16話 お騒がせな暗殺者④
港町の中心から少し外れた所に、その宿はあった。
「どうやら、ここのようだな。……熊火亭、か。まあ、とりあえず入ってみよう」
グラーネに続き、俺とオーレリアも宿に入った。
「へい、いらっしゃい! お泊まりで……って、これはまた、珍しい方たちが……」
店番をやっていたのは気の良さそうな海人の男性で、俺達の組み合わせを不思議に思っているようだった。
「うん? ここの宿は女将が経営していると聞いたが、お前は旦那か?」
「そうです、グラーネさん。ウチのカミさんに用がおありで?」
「まあ、そんな感じだな。とりあえず、女将を呼んでもらえるか?」
「了解しやした。少々お待ちを」
旦那が女将を呼んでくるまで、俺は宿の内部を観察する事にした。
宿の内装は質素ではあるが、よく手入れがされているようだった。
昼は働く人間向けに食事も出しているのか、テーブル席には客が数人いて、料理をつついている。
接客用のカウンター裏の壁には、赤い熊が描かれた古びた旗と、無骨で大きな赤い弓が飾られていた。
「……ん? あの弓、どこかで見たような気が……」
俺と同じ物に目が留まったようで、グラーネは首を傾げていた。
「そうなのか? ひょっとすると、誰か知り合いがこの宿をやっていたりしてな」
「うーむ。まあ、子供の頃に見た記憶がある、という程度だからな。記憶違いかもしれん」
そんな話をしていると、奥の方から旦那が戻ってきた。
「皆さん、お待たせしました。ほら、お前! さっさと来るんだ」
旦那の後に表れた女性は、俺より背が高く、赤い髪によく焼けた肌をしていた。
白いシャツから覗く両腕には無数の古傷があって、戦場に身を置いていた人間だった事が窺える。
「……はいはい、私に用ってのはどちら様……って、グラーネさんじゃないか!! 私のこと、覚えてます? ほら、あなたが子供の頃、ジンバール家の練兵に参加してた──」
そう言って、大柄な女性は弓を引く真似をしてみせた。
「おお! お前、ヴァネッサか! 久しぶりだな! 漁師をやっていたと聞いていたが、今は宿屋を経営しているのか」
「そうなんですよ。子供が生まれてから、もうちょい安全な仕事をってね。いやいや、すっかり美人になって。……オーレリアさんは、私のこと覚えてます?」
「ええ、覚えています。グラーネと一緒に、弓の練習に付き合ってもらいましたね」
「あははっ! そうですね、そんな事もありました。二人とも、本当に覚えが良かった。……ひとまず、元気そうで良かったです」
昔を思い出しているのか、三人の間にはしんみりした空気が漂っている。
昔話も結構だが、俺としてはオーレリアを早くなんとかしてやりたかった。
「ええと……すまない、女将。あなたに協力して欲しい事があるんだが……」
女将は俺をちらりと見て、ぐいっと顔を近づけてきた。
「……へえ~。グラーネさんが結婚したのは聞いたけど、あなたがソウマさん? 結構……幼い顔してるけど、それを髭で隠してるって感じ? 舐められないように」
ずけずけと踏み込んでくるような物言いだが、グラーネの事を大切に思っているからなのだろう。
特に腹も立たないし、適当に流しておくことにした。
「他にも理由はあるが……まあ、そんな感じだな。よろしく頼む、ヴァネッサ」
俺はヴァネッサと握手を交わしながら、グラーネに合図をした。
オーレリアが事情を説明するというのも、やはり気恥ずかしいだろう。
「ヴァネッサ、少し耳を貸せ」
グラーネが耳元で囁くと、彼女は状況を完全に理解したようだった。
「なるほど、そういう事情でしたか。……おい、あんた! しばらく店番は頼んだよ! 私たちはちょっと、野暮用があるからさ」
「? よく分からないが、店の方はやっておくぞ」
これでひとまずは大丈夫。
俺は旦那と世間話でもして、時間を潰すとしよう。
「よし。それじゃあ我々は二階に行こう。……ソウマ、何をしている? お前も来るんだ」
「……は?」
我が妻から、とんでもない事を言われた気がする。
「は? じゃないだろう。私が大変だった時、お前は手伝ってくれたよな? 今こそ、あの”神業”の出番だ」
