力強い狼
日が暮れようとしています。この時期、だんだん夜が長くなっていきますよね。それは自然現象だから仕方ないですけれど、野宿は嫌です。
このあたりは夜にゴブリンの群れが出るという話の真偽を身をもって確かめる気にはなりません。
空模様も怪しくなってきましたし。雨が降ろうとしています。雨の中の野宿は、さらにまっぴらです。
「ユーリくん! 急いで!」
「ガウ!」
人間が三人乗れる大きな背中にまたがりながら、わたしは白い毛並みに語りかけます。
わたしを乗せているのは真っ白な狼。彼は呼びかけがわかっているかのように頷きました。
というか、わかっているんですけどね。わたしを運んで走っている彼は、狼であって人間でもあるのですから。
「大丈夫ですよ街までもうすぐです! ほら柵が見えてきました! すいませーん! 入れてください! 通りまーす!」
この近辺では一番大きな街は、その敷地を取り囲むように立派な柵が立てられています。そして出入りするための門には兵隊さんが立っています。
街の住民を邪悪なモンスターから守るために、こんな作りになっています。ゴブリンが勝手に入ってきては困りますもんね。これがもっと大きな街になると、城壁で囲まれて完璧な防御が敷かれています。
まあ、場合によってはそれが破られることもあるんですけれど。わたしたち、旅をしてる間にそういう例も見てきましたから。
「こんばんは兵隊さん。街に入らせてください! 子供ふたりです。ふたりとも冒険者です!」
狼から降りながら兵隊さんに話しかけます。
大きな狼に乗った女の子にそんなこと言われても、兵隊さんは戸惑うばかりです。狼、大人の兵隊さんよりもずっと大きい体していますから。こちらに槍を向ける始末です。
大丈夫です。慣れてますから。
わたしが降りると、狼があっという間に小さくなっていきます。
わたしと同じくらい、十二歳の小さな男の子になりました。白い髪と澄んだ瞳。変化に乏しい表情の格好いい男の子です。彼はわたしが預かっていたローブを羽織って体を隠しました。
「僕はユーリ。こっちはフィアナ。冒険者」
必要なことだけ言って、ローブのポケットの中の冒険者登録証を見せます。わたしもすぐに同じことをしました。
それから。
「ユーリくんはワーウルフなんです。見ての通り、狼と人間両方の姿になれる種族なんです」
兵隊さんたちに教えました。
そういう種族がいることを兵隊さんも知っているのでしょう。大きな狼の正体が小さな子供であることに驚き、反応が遅れているだけのようです。
とにかく、ふたり分の登録証を確認して、街に入ることを許可されました。門が開いていきます。
ガサリ。
それとほぼ同時に、門の外側で物音が聞こえた気がしました。既に日はすっかり沈み、ゴブリンが出てくる時間です。密かに街に近づいて来たのかもしれません。
咄嗟に弓を構えてそちらを見ます。そうです、わたしの冒険者としての武器が、この弓なのです。
しかし、何も見つかりませんでした。聞き間違いだったのでしょうか。
「行くよ」
「あ、はい」
ユーリくんに促されて、門を潜ります。柵に覆われた安全な街の中は、人々の活気が満ちていました。
宿を探して街を歩いている間に、わたしたちのことを教えてあげますね。
わたしはフィアナ。元は、小さな村に住む平凡な娘でした。狩人である父から弓を習って、この村でずっと過ごすのが自分の人生だと思っていました。
十一歳の頃、つまり一年前の今くらいの季節に、村を訪れた不思議なお姉さんの旅人と、その使い魔の姿に憧れて、広い世界を見たいと思って旅についていくことになりました。
その直後に、ユーリくんや彼と一緒に旅をしているお兄さんと出会います。わたしたちはパーティーを組んで、いろんな冒険をしました。悪い魔法使いの陰謀を打ち砕いたりしました。
今は色々あって、お姉さんたちとは別行動中です。ユーリくんと二人旅です。
お姉さんたちとは、この街で合流することになっています。ああ、二人旅ももうすぐ終わりですか。
ユーリくんは同い年のワーウルフです。狼になれる人間です。
ワーウルフの里という、ユーリくんと同じ力を持つ人ばかりが暮らしている集落から、複雑な事情で出ていって旅をしていました。そしてわたしたちと出会いました。
一緒に旅をする中で、その、わたしはユーリくんが好きになって、ユーリくんも同じ気持ちだったらしくて。
それで、わたしたち正式に付き合うことになりました! えへへ。
ユーリくんは無口でクールで、格好いいのです。わたしの故郷の村にはいなかったタイプの男の子です!
