後編
それから数か月の日が経った。
不知火先輩と出会ったばかりの頃は緑に色づいていた木々の葉もオレンジや灰色に変わっており、長袖でも冷えるほど風も冷たくなっていた。
しかし、外は涼しくなっていたというのに、旧校舎の一室は真夏よりも暑くなっていた。
「……はぁ………はぁ……」
不知火先輩と出会った教室で、圭は大きく肩を上下させて息を整えていた。
圭は汗だくの額を手の甲で拭いながら、いつの間にか落ちてきていた長袖のシャツを再びまくる。そして、恨めしく不知火先輩を睨みつけた。
「もしかして、へばった?」
圭に睨まれていることに気が付いた不知火先輩は意地悪い笑みを浮かべながら、行儀悪く机の上に座る。
不知火先輩に煽られた圭は首を大きく横に振り、不器用な笑みを浮かべた。
「へばってないですッ!」
「よく言った! それじゃあもう1回やろっか!」
力強く否定した圭に、不知火先輩はとても嬉しそうに口角を上げた。
そして、圭は深呼吸を1つした後、その表情から不気味な笑みを消し去って悲痛に歪んだ顔をした。
彼は何かに縋るように震える腕を不知火先輩に向けて伸ばして見せた。
「あぁ、ジュリエット、どうして君は」
「ダメ」
「え?」
「全然ダメっ!」
全身の力と共に大きな声を出して、不知火先輩に向けて台詞を吐くが、不知火先輩はその台詞を遮って呆れたようにダメ出しをした。
先ほどの圭の演技は不知火先輩に教えてもらうよりも前に比べて上手くなっていた。
しかし、指導に熱が入っていた不知火先輩は、圭の演技に激高して指摘を始める。
「まず、なにその腕! 全然伸び切っていない!」
「え? そうですか?」
そう言いながら圭は自身が伸ばしている右腕を見る。しかし、その腕は伸び切っており、勢いが足りなかったのかと、圭は再度腕を大きく伸ばして見せた。
しかし、そんな圭の演技に不満を持った不知火先輩は、圭の右腕を掴み思いっきり引っ張った。
「痛たたた!」
「ほら、伸びた」
「これは伸びたんじゃなくって、伸ばされたんですよ!」
圭は慌てて不知火先輩から手を離し、右腕を振って痛みを消そうとする。
しかし、中々腕から痛みが消え去らず、圭は不知火先輩を恨めしく睨みつける。
そんな圭に不知火先輩はため息を吐いた。
「もっとストレッチしたほうがいいよ。今のままだと君が手を伸ばしているのが客席からだと分からない」
「にしても無理に伸ばすことはないじゃないですか!」
痛みにこらえながら、圭は泣き言を言う。
そんな情けない圭に、不知火先輩は頬を膨らませた。
「はぁ~。高校から演技を始めたといっても、もう少し体の使い方をね」
「……うっす」
不知火先輩の指導はかなりのスパルタだった。
その練習方法は高校から演技を始めた圭にとってハードルが高く苦痛でしかなかった。しかし、不知火先輩の指導は彼女の言動とは裏腹に理論的で筋が通っていた。そのため、圭は泣き言を言っても、不知火先輩は論理的に論破して練習を再開する。
そんな指導の甲斐もあって不知火先輩の指導のおかげで圭の演技はメキメキ伸びていった。
そのことは圭自身も自覚できていたため、泣き言を言いこそしても決して逃げることはなかった。
「とはいっても、そろそろ休憩しよっか」
「えっ!?」
「なによ?」
「いや、不知火先輩が休憩っていう単語を知っているなんて……」
「うっさい。休憩なしにするよ!」
驚きのまま皮肉を言う圭に、不知火先輩は怒りを態度に表した。
それを見た圭は教室の隅に置いてある水筒に手を伸ばして、中に入っている麦茶を喉に流し込んだ。
「ねぇ、なんで演技を始めたの?」
そんな圭の背中に向けて不知火先輩は質問を投げかける。
それを聞いた圭は落ち着いた様子で、水筒の蓋を閉めると後ろを振り返る。
「いきなりどうしたんですか?」
突拍子もない質問に圭は、首を傾げた。
それに対し、不知火先輩は天井を仰ぎながら言葉を続けた。
「いや、雑談というか、そもそも圭って演技を頑張る理由はないでしょ?」
「あぁ、確かに」
言われてみれば自分が演技を始めていなかったことを思い出した圭は、何かを思い出すように右上の虚空を見続ける。
そして、観念したかのような表情で理由を語りだした。
「姉さんが元々蓬丘高校の演劇部に所属していたんです」
「え? お姉さんが」
「はい。水嶋 千里って聞いたことないですか? 確か3、4年前に卒業したからもしかしたら会っていると思うんですけど」
圭の言葉を聞いて、不知火先輩は雷に打たれたようにビクッと体を震わせる。
それを見て確信を得た圭は、不知火先輩に1つの質問をする。
「やっぱり知り合いでした?」
どこか清々しい笑みを浮かべる圭に、不知火先輩は戸惑いながら頷いた。
「う、うん。同級生だった……」
「……? なにかありました?
