回数で言うなら“朝も昼も夜も”なんだけどなあ)
思ったところで、何も変わらないけれど。
「彼女はこれを“帝国の未来を安定させる最適解”と呼んで提出してきた」
セドリックは紙束を冷たく見下ろした。
「だが、私には――」
一瞬だけ、青い瞳がフロナを掠める。
「この羅列が、帝国を縛りつける鎖にしか見えなかった」
(鎖、ね)
フロナは心の中で言葉を反芻する。
(私から見れば、むしろ“足場”なんだけど)
鎖に見えるか、足場に見えるか。
視点が変われば、意味は簡単にひっくり返る。
構成魔導は、いつだってそうだ。
◆
「数字で未来を縛り、不吉な予言をまき散らす」
セドリックの声が、大広間に冷たく響く。
「そんなものは、帝国に必要ない」
ざわめきが広がる。
フロナは静かに息を吸った。
(予言じゃない。ただの“条件付きの結果予測”)
心の中でだけ、いつもの講義めいた説明が浮かぶ。
――税率をこのまま維持し、
穀物の輸入も増やさず、
軍事費だけを増やした場合。
――三ヶ月以内に、まずパンの値段が跳ね上がる。
――それを埋めようとして、
路地裏から小さな暴動が始まる。
――それが帝都の経済構造にどう波及するか。
全部、数字と霊素が教えてくれたことだ。
(何も、呪ってるわけじゃないのに)
◆
「フロナ」
名を呼ばれ、フロナは一歩前に出る。
「はい、殿下」
声はまだちゃんと出た。
偉い、私。
「お前は先ほど、“構成的な予測”と称して、
私に“責任が刻まれる”などと口にしたな」
(あ、根に持ってる)
心の中でだけ肩をすくめる。
「はい。判断の結果は、常に実際の事象として表に出ますので」
「その“予測”とやらを、私は好まない」
セドリックは高座から降りた。
大広間の中央――紙束のすぐそばまで歩み寄る。
フロナとの距離が、ぐんと近くなった。
懐かしい距離。
昔は、この距離から
何度も優しい声をかけてもらった。
『フロナ、君がいてくれて助かる』
『君の見ている未来を、もっと聞かせてくれ』
今、その距離から向けられている青い瞳は――
冷たい拒絶の色をしている。
◆
「顔を上げろ」
命令口調。
フロナは従順に、ゆっくりと顔を上げた。
青と水色の視線が、真正面からぶつかる。
セドリックは、まるで商品を値踏みするような目で
フロナの顔をじろりと眺めた。
「……相変わらず、美しい顔だな」
一瞬だけ、昔を思い出させるような言葉が零れる。
胸が、ぴくりと反応した。
(そんなふうに言うの、ずるい)
次の瞬間、その甘さは容赦なく切り落とされる。
「人形のような面構えで、中身は空っぽ」
セドリックは、氷のような声で続けた。
「魔法も放てぬ欠陥品に、
私の隣に立つ資格はない」
大広間の空気が、もう一段冷え込む。
――欠陥品。
(そう来たか)
フロナは、心の奥で小さく笑った。
(だったらさ、“どの仕様が欠陥か”くらい
ちゃんと分析してほしかったな)
構成魔導と霊素。
二つを同時に走らせると干渉する、術式構造が欠陥なのか。
そういう組み合わせを娘に施した、設計者側の判断が欠陥なのか。
あるいは、それを理解も検証もせず
「努力不足」で片づけ続けた教育者側が欠陥なのか。
(殿下のロジック、途中で止まってるよ)
口には出さない。
出したらきっと、今度こそ泣いてしまうから。
◆
ざわ……と、周囲がざわめく。
「欠陥品とまで……」
「しかし、魔法を放てない皇太子妃候補というのは確かに……」
「水色の髪に構成と霊素の混ざり……やはり不吉だったのでは」
ひそひそ声が、背中から刺さる。
フロナは、それでもまっすぐセドリックを見つめた。
