表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【超超短編小説】花手水

掲載日:2025/12/21

 薄く青い空は、まるで落ちる気配がない。

 がおん、と吹く風は境内の木々を揺すり潮騒のような音を立てた。

 風の名前を思い出そうとしたが、白い薄膜が張ったように頭はのぼんやりとしている。


 石畳に置かれた手桶には鮮やかな色彩の花が詰められていた。

 その手桶を手に取ると、なんとなく、それは手水鉢に浮かべるものだろうと思った。

 勘に従って手水鉢に花を浮かべていると、「こんにちは」と言って鳥居の前で一礼をしてから入ってきた女が、こちらに顔をむけて微笑んだ。

 俺の手を離れ、冷たい水の上でくるりと回る花の名前を思い出そうとしたが、先にやるべきことがあると思った。

 それにどうせ花の名前は思い出せない。


 俺は立ち上がって女を向いた。

「こんにちは」

 あまり親しげな声にもならず、かと言って不親切にもならないように気をつけて、内臓の奥から音を取り出すように言った。

 果たして女は、小首を傾げてわずかに口角を持ち上げた。


 美しい女だと思った。

 短く切られた黒く艶やかな髪だとか、切れ味のある輪郭だとか、白黒の鮮明な眼だとか、深いクレパスや氷洞のように青白い肌だとかもあるが、佇まいや呼吸、存在と言う匂いそのものが美しい。

 その肌からは沈丁花の様な匂いがして欲しいと思った。

 冬の似合う女だった。


 

 女は俺が内臓から声を取り出したのと同じように、自分の腹から嬰児を取り出すと、花の浮かぶ手水鉢にそっと浮かべた。

 嬰児は他の花々と同じ様に回った。

 だが浮かべられた他の花々みたいには美しくなかった。


「よろしいのですか」

 俺は女に尋ねながら、余計なことを訊いたと内心で舌打ちをした。

 しかし、当の女は相変わらず薄く微笑んだままだった。女は手水鉢の中を回る嬰児に目を落として

「えぇ、あなたさえよければ」

 と呟いた。


 俺さえ良ければ。



 音もなく回る手水鉢の嬰児は他の花々とぶつかり、やがてその花々もゆっくりと回り始めた。

 手水鉢のなかで花々と嬰児が歯車のように噛み合い、ひとつの絡繰細工のようでもあった。


 女の方を見ると、その背後に立つ鳥居の向こうは白く霞んでいた。


 あぁ、俺はもう帰れないんだなと気づいた。

 どこから来たのかも思い出せない。

 だけど、俺はきっとこの女を知っている。

 

「俺は、それでよかったと思ってるよ」

 それは慎重さの無い、まるで肉体が震えるような声だった。

 女は相変わらず微笑んだまま

「そう、ですか」

 そう言って手水鉢から抜いた手を払うと、数滴の水が俺の足元に飛び、それはすぐにシミになると、やがて消えていった。


 風が吹いた。

 風の名前も、花の名前も、自分の名前も思い出せなかった。

「後悔は、していないつもりだよ」

 女は微笑んでいた。

「そう、ですか」

 沈丁花の匂いがする美しい女は、手水鉢の中で回り続ける俺を抱き上げると、再び鳥居の手前で一礼をして出ていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