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敬愛か崇拝か、情愛か

作者: 灰澤 絃十
掲載日:2025/11/08

▸この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。

 どろり。

 黒いソレが心の奥底から湧き上がり、とうとう私の心臓を支配しようと蠢いた。

 気管が締め付けられ、無意識下で浅い息が吐き出される。肺が軋み、心臓が握り潰されるよう。

 彼の香りが鼻腔を刺激する度、息遣いが鼓膜を刺激する度、日に焼けることの知らない白い肌が視界に映る度。脳が溶けそうになる。

「休憩にしよう」

 正面に居た彼、”先生”が呼吸の浅い私にそう言った。

 低い声が体に響き、とうとう私の体は畳に崩れ落ちた。

 い草の香りが強まり、百人一首の札が舞う。現代人が読みやすいように作られたその文字ですら朧気で、私の視界を埋め尽くす。

 はくはくと口を開閉し、酸素を求める。体に力の入らない私を切れ長の目で見降ろした先生は、困ったような顔をして言葉を溢した。

「君の集中力には目を見張るものがあるが、限界に気づかないところは欠点だな」

 先生は私の視界を覆う札を手に取り、片眉を上げた。

 相変わらず、私が百人一首に夢中になりすぎたと思っている先生に口角を上げる。今まで出会ってきた人間の中で一番頭の冴えている先生が、唯一見抜けない私の欲。

 おそらく、だらしなく締まりの無い顔をしているだろう私に、先生は何を思ったのか片手で顔を覆ってしまった。

 ”私が酔っているのは紙の札ではなく、あなただというのに。”

 そんな欲に塗れた言葉が外に出ることはなく、沸々と音を立てる脳が辛うじて生み出した謝罪の言葉が口内から吐き出された。

 部屋を出て行った先生の後ろ姿を見送り、一つ息を吐く。

 百人一首の名人である先生と札を取り合うこの時間は、唯一自分が生きていることを感じられるものだった。


 私が十代の頃、両親が離婚した。父親に引きずられた私に残ったのは、それから数年後に死んだ父親が残した多額の借金だった。

 自分はなぜ生きているのか。そんなことばかり考えている内にたどり着いた答えは自死だった。

 あの日。あの夜。銀色の満月が憎たらしく輝く蒼黒色の空の下、橋の手摺に足を掛けた私に声が降ってきた。

”秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ”

 凛としたその言葉に首を向け、視界に入った彼の美しさにしばし目を見開いた。

 切れ長の黒曜石のような瞳が月明かりに照らされ、鋭い光を宿す。絹のような髪が弱い風に攫われ、さらりと揺れる。

”まぁそう早まるな、何があったかは知らないが...この美しい夜が血に濡れるのは少しばかり夢見が悪い”

 いたずら気に笑ったその人が私の手を取り、夜を歩く。金木犀の香りが鼻の奥を刺激し、涙を誘う。

 私と彼が師匠と弟子の関係となり、私が彼を”先生”と呼ぶことにそう時間はかからなかった。


「死んだか」

 部屋に戻ってきた先生が、水の入ったペットボトルを片手に戻って来たようだった。目を瞑り、過去の輝かしい記憶に思いをはせていた私に、先生は無情にもそう言った。

「あなたが言ったのですよ、先生。百人一首の金で借金を返せば良いと。それしか教えられることが無いから、とも。未だ全ての借金を返せていないのに、死ぬわけにはいかない」

「本当のことを言ったまでだ。あの時はうんともすんとも言わなかった餓鬼が、何をどうしてそんなにも生意気になったのやら」

 受け取ったペットボトルを片手に、札を集めながら小言を言う先生を見やる。業界では名人として名を馳せているというのに、一人も弟子を取ったことが無かった先生の唯一の弟子。それが私。

 名人の位を持つ人間として相応しい厳格さと実力。

 いつか自分はこの人に追いつけるだろうか。この人の横に立つことが許されるだろうか。この人のような強い人間に、こんな私が、果たして、本当に。

 同じ時を過ごすたびに増幅するこの”欲”を飲み込み続け、平然を装っていけるだろうか。

「本当に大丈夫か?すこし早すぎる夏バテにでもなったか?」

 ”欲”に思考を乗っ取られ始めた私の顔を先生が覗き込む。黒曜石のような瞳は向こう側が見えるのではないかというほど透き通り、ひどく眩しいものに感じる。

 あぁ、どうして、どうして。

 私はただ、あなたの弟子でありたいのに。あなたが私にやさしくするから。あの日、私の手を引いたから。

 お願いですから、どうか。この死にぞこないの、ただの師匠で居てください。

「えぇ、大丈夫ですよ。少し考え事をしていました。あなたを上回る名人になるにはどうするべきか、と」

「はっ、生意気なことを言う」

「弟子は師匠の背中を見て育つものですよ」

 無性に溢れそうになった涙を飲みこみ、ひくつく口角を無理やり引き上げながらそう口にした。

 私に”背中を見られている師匠”は片眉を上げ、冷ややかな声音で宣告する。

「君の得意札をすべて搔っ攫う」

「それは困ります」

”君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな”

 札を取り合うこの時を逢瀬などとは言わない。それでも確かに、死にたがりの私が生きることを望んだのは他の誰でもないこの人のおかげで、この人のせいだ。

 ふわり。

 若草の香りが鼻の奥を刺激する。夏の予感を告げる風が先生の髪を攫う。

 いつか、その髪に手を触れることができたなら。

 そうは思いつつも臆病者の私は、この人に一番近く一番苦しい場所にこれから先も居られるよう、永遠の不変を望むのだ。

貴方は主人公を男性として読みましたか。女性として読みましたか。

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