ニヤニヤした顔のグラーネと、恥ずかしそうに顔を赤らめているオーレリア。
(つまり、オーレリアの母乳を搾るのを手伝えって事か……)
服を替えても母乳が溢れている状態なら、また濡れるだけ。
なら、搾るしかない。
……確かに出産後のグラーネに対して、搾るのを手伝ったりもした。
ぎゅうぎゅうと力任せに搾ろうとしているのを見てしまえば、手伝いたくもなる。
まあ俺達は夫婦だし、そのくらいは手伝っても罰は当たらないどころか、そうすべきなんだろう。
「……オーレリア、君は嫌じゃないのか? その……グラーネとヴァネッサだけの方がいいなら、それでいいと思うんだが」
オーレリアから帰ってきた答えは、意外なものだった。
「……その……ソウマさんが嫌じゃなければ、手伝って欲しいです。グラーネから話を聞いていて、羨ましいって、思っていたので……」
「ソウマ。オーレリアのを手伝った事があるが、こいつも強くやってしまうタイプだ。……頼む、手を貸してくれ」
先ほどの表情とは違い、グラーネは真剣だった。
友人に痛い思いをさせたくないという感情は、当たり前のものだ。
だったら、腹を括るしかない。
「……分かった。ヴァネッサ、部屋に案内してくれ」
「は~い。……なんだか、面白いものが見られそうですねえ」
観念した俺は、女性陣と共に二階に上がっていった。
案内された部屋は少し広めで、太陽の光が穏やかに差し込んでいた。
時間的にも静かで、外からは海鳥の鳴き声が微かに聞こえてくる。
俺達を部屋に案内した後、ヴァネッサは一階に降りていき、お湯の入った桶と布、タライを持ってきてくれた。
オーレリアはまだ緊張しているのか、どこか落ち着かない様子だ。
「ふむ。なかなか、良い雰囲気の部屋だな」
「そうですか? そりゃ良かった。ねえグラーネさん、私もここにいて良いですかね? あなたの旦那さんの事、もう少し知りたいので」
「まあ、それはオーレリア次第だろうな。……どうする?」
「ええ、構いませんよ。せっかく再会出来ましたし、もう少しお話しましょう」
(変な雰囲気にはならないし、俺としてはその方が助かるな。……三人が世間話をしている間、ただ役割をこなせばいい)
余りにも予想外の展開に、意識がふわふわと遠くへ飛びそうになる。
俺はそれを懸命に繋ぎ止めながら、無の境地へ至る精神修行を始めた。
……だが、所詮は付け焼き刃。
肉体ばかり鍛えてきた己の不備を、今はただ呪うしかなかった。
「ええと……それで、どうしましょう? 床? ベッド? どこで、その、絞ったら……」
「ベッドの上でいいんじゃないですか? その方が楽でしょうし、シーツなんかは洗えばいいので」
ヴァネッサの提案によって、オーレリアがベッドの上に座り、彼女の前にタライが置かれた。
そこに俺達がベッドに腰掛け、絞るのを手助けするという形だ。
「あー……とりあえず、俺は後ろを向いてるよ」
「は、はい。それじゃあ、その……脱ぎますね」
しゅるしゅると、衣擦れの音が聞こえてきた。
俺も緊張しているが、オーレリアの方が大変だろう。
幸い、種馬の仕事で異性の裸には慣れているし、この部屋の状況なら問題ない。
(これは医療行為……医療行為なんだ……)
「あらまあ。 綺麗なもんですねえ……」
「ははっ、全くな。オーレリアは私より筋肉がある癖に、丁度いい感じの脂肪で隠しているからな。たまに腕相撲をして遊ぶが、いつも私が負け越している。……オーレリア、そろそろいいか? ソウマに手伝ってもらうぞ」
「え、ええ。……ソウマさん、こちらを向いていいですよ」
「……分かった」
意を決して、オーレリアの方を向いた。
──そこには頬を赤らめた上半身裸の、とても美しい女性がいた。
豊かな胸の下にはうっすらと腹筋のラインが見えていて、腕回りにもしなやかな筋肉が付いているのが分かる。
「……おい、ソウマ。妙齢の女性が裸を見せてくれたのだぞ? 感想くらい言ったらどうなんだ」
「……そんなの、綺麗だなとしか言えないだろ。じゃあオーレリア、早速やっていこうか」