狼になるとモフモフで強くなるのですが、それよりもわたしは人間の姿のユーリくんが大好きで。えへへ。そういうことです!
「フィアナ」
ユーリくんが呼びかけてから、ある建物を指差しました。
宿屋さんですね。なかなか良さそうなところです。
ポツリと、雨が一粒落ちました。本格的に降られる前に、ふたりで宿屋に駆け込みます。
子供だけで泊めてくれと伝えたら、宿屋の主人は怪訝な顔をしました。いつものことです。冒険者の登録証を見せれば納得してくれました。これもいつものことです。
雨は夜のうちに止んで、翌朝には一転して快晴、清々しい天気となりました。
街の中心部にある冒険者ギルドへ立ち寄って、お姉さんたちが来ているか探しました。まだのようです。
もしかしたら、しばらくこの街で待ち続けなければいけないかもしれません。宿屋に泊まるのも安くは済まないので、ギルドで仕事を受ける必要があるかもしれません。
でも、今日はのんびりしましょう。小さい街ですけど、面白いものがあるかも。というわけで、ユーリくんと一緒に歩き回ります。これ、デートって言っていいんでしょうか。
すると早速、良いものを見つけました。
「ユーリくんユーリくん! 見てください! 結婚式やってます!」
「うん」
この世界で広く信じられている宗教を人々に伝える施設、つまり教会に、多くの人が集まっていました。
その中心にはきれいな花嫁さんがいました。幸せそうです。美しいです。
雨が止んで、本当に良かったです。
「いいですね」
「うん」
「わたしも、いつかあんな風な結婚式をしたいです」
「うん」
その時に隣にいるのはユーリくんなんですからね。わかってるんでしょうか。反応薄いんですけれど。
いいえ。これは、ちゃんとわかってる反応です。ユーリくんはクールなので、こういう返事をよくします。けど、ちゃんとわたしの話は聞いてくれてるんですよね。
きれいな花嫁さんをずっと見ていたい気持ちはありますけれど、わたしたちは部外者。邪魔しちゃいけませんよね。というわけで立ち去ろうとしたところ。
その花嫁さんが悲鳴をあげました。
何事かと見てみれば、花嫁さんに何か小さなものが取り付いています。
小柄な体。微かに緑がかった汚い体。ゴブリンです。体の汚れが純白の花嫁衣裳に擦れて黒さが移ります。
なんで街中にゴブリンが。いえ、今は考えてる場合ではないです。
背中に背負った弓を手に取り、矢をつがえて狙います。花嫁さんはゴブリンを振り払おうと体を動かしていて、万が一にでも彼女に当てるわけにはいきません。
あまり時間はかけず、けれどよく狙い、放つ。
わたしの矢は正確にゴブリンの額を貫き、殺しました。
「あのゴブリン、どこから紛れ込んだんでしょうか」
「わからない。けど一体だけとは限らない」
花嫁さんの方にふたりで駆け寄りながら話します。周囲は騒然としていて、誰かが兵隊さんを呼びに行きました。治安維持も兵隊さんの役目ですものね。
ユーリくんはといえば、死んだゴブリンに鼻を近づけています。その強烈な臭いに微かに顔をしかめながら、今度は地面の臭いを嗅ぎました。
基本が狼だから、鼻が利くんですよね。そのままゴブリンの足跡を辿ることもできます。
彼は教会の裏手へ回り込みました。
