疑いを知り天才は死ぬ
10で神童15で才子、20過ぎればただの人、という言葉が、ふと浮かんだ。
稽古を終わり、ペットボトルの水を傾けているところに声をかけられた。
「あの、僕の演技どうでしたか?」
柔和な雰囲気の青年だ。青年はその雰囲気通りの柔らかな――というより、どこか自信のない口調で私に問うてきた。
私は答える。
「いいんじゃないか、真面目に稽古に打ち込んでいるのがわかる良い演技だった」
「よかった! ありがとうございます!」
喜ぶ青年。私はその様子をどこか冷めた心持ちで見つめた。
目の前の腰の低い青年を見て、ほんの十年と少し前に一世を風靡した天才子役のことを思い出せる人間はそう多くあるまい。
天野英典。
十年前の当時、私は木っ端の役者で、彼はドラマ、CM、映画、とにかくありとあらゆるメディアに出ずっぱりの大人気子役であった。
とにかく性格の悪いガキであった。少しでも気に入らないことがあれば叫び散らし、一度でも敵と見定めた相手は売れっ子の権力と子供の立場を用いて徹底的に攻撃し、役柄が気に食わなければ監督に対して脚本の変更まで訴え出る暴君。まごうことなきクソガキ。この世に体罰で教育したいクソガキランキングがあれば上位入賞は間違いない。噂にではこいつの我儘でその芽を詰まれた関係者も決して少なくはないのだと聞く。
しかし、その佇まいには華があった。
神がかりといってもいい。画に天野英典が現れれば、その瞬間世界が主役を譲ってしまう存在感。役者としては劇薬もいいところだ。主役しかできない、主役にしかなれない、そんなクソガキであった。
この手のつけられないクソガキをメディアが引っ張りだこにする理由に、腹を立てると同時に納得もしてしまったものだ。
何人の木っ端が前途を立ち枯れにされたか知らないが、そんなものこの天才の輝きの前では些細な問題であったろう。もとより芸道とは、輝かしい栄光の下で夥しい夢の死骸を積み重ねる修羅の道。芸の世界にいるのは、華と肥やしだ。
しかし現在、目の前の人好きのする青年の立ち姿に、以前のような華はない。
確かに技術面は、子役時代と比べ物にならない。いっぱしの役者である。素直に上手い。
上手い、が。
そこに否応もなく人の耳目を引き付ける魔性は、もうない。
「今度○○役のオーディション受けるんだって? 受かるといいな」
「はい、ありがとうございます! 頑張ります!」
素直に頭を下げる彼は、人生に色々とあったのだろう。傲慢であり続けるというのは、無限に敵を作り続けるということだ。そして敵を作り続けた結果、彼は撃ち落とされた。撃ち落とされて尚、また這い上がろうとしている。見上げた根性だ。
色々と苦渋を舐めたのであろう。苦渋が彼から角を落とし、人間的な成長を促したのであろう。
しかし、今の彼を見る私は思わずにいられないのだ。
あの目も眩むような才気は、その落とした角にこそ宿っていたのではないかと。
ふと、思ったことを口に出してみた。
「……ノーベル俳優賞は、いつ取れるかな?」
「……は?」
何を言われたのかわからない、そんなきょとんとした顔をしていた。
子供の放言だ。もう覚えてはいないか。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
いつか、ある天才子役がその手にすると豪語してみせた賞。
勿論、そんなものは存在しない。少なくとも、現在は。しかし存在しないそんな賞でも、本当に取れてしまうのではないか、思わずそう信じたくなる説得力が少年にはあった。
天才は、もういない。