天界にて(その2)
ポロポロポロポロ……
「えっ?」
舞香の瞳から大粒の涙が溢れ落ち、それを見た美心は頭がさらに混乱する。
(中御門が泣いている? 何故だ? ま、まさか……輝彰のことが好きだったのか? そうか、そうに違いない! なら、まだ手はある!)
「な、中御か……」
「うわぁぁぁぁん! どうして! どうして他の者はイかせるのに磨呂はイかせてくれないですかぁぁぁぁ!」
その言葉の意味は美心にとって全く理解が出来なかった。
しかし、ふと竹林での舞香の言葉を思い出し泣き喚く舞香に声をかける。
「中御門様、言葉の意味が理解できないのですが……」
「ぐすっぐすっ……磨呂のことを覚えていないですかぁ?」
「私が編入した頃からの顔見知りですし、覚えていないわけないじゃないですか」
舞香は何かに気付いたようで泣くのを止め美心の目を見て語り始める。
「ぐすっ……そうでしたね。貴方とやっと会えたのは6歳の頃。貴方にはまだ話していなかったですぅ」
14年前……天界。
タントに轢かれ亡くなった初老の男性は女神から次の新たな生命を与えられようとしていた。
「さ、後の死者が詰まって来ていますし始めちゃいましょうねぇ。貴方は大きな罪を犯していませんが、社会にとって良い貢献もしていませんねぇ。なのでプラマイ0ってことなんで、極々普通の家で極々普通の人間として新たな人生を送っちゃってくださぁい」
「ふ……ふざけるなぁぁぁ! 俺は異世界に行くんだぁぁぁ!」
ドゴフッ!
「ぶ、ぶへぇぇぇぇ!」
ドッドッドッ
ドサァ
女神にとって、その行為は初体験だった。
痛みというものを味わうことが……他の者に手を挙げられるということが……すべて刺激的な体験であった。
刺激も何も無い天界で味わうことのない体験が女神の記憶に深く刻まれた瞬間であった。
「異世界だ……異世界行きの穴が絶対どこかにあるはずだ!」
(イタタタ……何なんです? 今のは?)
男の方を見る女神。
いくつもある下界への穴の前に立ち尽くす初老の男性。
そして、一つ黒く見える穴に気付いた男性は結界に触れる。
「あっ、その穴は駄目なのですぅ!」
バリィン!
制止の声に耳を傾けず下界の穴に飛び込む男性をただ見ているしかなかった女神はゆっくりと起き上がり椅子に座る。
「あいったたた……行っちゃったですぅ。まさか神に手を挙げるだけでなく、あのような暴挙に出る人間が居るとは……怖い人間も居るものですねぇ。でも、捨て去りし時代の穴だったら何の害も無いですぅぇ。気を取り直してお仕事に戻るですよぉ」
ヒリヒリする頬を擦りながら次々とやってくる死者に次の命を授ける女神。
だが、時間は残酷である。
1年後……10年後……100年後……天界と下界の時間の流れは異なる。
時間と共に退屈な作業は苦痛となり、いつしか女神はあの刺激的な体験が頻繁に脳裏をよぎるようになっていった。
(はぅぅぅ、あの刺激もっと味わいたいですぅ。ここに来る人間達はどいつもこいつも磨呂が願い出ても殴ってくれない……どうしたら良いのですか?)
さらに200年……300年……女神はついに仕事が手につかなくなるほど重症になっていた。
「フレイヤ、いつまでそんなところで寝ておる。早く死者へ次の生を与えなさい。後が詰まっておる。このままでは天界が死者で溢れかえってしまうぞ」
アイアンメイデンの中から出てきたフレイヤは兄であるフレイに必死に頼み込む。
「お兄様ぁ、磨呂を……磨呂を思い切り殴って欲しいですぅ! 早く早く早く早きゅぅぅぅぅ!」
目がハートになり鼻息を荒くし迫ってくるフレイヤにフレイはたじろぎ距離を取る。
「ああん! どうして逃げるですかぁ、フレイお兄様」
兄であるフレイは悩んだ。
妹がおかしくなってしまった。
その原因が何かは知らないが、下界の拷問器具を参考に密かに作っては自分で試し痛みを感じ快楽を得ていた。
「むむ? フレイヤ……お前……背中の翼はどうした?」
「千切ったら気持ち良いかなと思いむしり取ったですぅ。まだヒリヒリしてて……その痛みが……はぅぅぅ」
(こ、こいつ……駄目だ!)
