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祝福

 私はこの家に奉公するドールである。この家には老婆が一人暮らしで、城下町の外れの大きな屋敷を持て余している。生身の人間のメイドを雇うには経済力が乏しいために、メイドドールの型落ち――私を身請けして、私は娘同然の扱いを受けて暮らしている。


「マリア、お庭のお掃除はもういいから、婆さんにお茶を淹れてくれるかい」


「はい、おばあさま」


 私は本来ならこの老婆を「ご主人様」と呼ぶのが当たり前なのだが、彼女はそんな堅苦しい呼び方はやめてくれと、頑なに「おばあさま」と呼ばせた。私にマリアという名前さえ与えて。


 この国には永遠の雨の呪いがかかっている。庭掃除は敷石に生えた苔をブラシで落とすくらいのことしかできない。東にある花の国では、庶民の庭に草木が生えているという。信じられないことだ。私は草木など作られてこのかた見たことがない。目に入る緑は、宝玉や布地、苔ばかりだ。花の国では庭掃除といえば落ち葉を掃き集めたり、花の手入れをすることをさすのだという。いつか花の国へ行くことがあるのなら、そういう仕事をしてみたい。


 冷涼で湿潤な気候。この国のメイドたちは屋敷中のカビとり湿気とりに追われる。湿気とりはどこぞの国から輸入されてくる“珪藻土”というものを重宝している。実際この屋敷の壁もすべて珪藻土で塗られている。カビが生えたり吸湿効果が低くなると、やすりをかけて復活させる。カーテンやカーペットは洗いやすいように小さく薄くなっていった。富豪の家ではいまでも豪奢な絨毯を敷いているらしい。十数人も使用人がいるのでは仕事が追いつくだろうが、乾かすのに骨が折れそうだ。


「マリア、このお茶は蜂蜜を入れたのかい」


「ええ、おばあさま。花の国から入ってきたものです。お味はいかがでしょうか」


「数十年ぶりに味わったよ……いつ死んでも悪くないね」


「そんなつもりではありませんでした……すみません」


「謝らないでいい、老いた人間はこういうことを言うんだよ」


 おばあさまは満足そうにため息をついた。


 近頃のおばあさまはすぐに死をほのめかす。私たちには老いがないために年を重ねた人間の考えることはわからない。彼女はそれを寂しがり、同時に安心をしていた。マリアにはわからなくていいことだと、口癖のように呟く。……ほんとうにそれでいいのだろうか。一緒に暮らして、愛してもらって、けれども理解しきれないままで……。


「婆さんのところへはいつ天使のお迎えが来るんだろうねぇ……」


 おばあさまはまだ背筋も伸びているし、頭もしっかりしているから、容易には天使が迎えに来ないだろうと私は考える。なにしろ、いま彼女に置いていかれたら、私はどうするべきなのかがわからない。そんな日は来ないでほしいとすら考えている自分がいる。……何故?




 そんなある朝、台所でおばあさまの食事を用意していると、寝室から派手な音がした。なにかと物騒な国なので、何者かの攻撃かと、プログラミングされている戦闘時のマニュアルを起動させながら、大急ぎで寝室に向かった。幸い、窓ガラスが割れていたり、誰かが侵入してきた形跡はなかったが、おばあさまがベッドから落ちた様子で、床に転がっていた。