結婚式に参列していた何人かが、それについていきます。身なりで、わたしたちのことは冒険者とわかるでしょう。
弓の腕を見て、兵隊さんが来るまでの対処を任せてもいいと思ったのでしょう。
「あそこ」
ユーリくんが小さく言いながら、教会の裏にある扉を指差しました。裏口ですね。
参列者のひとりが、緊張しながら扉を開けました。
ゴブリンが二体、隠れていました。
たった二体なら、大人が複数人いればなんとかなります。
参列者の皆さんが、せっかくの結婚式をめちゃくちゃにされた恨みをゴブリンにぶつけました。ゴブリンの断末魔の悲鳴が聞こえます。仕方ないですね、この街にゴブリンの居場所はありません。
「ユーリくん、他にもゴブリンはいますか?」
「わからない」
そうですか。
ゴブリンが教会の裏手に隠れる前に、どこから来たのかもユーリくんは辿れないようです。
昨夜の雨のせいですね。
やがて兵隊さんたちが来て、ゴブリンの死体を確認して、どこから入り込んだのかの調査が行われました。
結果はすぐにわかって、街中に広まりました。みんなこの話しかしないので、わたしたちの耳にも入ってきます。
街を囲む柵の一部に穴が開いていたそうです。立てられてから長い年月が経って脆くなった柵を、ゴブリンが壊してしまったのでしょう。
位置は、わたしたちが昨日くぐった門の近くです。
つまり。
「わたし、ゴブリンが入り込む音を聞きました」
「?」
宿屋の食堂で夕飯を食べながら、ユーリくんに伝えます。
門を潜る前に、物音を聞いたことです。あれがゴブリンの足音だったのかも。
「わたしがもっと気をつけていれば。兵隊さんたちに伝えていれば。今日のことは起こらなかったのかな、って」
人生最高の日を迎えるはずだった花嫁さんが襲われることもなかったはずです。
「本当なら、兵士が警戒するべきこと。フィアナじゃない。気にしないで」
「はい……」
それはそうなのですけれど。
穴の補修はすぐに行われましたけれど、街の中にまだゴブリンが潜伏している可能性もあります。兵隊さんたちが警戒態勢で見回りをしています。人々は怯えています。
わたしが止められたかもしれない事態なんです。
ユーリくんは気にする様子もなく、お椀の中のスープを飲み干しました。いつも無表情な顔が、お椀で隠れて見えません。
その夜も宿屋に泊まりました。けど、わたしは寝られませんでした。
部屋の窓から外を見ます。火を灯した松明を持った二人組の兵隊さんが通りを歩いていました。
どことなく、緊張した雰囲気です。緊張しすぎて疲れているのかもしれません。
こんな状況でゴブリンに襲われたら、怪我しちゃうかも。
よし。わたしも出ましょう。これでも弓の腕に覚えはあるのです。
ユーリくんを起こさないように静かに部屋を出て、とりあえず兵隊さんたちについていきます。
見つかったら帰れと怒られてしまいそうなので、きづかれないようそっとです。
宿屋からどれくらい離れたでしょうか。前を歩く兵隊さんたちも、気の緩みを感じさせる散漫な動きをし始めている気がします。通りの角を曲がる際も、死角になっている場所への警戒を怠っています。
そこにゴブリンが襲いかかりました。しかも大勢です。全部で十人ほどいるでしょうか。
不意打ちを食らった彼らは一瞬で押し倒されました。まずいです。助けないと!
