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前編

 蓬丘高校旧校舎。

 3か月後に老朽化を理由とした取り壊しが決まった木造の校舎の教室で、一人の青年が立ったまま目を瞑っていた。

 青年は何度か深呼吸をした後、ゆっくりと目を開き1歩前へと歩み出す。

 そして、青年は何度も言い慣れているであろうセリフをやるせなさと苦しさの感情を込めて口にした。

「あぁ、ジュリエット。どうして君はジュリエットなんだ!」

 シェイクスピアが書いた悲劇の名作、ロミオとジュリエット。

 長年対立してきた名家のロミオとジュリエットが恋に落ち、互いが幸せになるために行動した結果、誰も救われない悲しい結末を迎える物語。

 彼が口にしたセリフはロミオとジュリエットでの屈指の名シーン。2人が想っている相手が対立する家の子息だと知り、自分たちの結ばれない運命に嘆き、君じゃなければよかったと苦しみながらも愛を伝える。

 そう、青年はまさしくロミオだった。

 彼は木造の教室がキュピレット家のバルコニーにでも見えているのか、彼はいないはずのジュリエットに言葉を投げかけていく。

「ジュリエット、庭へ出てきてくれませんか? 話がしたいのです」

 彼はバルコニーにいるジュリエットに声をかける。

 そして1つの間を置いて、矢継ぎ早に次のセリフを吐こうとする。

 しかし、その言葉は出てこなかった。

「それはできません」

 凛とした声が青年の視線の先から聞えてきた。

 青年は目を疑い、自分の目の前に立っている少女に目を向ける。

 少女は青年と同じように蓬丘高校の制服を着ていた。彼女は艶のあるハーフアップの黒い髪を赤いリボンでまとめていて、まるで映画の中からお姫様が飛び出してきたかと思うほど、彼女の容姿は目を引いた。

 そしてなによりも青年の視界には先ほどまで少女の姿はなかった。

 青年はこの教室に来るまで1人でいたはずだ。そして、扉が開いた音もせず、誰かが隠れていたことも考えにくい。

 そのため、青年は突如として自分の前に現れた少女に釘付けになり、言葉を詰まらせてしまった。

「あれ? 次の台詞は? 飛んじゃった?」

 一方で動揺している青年とは打って変わって、少女は不思議そうな顔で首を傾げた。

 少女は呆れたような態度で、教卓の上に置いてある台本に触れようとする。

「あれ?」

 しかし、歩き始めたタイミングで青年の瞳孔が自分に釣られて動いていることに気が付いた。

 それに気が付いた少女は早足で教室中を動き回る。しかし、青年の瞳孔は動き続ける少女を捉え続けていた。

「……もしかして、見えてる?」

 恐る恐るといった様子で少女が青年に確認すると、冷静さを取り戻した青年はゆっくりと1回、大きく頷いた。

 それを見た少女は色白だった顔色をどんどんと青ざめさせていき、そして。

「うわ~っ!」

 と、甲高い声を上げた。

 彼女の声は古い旧校舎中に響き渡り、青年は咄嗟に両手で耳を塞いだ。

「な、な、なんで見えてるの!?」

 少女はそう言いながら青年に元に詰め寄ってくる。

 慌てる少女からは花の香水のような匂いが漂っていて、近づいたことでその匂いが青年の鼻の元まで届いてくる。

「なんでって、どういうこと? というか、どこから入ってきたの? 旧校舎は基本立入禁止だよ」

 青年はなるべく理性的に話すように心がけると、少女は両手を鳥のようにはためかせながら首を横に振った。

 彼女の言いたいことが分からなかった青年は、顎に手を当てて考え始める。

「違うの! 私はいいの!」

「私はいいって……。確かに無断で忍び込む生徒も少なくはないけど、旧校舎を使うには一応先生の許可を取る必要があって」

「そうじゃなくって!」

 突如として始まった青年のお小言に、少女は地団駄を踏む。

 一方で青年は少女が首元に付けているリボンと、履いているシューズの色が赤色であることに気が付いた。

 蓬丘高校では制服のリボンやシューズの色で学年を表している。3年生だったら青色、2年生だったら緑色、1年生だったら赤色のものを身に付けるのがルールになっている。

 そのため、彼の目の前にいるのが1年生だということを彼はすぐに理解した。

「あ~、もしかして迷い込んじゃった? だったら昇降口まで案内するけど」

「迷い込んでない! そもそも、後輩扱いしないで!」

 青年は気を遣って、少女に優しく声をかける。

 しかし、その態度が癪に障ったのか少女は青年に指を指して胸を張った。

「いい? 私はあなたよりも先輩なの! 敬語を使うのはそっち!」

「……はぁ?」

 理論が通っていないことを言う彼女に、青年は肩をすくめて短く応答した。

 その態度により一層腹を立てたのか、少女は近くにあった机の上に乗りあがる。

「ちょ、危ないよ!」

「大丈夫だから!」

 青年は慌てて止めに入ろうとしたが、少女は言うことを聞かず机の上に立った。

 机の上に立ってしまった少女を下手に止めてしまえば、かえって余計に危険なことになる。そう思った青年は少女が落ちた時にすぐに駆け出せるように足を開いて走り出す体勢を整えながら少女を見守った。