 私は想定外の事故に処理速度が落ちて、五秒ほどフリーズした後、おばあさまに駆け寄った。


「おばあさま……転ばれたのですか?」


「……ああ、マリア……サイドテーブルからコップを取ろうとして……ベッドから落ちてしまったんだよ……いたた……」


 なるほど、サイドテーブルのグラスは横になっており、水が床にこぼれていた。おばあさまは脚をしきりにさすっており、食事どころではなかった。


 私は彼女をベッドに横たわらせ、寝室を片付けると、近所の医者を呼ぶために電話をかけた。


「もしもし、ドクターはご在宅ですか? 往診をお願いしたいのですが」


「症状はいかがですか? 急を要すると判断すれば直ちにドクターが向かいます」


「ご主人様の脚が痛むようなのです。折れていらっしゃるかもしれません、たいへん痛がっておいでです。なるべく早めにいらしていただきたいです」


「わかりました。ご住所は?」


「O街の6番通り、ミセスビリジアのお屋敷です」


「承知しました。一時間ほどで向かいます」


「お願いします」



 受話器を置いて、私は自分が主人を喪うことをとても怖れていることに気が付いた。それは仕事を失う不安かもしれないし、かつて主人を亡くしたときの記憶のリフレインかもしれなかった。……脚の骨を折って、そのまま衰弱して亡くなってしまう老人の話は珍しくない。このままおばあさまがいなくなってしまったら、いまの温かい暮らしは失われる。それへの恐怖かもしれない。


 私はそわそわと医者が来るのを待っていた。おばあさまは痛がるのに疲れて、口を噤んでぐったりとしていた。こんなに弱弱しい彼女を見たのは初めてだ。なおのこと不安があおられる。



 はたして、医者はきっかり一時間後に屋敷を訪れた。


「お待ちしておりました」


「やあ、ミセスビリジアのご様子はいかがかな?」


「ぐったりしておいでです」


「……人形といえど、やはり主人が弱ると不安かね」


「……はい、不安なようです」


「なに、心配はいらんよ。寝室まで案内しておくれ」


「はい」


 おばあさまは、医者の前では気丈に振る舞った。他人には弱味を見せたくない気質があるのは知っていたが、彼女にとって私は“他人”ではないという事実に、頭の中のなにかが安堵しているのを感じた。


 医者の見立てでは、大腿骨が折れているそうであった。予後は不良であるともいわれた。かなり老齢、八十歳近くの老婆の大腿骨が折れて、再び歩けるようになることは現実的に不可能である、と。


排泄や入浴は、もちろん自力ではできなくなった。車椅子を用意することにした。このまま寝室で弱っていく彼女は、想像するだけであまりにも哀れだった。


「マリアには、汚い仕事はさせたくなかったのだけどね……」


 いつか彼女はそう呟いた。その口調は、私への申し訳なさというよりは、彼女の自尊心が傷つけられたことを嘆いているように聞こえた。私は彼女にとって、弱味を見せることのできる“家族”ではあるが、人間の家族のなかでも、排泄や入浴の介助などはされたくないらしいことを初めて知った。



 私自身は、作られてから三十年ほどが経つ、アンティークに片足を突っ込んでいる型落ちドールだ。それだけ人間の近くに生活してきて、人間の生態をよく知っているつもりだった。だが、考えると、主人を老衰で亡くしたことはなかった。彼らはたいてい事故か事件か、物騒なことで死んでいった。故に、老いた人間のことに関しては、無知と言っても差し支えなかったことに今更気が付いた。私たちドールには、人間を理解するなどという気負いは、傲慢なのかもしれない。決して飛び越えられない溝……。それを飛び越えることは、即ち我々の破壊を意味している。無翼の天使に壊されることは、なによりの恐怖なのだ。



「マリア、……婆さんは食事を済ませたんだろうか」


 彼女はだんだんと記憶が混濁していった。一時間前に摂った昼食でさえ、覚えていられなくなった。……このまま私のことも忘れていくのだろうか。それは……それは、人間でいうところのなんという言葉が相応しいのか。足元に穴が開いたような気分がした。


 私は徐々にいろいろのことを忘れていく彼女の脳に対抗するように、様々な場所へつれていった。王宮の見事な噴水が見える公園、華やかなドールがショーウインドウにずらりと並ぶ人形街の大通り、ネオンの看板が毒々しい人形歌劇団の上演舞台。彼女はそのすべてに少女のように喜んで、ぽつりぽつりとかつての伴侶との思い出を語った。このまま記憶が明瞭になって、気力も蘇りはしないかと、かすかに期待していたが、医者の見立てどおりに彼女は弱っていった。