俺はベッドに腰掛け、オーレリアの返事を待った。
「あっ、はい。それではソウマさんは、左をお願いしますね。ふっ……ふっ……」
いつもそのようにやっているのか、彼女はぎゅうぎゅうと自らの右胸を搾り始めた。
それを見た俺は、堪らずオーレリアを制止した。
「なっ! ちょ、ちょっと待ってくれ、オーレリア! そのやり方は絶対に駄目だ」
「そうなんですか? でも、こうでもしないと、なかなか出てきてくれないので……」
やはり、まずは基本的な知識が必要なのだろう。
俺はオーレリアにテレビから流れてきて覚えた、乳房に関するあれこれを教える事にした。
グラーネに対しても行ったが、やはり理屈で納得してもらうのは大切だろう。
「いいか? まず、女性の乳房の内部には、クーパー靱帯というものがある。これは乳房を支える重要なもので、一度切れてしまうと戻らない。だから加齢は勿論、激しい運動による衝撃なんかには、特に気を付ける必要がある。ここまではいいか?」
「くー……ぱー? なるほど、ソウマさんはそういった医学にも詳しいんですね」
「へえ! 女からしてみれば何となく分かっていたけど、ちゃんと説明されたことは無かったですねえ」
「はは、そうだろう? 後は他にも、寝るときはなるべく下着を付けて眠ったほうがいいようだな」
俺はグラーネの言葉に頷き、説明を続けた。
「それで、肝心の母乳が出る仕組みなんだが………乳腺というものがある。これは乳房全体を張り巡る網のようになっていて、それらを伝わって乳頭から母乳が出る仕組みになっているんだ。だから乳房の先端だけ搾っても効果は薄いし、乳腺にも炎症が出たりと良くないことばかりだ」
普段より饒舌にならざるを得ない状況に複雑な思いを抱きつつ、可能な限り分かりやすいような説明を心掛けた。
「なるほど……それでは、どう搾ればいいんでしょうか?」
「ああ。その辺りは、色々気を付ける必要があるらしい。……今からやってみるから、その……これは、変なアレじゃないからな?」
「はい。お願いします、ソウマさん」
俺は精神を統一してから、オーレリアの胸に両手を添え、乳腺を優しくほぐすようにマッサージを開始した。
「さっき言った通り、乳腺を刺激して母乳を通りやすくしようとしている。……なあ、グラーネ。お前も、もう片方を手伝ってくれ」
「む? まあその辺りはお前から教わったし、私も手伝うとするか。くくっ、夫婦での共同作業というわけだな」
暫くの間、二人でオーレリアの胸をマッサージした。
ここまでくれば、もう俺の煩悩に出番は無いだろう。
後はただひたすら、懸命に役目をこなすだけ。
「あっ……! なんだか、体がぽかぽかしてきました」
オーレリアの体の方も、準備が整ってきたようだ。
「そうか。なら、そろそろ搾ってみよう。俺の方はオーレリアに任せるよ」
「分かりました。じゃあ、試してみますね。……!! わあ、凄いです! 全然痛くないし、沢山出てきます!」
「確かに、どんどん出てくるな。 ……どうだ? 私の力加減は問題無いか?」
「ええ、平気よ。ありがとう、グラーネ」
オーレリアの穏やかな表情を見て、今までどれほど辛かったのかが伝わってきた。
俺は彼女のクーパー靱帯と乳腺にこれまでの健闘を称えつつ、空いたベッドに腰掛け、静かに息をついた。
「……振りづらい話題だが、やはりヴァネッサもこういうので苦労していたのか?」
「ええ、もちろんですよ! 旦那に手伝ってもらおうとしても、全然でしたし。子育てにしたって、もうさっぱり……」
「ふふっ。やはり、どこもそんな感じなのだろうなあ。私の母と祖母も、その辺りについて愚痴をこぼしていたよ」
「そうね。私も、母の愚痴を聞いていたわ」
男女の違いとかじゃなくて、誰かが困ってたら支えるのが当然なんだろうな。
……この世界も少しずつ、そういう風に変わっていくんだろう。
三人の世間話を聞きながら、そんな事を思った。
ここまで読んでいただき、有り難うございます。
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