145.最後の一人
◇◇◇◇
「へぇ。思いがけない展開だけど……これはこれで面白いかも」
一冊の本を片手にニヤつく顔を隠しもせず、優雅にパタリと本を閉じる。
途中までしか書かれていないその本は、続きが空白のまま。これはこれで良いのだ。“物語”が進行すれば、おのずと文字は増えていく。
“そのこと”に気がついたのは、二年ほど前だった。
彼が生まれたときから側にあったその本はまだ何も書かれておらず、真っ白だった。二年前、その本に数頁の文字が現れたのを機に“何か”が彼の頭の中をよぎった。
彼はたった数頁の本を読み、すべてを理解した。
組まれた長い足を解くと、静かに立ち上がり、その本をワードローブの奥に隠された金庫へと丁寧にしまう。手のひらをあて、カチャリと鍵のかかる音が聞こえると、今まで腰掛けていたソファに戻る。
彼はふぅと息を吐き出し、天井を見上げた。
(僕が“修正”出来るのは“彼女”だけだからなぁ)
――これからどうしようか、と思案する。
とある侯爵家の一室。
彼は思い出していた。――前の、記憶を。
不思議な記憶だ。
薄桃色の花びらが舞う川沿いの遊歩道。自転車専用レーンを走る。
(入学初日から遅刻なんて……目立つじゃないか)
これからは自分を知らない人ばかりのところで、ひっそりと生きていこうと思っていたのに。
必死にペダルを漕ぎ、前へ前へと進む。すると、突然、前方を何かが通過した。
『あっ……!』
それを避けようと切ったハンドルは思いのほか、大きく傾き、前輪が土手に引きずられる。
それからは、あっという間だった。
気がついて、そっと目を開けると目の前には水に濡れた草と泥。自分の上半身はその上に投げ出されているのだろう。視界に入る両手は枯れ草を握りしめており、下半身には感覚がない。
『助けて』
不思議なものだ。今まで幾度となく“死にたい”と思ってきたのに、いざ、『死』を目の前にすると『生』にしがみつきたくなるのだろうか。
『誰か、助けて』
今頃になって、身体中が痛みだす。草木でついたであろうすり傷や切り傷、どこかに打ちつけたのか腕や肩もズキズキする。必死に枯れた草を握りしめる手も血だらけだ。
(『生』を全うした草にしがみつき、『死』に抗うなど……)
視界がボヤけた。
――ダメだ。もう力が入らない。腕も手も限界だ。
『助けて』
目を閉じ、手を離す。と――その手は温かさに包まれた。
『大丈夫ですか?!』
ぐいと引っ張られる。
春先のまだ冷たい川の水から少し引き上げられた腰が感覚を取り戻す。
うっすらと開けた目に制服が映る。
(同じ……学校……か)
――とんだ入学式になってしまったな、お互いに。後からそんな笑い話が二人で出来るだろうか。
押し上げられたが、すでに身体に力は入らない。これ以上、身動きはとれない。
『わっ……』
視界に映していた制服が消えた。
今までは聞こえなかった胸の鼓動が、バクバクと大きな音をたて始めた。
――何だ、まだ動いていたんじゃないか。それより、あの人は……。
彼女が浮かび上がってくることはなかった。
――間違いなく、僕のせいだ。
いつもつまらなかった。……苦しかった。誰かと関わることが。家族でも友人でも。
どこにいっても、誰といても、自分自身を見てもらえない日常。――生きていることが。
全てを捨てて、投げ出して、ここではないどこかに逃げ出したかった。
僕は……何のために生きている?
僕は……どうして、ここにいる?
僕は、このまま生きていていい?
たった一度。
たった一度でいいから、自分自身だけを見て欲しかった。
きっと、あの時。
僕は僕自身を見てもらえたのかもしれない。
温かい手に包まれ、助けられたあの時に。
代わりに彼女が死んだ。
僕は――ここで死ぬわけにはいかない。
『助けて』
精一杯、叫んだけれど……誰にも届かなかった。鼓動はそのまま止まってしまった。それでも、心は彼女が救ってくれた。
『もう一度、生き直したい』
そう、思えるほどに。
『じゃあ、この世界で生き直してみる?』
僕の魂は時を司る神クロノスに出会った。
63. 二人の想い