 十数回めの定期往診の昼、私は医者を呼び止めた。


「……先生、このままご主人様は亡くなってしまうのでしょうか」


「……それはなんとも言えないのだよ。知っての通り、この国は人形以外の文化の発展が遅い。医療も例に漏れずだ。わたしの持てる技術では、これ以上良くすることは不可能だと思うが、悪くする気もない。それには、マリア、君のミセスビリジアへの愛情も必要なのだ」


「愛情……お言葉ですが、私は人形であり、人間と同等の感情を所持できません」


「いや、君はミセスビリジアを愛している。そうでなくて、何故に彼女がまだわたしの前で気丈に振る舞えるのかね」


 私は考え込んでしまった。医者の言葉を鵜呑みにしては、そう遠くない未来に天使が私を壊しに来るだろう。だが医者の言葉を否定しては、彼女を傷つける気がした。私は人間への愛情を持っているのか……?


「やあ、すまない。そんなに考え込ませるつもりはなかったのだ。いまのはなんというか、言葉の綾というものだな……。さあ、わたしはこれで失礼するが、次回の往診時に欲しいものはあるかね」


「欲しいもの……輸入品でも構いませんか?」


「ああ、構わんが?」


「では、お花を。本物のお花を持ってきてください。ご主人様の活力になればと存じます」


「花か……よかろう。珍しいものだから少々値が張るが、まけておこうか。楽しみにしていたまえ。君の分も用意しておこう。ではな」


 医者は屋敷の前につけた乗り合いの車に乗って、次の往診に向かった。


 次回の往診のときには、彼女はもう逝ってしまうだろうと、そんな予感があった。食欲もすっかりなくなり、疲れやすくなった。一日の半分以上を眠って過ごしている彼女は、頬がこけ、死相が濃くなってきた。


ほんとうは医者に蜂蜜を頼もうかと思った。蜂蜜を入れたお茶を喜んでくれたのが印象深かった。だがいまは、なにも口にしたくないらしい。せめて、この呪われた国にはない何かで見送ってあげたいと考えた。私自身も、本物の花というものを見てみたかった。




 寝室で眠り続ける彼女の頬に触れ、まだ温かいと皮膚のセンサーが反応すると、私は安堵した。もう私の中に感情が芽生えているのには気が付いていた。諦めるようにそれを認めた。だが、まだ壊されたくない。せめて最期まで彼女の側にいたい。いや、彼女を独りにするべきではない。一緒に死にたい。そう思っていた。


 そんなある日の夕方。私は洗濯物にアイロンをかけながら、いつからか習慣になっていた、おばあさまを安心させるための歌を歌っていた。寝室に四六時中いるわけにはいかないが、彼女が目覚めて、私がいないと不安になるだろうと勝手に判断して、かつて彼女が好きだと言った流行歌を歌っていた。


 ふと目を上げて窓の外を見ると、そこに誰かが立っていた。アイロンを横に置いて、窓に近付いた。雨がしっとりと世界を濡らす夕闇の中、その人は淡く発光していた。こちらをしっかりと見据え、しかし顔つきは穏やかで、直感的に天使だとわかった。私は庭に出られるドアを開けて、こちらへ、と天使を招いた。――天使が来たら、まだ来ないでと拒むつもりでいたのに。


