冷水
その家のトイレは、どうにも変だった。
築三十年の一軒家。駅から遠く、傾斜地に建つ古い家を格安で借りたのは、出版社に勤める編集者・小野寺優だった。独身で金もなく、だが一人きりの空間が欲しくて、多少の古さには目をつぶった。
最初の違和感は、入居して三日目だった。
朝、トイレを流した瞬間――手に走る、鋭い冷たさ。
「……っ、冷たっ!」
レバーをひねった手が凍えるほどに冷え切っていた。夏真っ盛り、クーラーも入れていないのに、その冷気は異常だった。しかも、水面から立ちのぼる空気に触れると、鳥肌が立つ。まるで冬の冷気のようだ。
タンクの中を確認しても、特に問題は見当たらない。気味は悪いが、水が出ないわけでもないし、流れるならそれでいい――そう思って、放置した。
だが異常は日ごとに増していった。
水の流れる音が、どこかおかしい。夜中の誰もいない時間、トイレの奥からぽた、ぽた、という水滴の音が聞こえる。水道を閉めても止まらない。まるで、誰かが天井裏で水をたらしているかのような。
やがてそれは、音だけでは済まなくなった。
ある夜。酔って帰宅した優は、寝る前にトイレに立った。
深夜1時。薄暗いトイレの電気をつけ、用を済ませ、流そうとしたその時――水面に、何かが映った。
「……え?」
もう一度覗き込む。そこに映っていたのは、自分の顔ではない。明らかに他人、しかも、びしょ濡れの、青白い女の顔だった。
長い髪が濡れて張り付き、目は虚ろにこちらを見つめている。鼻と口からは泡がこぼれ、まるで――溺れ死んだ直後の顔のように。
ガタン、と音を立てて後退し、電気をつけ直す。だがそこに顔などなかった。ただの水、ただの便器、ただのトイレ。
「……酔ってるだけだ」
そう言い聞かせて寝室に戻った。
翌朝、トイレの床が濡れていた。誰も使っていないのに、水が便器からこぼれた形跡がある。しかもその水――指で触れた瞬間、凍るような冷たさに、思わず指を引っ込めた。
その日の夕方、優は近所の不動産屋に苦情を言いに行った。
「ああ、トイレの冷たさですか……それ、前の人も言ってましたよ」
「前の人?」
「ええ。去年の秋に住んでた方です。冬じゃないのに寒くて、体調崩して出て行っちゃって。まあ、あの家、ちょっと地面が湿ってて……井戸でも埋まってるのかもしれませんね」
「井戸?」
「昔の地図に、確かにあの辺りには古い井戸がありました」
優の背筋に、冷たいものが走った。
その夜、再びトイレに入ったとき、確信した。
この冷たさは“空気”の冷たさではない。水そのものが、異常なのだ。流れるたびに、空間そのものを冷やしている。まるで――地の底から引き上げられた水のように。
そして、あの顔も、また見えた。
今度は目が合った。女の唇が、かすかに動いた。何かを言っている。
『かえして』
その唇の動きに、はっきりそう読めた。
「……返す? 何を……」
思わず呟いたその瞬間、水の中から手が伸びた。
いや、“見えた”のではない。“感じた”のだ。明らかに冷たい指先が、自分の手首を掴んだ感覚。
優は悲鳴を上げてトイレを飛び出した。
翌朝、引越しを決めた。
その日の午後には荷物をまとめ、友人の家に一時的に身を寄せた。もう、あのトイレに近づくことは二度とないだろうと思っていた。
……だが、逃げ切れなかった。
それは三日後。シャワーを浴びていたときのことだった。
温かいはずのシャワーの水が、突如として氷水に変わった。
「……っ、うわっ……!」
驚いて蛇口を閉めたが、水は止まらない。冷たい水は止まるどころか、浴室全体にあふれ出した。
そして――排水口の奥から、あの顔が、覗いていた。
青白く濡れた顔。細長い指が、排水口から這い出ようとしていた。
その口が、また言う。
『かえして……わたしの こどもを……』
直後、優の足元から、氷のような水が一気に吹き上がった。
水ではなかった。
それは、底なしの「何か」だった。
彼は叫んだ。だが声は水に呑まれ、体は排水口の狭さを無視して、ずぶずぶと浴槽の底に沈んでいった。
まるで――あの女の、井戸の底へと。
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数日後、誰もいなくなった浴室には、薄く濡れた床だけが残っていた。
そしてその中央、濡れた排水口の奥から、ぽた……ぽた……と。
まるで、涙のように冷たい水音が響いていた