歯切れが悪く、自信なさげな態度に圭は疑問を感じた。
そんな圭に申し訳なさそうな顔で不知火先輩は両手の人差し指を互いに突きながら、曖昧な笑みを浮かべた。
「い、いや~、な、なんでもない……よ?」
演技が上手なはずの不知火先輩だったが、今の彼女は表情を引きつっており明らかに嘘を吐いていた。
「本当ですか?」
「……実は友達でした……」
当然のごとく不知火先輩の嘘に気が付いた圭は、ジト目で不知火先輩を見つめ続ける。
そんな瞳に見つめられた不知火先輩はすぐに諦めて暴露する。
それを聞いた圭は驚いて目を見開いた。
「なんで一旦誤魔化したんですか?」
「……い、いや友達の弟と関わってたって思うと、なんか恥ずかしくって」
「そうですか?」
「そうだよ!」
不知火先輩は独特な感性をしているようで、頬を赤らめながら叫んだ。
そして、少しの間を置いた後、心が落ち着いた不知火先輩は圭の呆れたようなピーナッツの殻のような形をした瞳を見つめる。
「それで、千里ちゃんがどうかしたの?」
「お姉ちゃんは昔から無気力で演劇部に入ったのも友達に誘われたからって理由なんですよ。ただ、ある日を境にお姉ちゃんが演技を頑張るようになったんです」
圭の話を聞いて、不知火先輩は呼吸を止めた。
最初から冷え切っているはずの体がより一層冷たくなっていくのを、不知火先輩は肌で感じた。
「……それで?」
「あぁ、えっと……。理由を聞いても教えてくれなくって。その理由が知りたくって同じ高校に進学して演劇を始めたんです」
圭は姉である千里のことを思い出しているのか、懐かしそうな笑みを不知火先輩に向けた。
そんな圭を見て、不知火先輩はどこか寂しそうな顔で圭の顔を見つめた。
「……それはきっと私が原因なんだろうな」
「え?」
風に吹かれて消えてしまいそうなほど小さな声で、不知火先輩はそう呟き、圭は驚いたような顔で彼女の顔を見つめる。
彼女は圭が見たことがないような顔をしていた。悲痛に歪んでいるのに泣き喚いているわけではない。己の運命を受け入れてどこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
そんな顔を見て、どこか胸騒ぎがした圭は思わず口を開いた。
「……消えないで」
理由は分からなかった。
ただ、不知火先輩が忽然と姿を消してしまいそうだと思った。
しかし、その予感は正しかったことを圭はすぐに思い知る。
「消えるよ。私は」
彼女は感傷的に笑っていた。
窓の向こうから燦燦とした太陽の光が教室を照らし、彼女の体をすり抜けて圭の瞳に深く突き刺さる。
「なんで……?」
「なんでって、私は幽霊だよ。そもそも私は6年前に死んでいるはずなんだよ」
彼女は自分の運命を知っていたのか、それとも今この瞬間を待っていたのか、どこか落ち着いた様子で圭に語り続ける。
「……私は碌な人間じゃなかった。中学生から演技を初めて才能もあった。だから、すぐに先輩たちに目を付けられていじめの標的になっちゃったの」
彼女は圭に背中を見せて、恨めしく太陽を睨みつけた。
そんな彼女の背中はとても小さくて、少しだけ震えているような気がした。
「私もそれでいいと思っていた。友達がいなくても演技が好きだから。それで私はよかったんだ。……よかったはずなんだ」
圭は何も言うことができなかった。
弱々しい彼女の背中に語り掛ける言葉を彼は持ち合わせていなかった。
「……でもね? もう限界だったんだ。だから私はあの日、首を吊ったの。この教室で」