「……そなたは、俺が来た理由をもうわかっていると見える」


「はい。私を壊しにいらしたのでしょう。無翼の天使さま」


 その天使は、翼がなかった。亜麻色の、顎くらいまでの短い髪を雨に濡らして、天使にしか許されない白地に金の装飾の長衣を着ていた。


「通例ならば、俺はそなたを壊しただろう。だが、そなたは神に許された」


「……許されることなどあるのでしょうか」


「神は慈悲深い御方だ。……そなたのその清い心に免じて、破壊はしないことになった」


 天使は美しく微笑んだ。思わず私も息をついた。


「だが、心の生えたドールを、放置することはできない。わかるか?」


「はい」


「そこで、俺は神に進言し、その案が採用された」


 天使は一呼吸置いて厳かに告げた。


「そなたは天使になるのだよ、マリア」


 その瞬間、私の背中に激痛が走った。作られてから初めて感じた物理的な痛みだ。そして、シリコンの皮膚を突き破って、翼がずるりと背中から生えた。私は想像していたよりもずっとグロテスクな羽化に座り込んだまま絶句した。


「これが、その痛みが、神の課した罰だ。だがよく聞け、そなたはこの瞬間天使となり、人々に祝福を与える特権を得た。それが神からの褒美だ、いいな?」


 私はこくりと頷いて、天使の手を借りて立ち上がった。翼は重く、慣れるには時間がかかりそうだった。しかし、破壊されたくないという願いは叶った。そして、おばあさま、ミセスビリジアを天に誘う者となった。こんなに素晴らしいことがあってよいのか……。私は涙を流していた。


 天使から注意事項などを聞いているうちに翼はすっかり乾いた。ばさばさと動かしてみると、乾いてみれば存外軽いことに気付く。しかし外に出るなら雨に濡れて重かろうな……と憂う気持ちもあった。


「いちばん最初のお前の仕事は、この屋敷の女主人への祝福、つまり死を与えることだ。やり方は本能が知っている。……辛いかもしれないが、終わったら教会へ来い。神から労いの言葉と天使服の支給がある。……じゃあな、また会おう」


 天使は私の肩をぽんと叩いて外へ出た。次の瞬間にはもういなくなっていた。




 私はミセスビリジアの寝室に入った。


「……マリア?」


 彼女は珍しく目を覚ましていた。私のことなどすぐに忘れてしまうのだろうと思っていたのに、結局最期まで覚えていてくれた。そのことを嬉しいと思えるのが嬉しかった。


「おばあさま、よくお聞きになってください……私は貴女のおかげで天使になることを許されました……」


 私は涙に声を詰まらせ、うまく話せなかった。こんなことは初めてだ。こんなに悲しくて、嬉しくて、愛しくて、寂しくて、喉がつまって痛くて、顔が熱くて、人間たちがこんな思いで泣いているなどと、いままで知りもしなかった。知ろうとも思わなかった……。


「ああ、マリア……婆さんが待っていたのは、お前だったんだねえ」


 彼女はベッド横に跪いた私の髪を撫で、深呼吸するように促した。


「おばあさま、おばあさま逝かないで……私を独りにしないで、寂しい、寂しいよ……」


 私は子供のように慟哭した。ミセスビリジアはそんな私が落ち着くのを待つように髪を撫でる手を止めなかった。人形が天使になることも、人形が泣き叫ぶのも、人間には驚異の事実であるはずなのに、彼女は落ち着いて、ただ私を泣かせてくれた。


「……マリア。もう気は済んだかい? 今晩は気分がいいんだ。連れて行っておくれだね?」


「はい……はい……」


 涙を拭いて、私はゆっくりとミセスビリジアの唇に接吻した。彼女が大きく息を吐いて、安らかな顔になる瞬間を、私は見つめた。




 翌日、医者の往診があった。誰もいない屋敷を不審がった医者だが、寝室で老婆が冷たくなっているのを確認すると、帽子をとり、花を手向けた。医者の手配によって遺体が霊柩車に乗せられると、花は無人の屋敷に残された。


 マリアは、無人のミセスビリジア邸に降り立つと、生まれて初めてみる大輪のポインセチアに息を呑んだ。その深紅の花は、確かにあの老婆の生き様をあらわしているようで、新たな有翼天使の瞳には、真珠のような涙があふれたのだった。


 十二月下旬、ミセスビリジアは七十九年の生涯を、愛した者による祝福で閉じた。


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