すぐに弓を引いて、ゴブリンの一体を射抜きます。
奴らがこちらに気づきました。そして複数体がこっちに近づいてきました。
あ。これはまずいかもしれません。
これまでの旅でも、これくらいのゴブリンを相手にしたことはありますよ。けど、他の仲間と一緒でした。
わたしひとりで、この数のゴブリンを相手にしたことはありません。街に入り込んだゴブリンが想像よりもずっと多かった。それが誤算でした。
こちらに接近してくるゴブリンの額を射抜き、さらに矢をつがえて別の一体を殺しながら、数歩後ずさりしました。急接近してくるゴブリンには意味は薄かったですけど。
飛びかかってくるゴブリンの一体が空中にいるところで矢を放って殺しましたが、さらに襲ってくる一体を迎撃するのは無理そうです。
まずい。やられる。その瞬間に頭に浮かんだのは、世界で一番好きな男の子の姿で。
「ガウ!」
直後に、その子の声が本当に聞こえてきました。唸るような鳴き声でした。
飛びかかってくるゴブリンを、太くて白くてけむくじゃらの前足が掴んで、はたき落とすように地面に叩きつけ、石畳の染みに変えてしまいます。
狼の姿のユーリくんはわたしの前に出ると、月が浮かぶ空を見上げて。
「オオオオォォォォォォ!」
雄叫びを上げました。
それは、敵の注意をこちらに向けるため。
あるいは、今から死ぬ相手に自分の姿を目に焼き付けさせるための行為。
兵隊さんたちに群がっているゴブリンを、白い狼があっという間に蹴散らしていきます。前足のひと振りですっとばされて、建物の外壁にぶつかったゴブリンが体中の骨を折って死にました。大きな狼に踏まれたゴブリンは体が潰れました。狼に体を噛み砕かれて死んだゴブリンもいました。
あっという間に、ゴブリンは全滅です。
それからユーリくんは、こちらに向き直りました。
白い狼が、裸の少年へと戻っていきます。白い肌には所々にゴブリンの返り血がついていて、けれど少年の美しさを損なうことはありませんでした。
「あ、えっと……ユーリくん」
「フィアナ、大丈夫?」
「ひゃい! 大丈夫です! ……あの、どうしてここに?」
「フィアナが起きるの、見てた」
「そ、そうですか」
詳しくは話してくれませんでした。でもたぶん、ついてきてたのでしょう。
わたしがゴブリンに遭遇しなかったら、何も言わずに宿屋に戻っていたのだと思います。
「ごめんなさい、ユーリくん。勝手に行ったりして」
「ううん。フィアナは、優しい子だから」
「あ……」
そっと、わたしの体を抱きしめてくれました。
口数は多くないですが、気持ちは伝わってきます。服を着ていないユーリくんの心臓の鼓動が感じられました。
ドキドキしているのは、わたしが危ない目に遭ったからでしょうか。
顔には出さなくても、心配してくれてるんですね。
「ありがとうございます、ユーリくん」
「うん」
短く返事をした彼は、それから。
「くしゅんっ」
くしゃみをしました。
そうですよね。この季節の夜、裸は寒いですよね。
「宿屋に戻りましょうか。ユーリくん、獣の姿になってください」
その方が温かいので。
彼は頷き、両手を地面につけました。
体が膨らんでいき、白い体毛が全身を覆い、頭の上から耳が生えます。
わたしを助けた大きな狼が、再び姿を現しました。
巨大な狼になった彼がのしのし歩き、わたしはその背中に乗ります。
人間三人が乗れる大きさの背中。今はそこにわたしひとり。
座っている姿勢から、うつ伏せに寝転ぶようにして抱きつくように体勢を変えました。
頬をふわふわの白い毛がくすぐります。心地よい感触でした。
こっちの姿のユーリくんも、格好いいですね。大きくて頼れるし、温かい。
「ユーリくん。好きです」
「ガウ」
「ええ。ありがとうございます」
狼の時のユーリくんは、言葉を話せません。だからなんだって言うんですか。
わたしは無表情で口数も少ない彼と、いつも話してるんです。狼の時でも、何を言ってるかくらいわかるんです。
わたしには、わかるんです。