「……ぇ」
思わず一歩、後退る。
床の軋む音が教室に響いたのと同時に、圭は自分が今までいた教室を見回す。
不知火先輩と何度も演技の練習をしたこの教室が途端に不気味なものに思えてきて、咄嗟に圭は自分の口元を抑えつける。
それは吐き気がしたからではなかった。
不知火先輩に表情を悟られないようにしたかったからかもしれないし、余計な言葉を口にしたくなかっただけかもしれない。
「だけどね、死んだあと私は幽霊になったの。だけど、何もせずこの教室にずっといたの。幽霊であることを利用して、いじめてきたやつに仕返しができたかもしれないし、いろんな場所に行って好きな演技を永遠と続けられたかもしれないのに。もうどうでもよくなっちゃってたんだ」
ふと、彼女は振り返って圭の顔を見つめる。
彼女はとても優しい笑みを浮かべていた。そんな彼女の表情に、圭は何も言うことができなくなってしまった。
「でもね、ある日千里ちゃんがこの教室に来たんだ」
「……姉さんが?」
「そう。千里ちゃんはずっと「ごめんなさい。ごめんなさい」って謝ってた」
「それは……姉さんが不知火先輩をいじめてたんですか?」
「ううん。そんなわけない。むしろ逆だよ」
そう言いながら不知火先輩はどこか申し訳なさそうな口調でゆったりと語り始めた。
「千里ちゃんは私を守ってくれていた。私は自分から一人になろうとしたのに、千里ちゃんは「友達なのに守れなくってごめんなさい」って」
その話を聞いた時、ふと圭はお姉ちゃんらしいなと思った。
あの人は無気力だったが、人の道を外れることはしなかったし、許さなかった。だからこそ、友達だと思っていた人をいじめから守れなかったことがとても苦しかったのだろう。
「その時に自分が一人じゃないことに気づければよかったって思ってさ。同時に千里ちゃんに申し訳なくなったんだ。だから、「私の分まで演技を頑張って」って伝えたの。そしたら、千里ちゃんがいきなり私の方を見て「うん」って答えてくれたんだ」
「お姉ちゃんは不知火先輩が見えたんですか!?」
圭は驚きのあまり大きな声を出して不知火先輩に問いかける。
しかし、不知火先輩は残念そうな顔をして首を横に振った。
「ううん。多分、千里ちゃんは私が見えていないし、あれ以降私の声に反応してくれなかったからあの瞬間だけしか聞こえてない」
「……そう……ですか」
もしも、彼女が不知火先輩のことを自分のように見えていたのなら。
そんな妄想が圭の頭を埋め尽くし、暗い表情をしてしまう。
「でも、すっごい嬉しかったんだ。私の分まで千里ちゃんが演技を頑張ってくれて」
そんな圭とは違い、不知火先輩は笑っていた。
その笑みは太陽の光でよく見えなかったが、とても眩しいように感じた。
「千里ちゃんは元気?」
「……はい。元気ですよ。今は東京の方で小さな劇団に入って演技を続けているみたいですし」
「……! そっか。それはよかった」
自分に変わって演技をしてくれる人がいる。
それを知れて不知火先輩は安堵から穏やかな表情をする。
「……不知火先輩……、体が!」
圭に言われて不知火先輩は自分の体を見つめる。
自分の体は半透明になって今にも太陽の光によって消えてしまいそうだった。
まるで太陽の光が彼女の元に集まり、陽向を作っているようにさえ感じる自分の体に、自分の意識がだんだんと消えていくのを感じた。
「そっか、もう時間か。よかったよ、私が大好きな演技を続けてくれる人が2人もいるって知れて」