「見てなさい!」

 そんな青年の心配をよそに、少女は足に力を入れて、机を踏みつけながらそのまま飛び上がる。

「危ないッ!」

 唐突に机から飛び降りようとする少女に、青年は少女の元に駆け寄ろうとする。

 慌てて落下点を見極めて少女を受け止めようとする。しかし、いつまで経っても少女は落ちてこなかった。

「……え?」

 青年は戸惑った顔をしながら少女を見続ける。

 少女は空中に浮かんでいた。

 いつまでも地面に降りてこず、まるで空気に見えない地面があるかのように立っていた。

「私、幽霊なの」

 少女のカミングアウトに青年は口をあんぐりと開けて彼女を見る。

 青年の驚いた顔を見られて満足がいったのか、少女はしてやったという顔をしていた。

「……どういうこと?」

「だぁかぁら! 私は6年前に死んだの。この北校舎で!」

 理解できない内容に青年は目を丸くした。彼女のいう事はとても信じられなかったが、空の上に立っている彼女が言っていることが正しいことを証明していた。

 彼女が言っている北校舎というのはこの旧校舎の前の名前だ。

 旧校舎が普通に使われていた時代は、この校舎は北校舎と呼ばれていた。しかし、老朽化によって生徒の立ち入りが基本禁止になると、この校舎は旧校舎と呼ばれるようになった。

「ねぇ、後輩くん。名前はなんて言うの?」

 少女は大人びた笑みを浮かべながら、地面に着地した。

 その顔を見た青年は複雑な感情を持ちながらも、ゆっくりと口を開いた。

「水嶋 圭です。それで……先輩は?」

「……不知火 日奈。不知火先輩って呼んで」

「分かりました。不知火先輩」

 青年が彼女のことを先輩呼びすると、不知火先輩は嬉しそうにはしゃぎまわった。

「いや~、先輩呼びっていいよね! 私、1年生の時に死んじゃったから先輩って呼んでくれる人いなかったんだよね~」

 彼女は古い教室を飛び回りながら喜んでいた。

 そんな彼女を見ながら、圭はようやく冷静になってきた。そして、疑問に思ったことを口にする。

「不知火先輩って演劇部だったんですか?」

 そう質問すると、不知火先輩は立ち止まって彼の顔を見つめる。

 そして、首を傾げながら圭に問いかける。

「そうだけど……なんで?」

 彼女はあざとく指を顎に当てて唇を尖らせた。

 圭は彼女の顔を見ながら、さきほどジュリエットになり切っていた彼女の姿を思い出す。

「いや、さっきジュリエットの台詞を言ってたから……」

「あぁ、そっか。そういえばそうだったね」

 不知火先輩は教卓に向かっていき、圭が持ってきた台本を愛おしく撫でる。

 台本の表紙にはロミオとジュリエットというタイトルが書かれていた。

「そうだよ。とはいっても所属していたのは半年もなかったけどね」

 先ほど、不知火先輩は1年生の時に死んだと言っていたことを思い出した。

 つまり彼女は入学してから半年も経たずに亡くなったということになる。

「……不知火先輩って演技上手いですよね?」

「あ~、中学生のころから演劇をしてるからね」

 何かを思い出しながら不知火先輩は圭の言葉に同意した。

 それを見た圭は不知火の宝石のように輝く瞳を見つめた。

「あの! お願いがあるんです!」

 瞬間、圭は両掌と額を地面に付けて、彼女に向けて土下座の姿勢を取る。

 それを見た不知火先輩は慌てた様子で圭の前に立った

「ど、ど、どうしたの!?」

 いきなり土下座を始めた圭に、不知火先輩は慌てふためいた。

「僕に……演劇を教えてくれませんか?」

「へ?」

 そう懇願する圭に、不知火先輩は困惑する。

 そして、圭は顔だけ上げて不知火先輩に事情を説明し始める。

「実は2か月後に文化祭があって、ロミオとジュリエットをやるんですけど」

「あぁ、そういえば毎年文化祭で発表してるって入部した時に先輩が言ってたね」

 不知火先輩はだいぶ昔の記憶を思い出し、圭に同調する。

 蓬丘高校の演劇部は毎年秋に行われる文化祭で演劇することが恒例になっている。

 それは不知火先輩が生きていた6年前にもその慣例はあったようだった。

「そこで僕がロミオ役をやるんですけど、うまくできているとは思えなくって……」

「え、そうかな?」

 自信なさげに圭は弱音を吐く。しかし、不知火先輩は首を傾げた。

 先ほどの圭の演技はまるでロミオがその場にいるようで、不知火先輩は彼の演技が人並み以上の実力があると思っていた。

 しかし、彼は首を何度も横に振って、それを否定した。

「不知火先輩の演技を見て、あんな演技をしてみたいって思ったんです! だから、演技を教えてくれませんか!?」

 圭はどこか必死の顔をしていた。

 そんな顔を見て、不知火先輩は何かを考えるように目を強く瞑った。

 そして、しばらくした後、ゆっくりと口を開いた。

「……分かったよ」

「本当ですかっ!?」

 渋々といった態度で不知火先輩が圭に演技を教えることに同意すると、圭は太陽のような笑みを浮かべた。

「ただ、私は演技を教えたことがないからね! 分かりにくくてもいいならって条件付きだけど!」

「もちろんです!」

 キラキラした目をしている圭に、不知火先輩は諦め混じりにため息を吐いた。


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