「……承知いたしました、殿下」
声は静かで、よく通った。
「私が“欠陥品”として殿下の隣にふさわしくないというご判断も」
一度、短く息を吸う。
「その“評価基準”も含めて、すべて――
今後は殿下のお名前と共に歴史に残ることでしょう」
皮肉で言ったつもりはない。
ただの事実の確認だ。
フロナの頭の中では、すでに多くの未来パターンが枝分かれしていた。
――食糧危機を無視した場合。
――構成魔導を放り捨てた場合。
――霊素の警告を「不吉」として切り捨て続けた場合。
そのすべてに、「セドリック・ハーグレイヴ」という名が
必ずセットで刻まれる。
◆
「もう良い」
セドリックは、フロナから興味を切り捨てるように視線を外した。
そして、隣のリリアーヌに向き直る。
「リリアーヌ」
「はい、殿下」
リリアーヌの指先に、小さな炎が灯る。
赤い霊素が、嬉しそうに踊っていた。
「この“鎖”を焼き払え」
セドリックは、紙束を顎で示す。
「これらの数字に縛られず、
私たちは新しい帝国の象徴として進む」
「……かしこまりました」
リリアーヌは一瞬だけ、フロナを見た。
勝ち誇ったような、
それでいてどこか怯えたような、揺れる目。
(怖いのは、どっちなんだろうね)
フロナは、自分の心が案外冷静なままでいることに驚いた。
たぶんもう、恋が燃え尽きているからだ。
◆
炎が、紙束に触れる。
ぱち、と小さな音。
次の瞬間、紙はあっさりと火を吸い上げた。
乾いた紙ほど、よく燃える。
構成魔導の計算も、霊素の警告も、
炎にとってはただの燃料だ。
(……綺麗)
思わず、そう思ってしまう。
炎に照らされて、
自分の作った図表や数字が一瞬だけ浮かび上がる。
帝国の街並み。
流通路。
税率の推移。
暴動リスクのグラフ。
フロナが見ていた“未来の地図”が、
炎の中に立ち上がっては、すぐに崩れていく。
(さよなら、徹夜の日々)
(さよなら、“殿下のため”って自分に言い聞かせてた私)
紙が崩れ落ちるたびに、
胸のどこかから何かが静かにはがれていく。
◆
周囲からは、感嘆とも安堵ともつかない声が上がっていた。
「見事な炎だ……」
「これぞ帝国の象徴にふさわしい火」
「あの水色の娘の数字遊びより、よほど頼もしい」
(数字遊び、ね)
フロナは、自分の指先をそっと握りしめる。
炎に照らされた自分の手は、少しも燃えていない。
(だったら、その“数字遊び”がなくなった世界が
どんな顔をするのか、ちゃんと見ててね)
胸の内側で、小さな決意が芽を出す。
――これは復讐じゃない。
――ただの“観察”だ。
構成魔導と霊素、二つを叩き込まれた存在のいない、
この先の帝国をどう見ていくのか。
それを、一番よく知りたいのはほかでもない、自分自身だ。
◆
炎は勢いを増し、
紙束は半分以上、黒い灰に変わっていた。
燃え残った端に、見覚えのある一文がちらりと見える。
――三ヶ月以内に、小麦価格の急騰が始まる。
(あ)
フロナは心の奥で、静かに言葉を重ねる。
(セドリック様。あなたが燃やしたのは紙束じゃない)
灰になっていく紙から目を離さず、ひっそりと続ける。
(この国の“安定そのもの”よ)
炎が、最後の一枚を飲み込んだ。
ぱち、と音がして、数字の列が光になって消える。
(……三ヶ月後。まずはパンの値段から、
あなたの世界は崩れていく)
それは呪いではなく、
ただの“結果の確認”だった。
構成魔導の計算。
霊素のささやき。
全部を総合した“最適解”の延長線上にある、
ひとつの未来の断面。
◆
炎が収まり、紙束は跡形もなく灰になった。