諦めたような表情で、不知火先輩は圭に語り掛ける。
その2人のうちに自分が入っていることに気が付いた圭は、言葉を詰まらせた。
「本当に私にとって最高の幕切れだね」
彼女は涙を流しながら笑い、圭を見つめる。
そして、彼に最後の言葉をかけようと口を開いた瞬間だった。
圭は自分の体の限界を意に介さず、右腕を彼女に向かって伸ばして見せた。
「それじゃあ、最後に1回だけお芝居をしませんか?」
「……!」
彼の誘いに今度は不知火先輩が言葉を詰まらせた。
そして、彼女は間髪入れずに笑って見せた。
「……うん! それじゃあ早速始めようか!」
楽しそうに声を弾ませて、すぐに彼女は数歩下がり笑みを浮かべた。
彼らはいつものように演技を始める。しかし、それはとても酷いものだった。
彼らはずっと笑っていた。
ロミオが身分の差を知り苦しんでいる時も圭は笑っていた。
ジュリエットが涙を流すときでも不知火先輩は笑っていた。
演技が好きだ。
どうしようもなく好きだ。
その感情が溢れて仕方なくって、ずっと笑ってしまっていた。
「あぁ! ジュリエット、どうして君はジュリエットなんだ!」
圭は抑えきれない感情を言葉と体に乗せて、右腕を彼女に向かって差し出した。
そして、ジュリエットの言葉を待つ。
しかし、ジュリエットを演じる不知火先輩は続きの言葉を発することはなかった。
そんな彼女の様子に圭は右腕をゆっくり下ろした。
「ごめんね。まだ終わっていないのに」
「……いいえ。本当に楽しい演劇でした」
「ずっと笑っていて、酷いものだったけどね」
「楽しかったからしょうがなくないですか?」
「……うん! 本当に楽しくって仕方がない!」
彼女はそう言ってから圭に向けて手のひらを差し伸べた。
「……ありがとう。これからも演技を楽しんで」
「……ッ、はい!」
圭は不知火先輩の託した言葉に屈託のない笑顔を浮かべて、彼女の手を握ろうとする。
しかし、圭の手は不知火先輩を掴むことができなかった。
圭の手が不知火先輩の手に触れる直前、突如として不知火先輩は姿を消した。
まるでスポットライトが消えた瞬間に演者が舞台から消すように、彼女はどこにも見当たらなくなった。
「……ちゃんと笑えてただろうか」
太陽が雲によって陰り、彼はポツリと言葉を漏らした。
「ちゃんといい後輩でいれただろうか」
彼はそのまま膝から崩れ落ちて、茫然とした様子で先ほどまで彼女がいた場所を見続ける。
「……不知火先輩のことが好きって言わなくってよかった……!」
彼女の熱がなくなった教室に、圭の嘆きが響いた。
彼女は死んだ人間だ。
それでも、圭は恋に落ちてしまっていた。
だけど、それは優しい彼女の重荷になってしまうから。
だから。
「……これでよかったんだ。これは不知火先輩にとってのハッピーエンドなんだ……!」
ロミオとジュリエットは、互いの好きの言葉によって誰もが不幸になった悲劇だった。
だけど、彼の恋は違った。
自分の好きを口にしないことで、彼女を幸せにしたかった。
自分の好きは蔑ろにしてもいいから、圭は彼女に幸せでいて欲しかった。
だから演じ続けた。
不知火先輩にとってのいい後輩を。
彼女の演技を継ぐに値する人間を。
「……好きだ。不知火先輩」
圭は誰もいない教室に告白する。
理想の後輩を演じ続けた圭のカーテンコールに、拍手を送る者はいなかった。
しかし、雲に隠れたはずの太陽の光がスポットライトのように彼を暖かく照らし続けた。