満面の笑みで答える女神にフレイは絶望する。
神の特徴である翼を自ら切り落とす者を神とは言えない。
例え、それが妹であってもだ。
(妹ということで今までは温情をかけてきたが……)
「フレイヤ、お前には人間として下界へ降りてもらう。これは翼を切り落とした罰だ」
ピクッ
三角木馬に跨り悶えるフレイヤの耳に入った言葉は罰とう単語のみ。
(罰? 罰……罰……体罰!? お兄様が磨呂に痛みを与えてくれる!?)
フレイヤはフレイの近くへ急いで歩み寄る。
「人間として一生を全うし死後にここへ戻ってきたと……」
「お兄様、早く早く早くぅぅぅ! 磨呂を思い切り叩きつけてくださぁぁぁい! 鞭ならあそこに……」
フレイの手を引っ張り鞭の置いてある場所へ走り出すフレイヤ。
「ええい! フレイヤ……はな……離せぇぇぇ!」
フレイは心の奥底から悲しみが溢れ出てくる。
あの神々しかった女神が堕落した姿がそこにあるためである。
堕女神フレイヤに心底呆れ果てたフレイは彼女の手を振り払い、神術で下界の入り口である穴へフレイヤを吹き飛ばす。
「はぁはぁはぁ……妹よ。もう一度言う。人間として生を全うした後は再び女神フレイヤとして……」
「人……間? 磨呂は下界へ行くのですか?」
フレイヤは兄の言葉に驚きを隠せなかった。
女神が人間として生きる。
堕落した神のみに与えられる罰として今まで存在してきたためだ。
それは神としては屈辱に近い行為であった。
その屈辱を兄が妹に与える……それがフレイヤには……。
「そうだ! その腐った根性を……ふぁっ!?」
「い、い、い、良い! 最高に良いですぅぅぅ!」
それがフレイヤには最高のご褒美だった!
今まで天界から見てきたフレイヤにとって痛みがそこら中に溢れる下界はまさに天界以上の天国!
迷わずに飛び込んだ下界の入り口は美心として転生し間もない愛しの御方が生きている黒い穴。
「今からなら……今からなら同世代として死ぬまで殴ってくださる! 今すぐ向かいます愛しの君……いいえ、痛しの君ぃぃぃ!」
天界ではすでに600年以上経っているが、その穴の先は半年しか経っていない。
嘉永3年7月……美心がこの世に誕生し、その6ヶ月後。
嘉永4年1月……中御門舞香としてフレイヤは美心と同じ世界に生を受けたのだった。
そして、現在……。
美心は驚きを隠せなかった。
「め……女神だってのかい? 中御門様が?」
「そうですぅ! 痛しの君、ずっと……ずっと待ちわびたですぅ!」
因みに舞香が美心に話した内容は天界で話した女神が自分であることと後を追ってこの世界へやって来たことだけである。
そのため……。
(女神が俺を追ってきた!? 何故だ? い、いや……そうだ! かすかに覚えている。あの時、俺は天界で……女神を……女神様を……殴ってしまった!!? ま、まさか俺を地獄に連れて行くために??? いや、だが……それならば小1のころに邂逅した瞬間に俺を天界に連れ戻し地獄送りに出来たはずだ。それが今の今まで俺に嫌がらせばかり……はっ! ま、まさか……俺に生地獄を見させてから連れていくつもりか!? い、嫌だ……俺は勇者として生を受けた(自称)はずなのに。魔王をぶち殺すことも出来ずに俺は中御門に殺されるのか? い、いや。まだチャンスはある。謝罪だ! 中御門の足を舐めてでも俺は生き勇者になるんだぁぁぁ!)
相変わらず妄想が飛躍しすぎる美心であった。