リリアーヌは満足げに微笑み、
セドリックの隣へぴたりと寄り添う。
「見ろ、諸君!」
セドリックが両手を広げる。
「帝国を鎖で縛る数字は、こうして炎で焼き払われた!」
歓声が上がる。
拍手が広がる。
フロナは、その中心で静かに立っていた。
(本当に焼けたのは、“警告”の方なんだけどね)
声に出す気はない。
言ったところで、もう誰も聞かない。
――セドリックも。
――父も母も。
――この大広間にいる誰一人として。
◆
ふいに、霊素の風が頬を撫でた。
さっきまで冷たかった風が、
ほんの少しだけ温度を変えている気がする。
(……大丈夫)
フロナは心の中で、風にそっと答えた。
(私の中にある“世界の見え方”は、
紙を燃やされたくらいじゃ消えない)
構成魔導の回路は、今も頭の中で静かに動いている。
霊素の声は、まだフロナにだけ届いてくる。
たとえ誰かに「欠陥品」と呼ばれても。
◆
「フロナ・ドレイクハルト」
セドリックの声が、再び名を呼ぶ。
フロナは前を向いた。
「はい、殿下」
「お前は今この場で、数字の鎖から解き放たれた」
きっと、彼なりの“慈悲”のつもりなのだろう。
(ううん。殿下から見れば、そうなんだろうね)
フロナは、小さく笑みを浮かべた。
「……そうですね」
静かに認める。
「殿下のおかげで、私は“殿下のため”という鎖からも
解放された気がいたします」
言ってから、
あ、ちょっと刺があったかな、と心の中で反省する。
でも、もう遅い。
セドリックは、その言葉の意味をどこまで理解したのか――
ほんの一瞬だけ眉をひそめ、すぐに視線をそらした。
◆
歓声と拍手の中で、
フロナは自分の心の輪郭をなぞっていた。
セドリックへの恋は、ほとんど燃え尽きている。
灰の底に、小さな余熱くらいは残っているかもしれない。
けれど、もう以前のように
(殿下のためなら何でも)
とは、思えない。
(それでも――)
胸の奥で、別の火が静かに灯っている。
(帝国そのものは、まだ嫌いになれない)
街で笑う子どもたち。
パン屋の匂い。
市場で値切り合う声。
その全部が、フロナにとっての“帝国”だ。
セドリックの判断ひとつで、
それを丸ごと嫌いになるほど、フロナは単純にはできていない。
◆
(さて――)
燃え尽きた紙の山を見下ろしながら、フロナは静かに考える。
(殿下が“鎖”と呼んだものを全部捨てた今、
帝国はどんな未来に進んでいくのか)
構成魔導の回路が、新しい計算を始める。
今度は、“皇太子妃になるため”の義務ではなく。
一人の魔導師として世界を見るための、自由な計算。
◆
そのとき、高座の上から別の声が響いた。
「皇太子殿下――
それでは、フロナ・ドレイクハルト公爵令嬢の“処遇”については?」
処遇。
大広間の空気が、また一段冷える。
婚約破棄と予測書の焼却。
それだけで終わらせるほど、この国の貴族たちは甘くない。
(そうだよね)
フロナは、自分の足元をそっと見つめた。
燃えたのは紙。
切られたのは婚約。
――まだ、“居場所”は残っている。
(次は、それを奪いに来る)
構成魔導の頭が、自然と次の手を読む。
家。
肩書き。
領地。
どこへ追いやるのが一番“合理的”か。
そして――
どこへ追いやられたら、自分は一番、自由になれるのか。
(殿下の“最適解”と、
私の“最適解”が、たぶん初めて大きくズレる)
それが分かっていても、フロナは一歩も引かなかった。
水色の髪が、炎の残り香の中で静かに揺れる。
――このあと告げられる追放の宣告は、
彼女の世界を壊すのか。
それとも、解き放つのか。




