【超超短編小説】花手水
薄く青い空は、まるで落ちる気配がない。
がおん、と吹く風は境内の木々を揺すり潮騒のような音を立てた。
風の名前を思い出そうとしたが、白い薄膜が張ったように頭はのぼんやりとしている。
石畳に置かれた手桶には鮮やかな色彩の花が詰められていた。
その手桶を手に取ると、なんとなく、それは手水鉢に浮かべるものだろうと思った。
勘に従って手水鉢に花を浮かべていると、「こんにちは」と言って鳥居の前で一礼をしてから入ってきた女が、こちらに顔をむけて微笑んだ。
俺の手を離れ、冷たい水の上でくるりと回る花の名前を思い出そうとしたが、先にやるべきことがあると思った。
それにどうせ花の名前は思い出せない。
俺は立ち上がって女を向いた。
「こんにちは」
あまり親しげな声にもならず、かと言って不親切にもならないように気をつけて、内臓の奥から音を取り出すように言った。
果たして女は、小首を傾げてわずかに口角を持ち上げた。
美しい女だと思った。
短く切られた黒く艶やかな髪だとか、切れ味のある輪郭だとか、白黒の鮮明な眼だとか、深いクレパスや氷洞のように青白い肌だとかもあるが、佇まいや呼吸、存在と言う匂いそのものが美しい。
その肌からは沈丁花の様な匂いがして欲しいと思った。
冬の似合う女だった。
女は俺が内臓から声を取り出したのと同じように、自分の腹から嬰児を取り出すと、花の浮かぶ手水鉢にそっと浮かべた。
嬰児は他の花々と同じ様に回った。
だが浮かべられた他の花々みたいには美しくなかった。
「よろしいのですか」
俺は女に尋ねながら、余計なことを訊いたと内心で舌打ちをした。
しかし、当の女は相変わらず薄く微笑んだままだった。女は手水鉢の中を回る嬰児に目を落として
「えぇ、あなたさえよければ」
と呟いた。
俺さえ良ければ。
音もなく回る手水鉢の嬰児は他の花々とぶつかり、やがてその花々もゆっくりと回り始めた。
手水鉢のなかで花々と嬰児が歯車のように噛み合い、ひとつの絡繰細工のようでもあった。
女の方を見ると、その背後に立つ鳥居の向こうは白く霞んでいた。
あぁ、俺はもう帰れないんだなと気づいた。
どこから来たのかも思い出せない。
だけど、俺はきっとこの女を知っている。
「俺は、それでよかったと思ってるよ」
それは慎重さの無い、まるで肉体が震えるような声だった。
女は相変わらず微笑んだまま
「そう、ですか」
そう言って手水鉢から抜いた手を払うと、数滴の水が俺の足元に飛び、それはすぐにシミになると、やがて消えていった。
風が吹いた。
風の名前も、花の名前も、自分の名前も思い出せなかった。
「後悔は、していないつもりだよ」
女は微笑んでいた。
「そう、ですか」
沈丁花の匂いがする美しい女は、手水鉢の中で回り続ける俺を抱き上げると、再び鳥居の手前で一礼をして出ていった。




