THE END
私の住む世界が大きく揺らいだのは十四歳の春。
その前の年に母を流行病で亡くしたのがはじまりであったのだと思う。
母は厳しい人だった。私は一人娘で、将来は婿養子を取りこの伯爵家を未来につないでいかなければならない。そのために領地運営などについても知っておかなければならない。六歳になると家庭教師をつけられた。
私には、その意図するところがあまり理解できてはいなかった。
貴族社会は男性社会。領地運営は当然男性の仕事。それなのに、何故私まで勉強をする必要があるのか。
尋ねると母は困ったような笑みを浮かべた。
私がまだ幼く夢を見ていたからだろう。両親を好きだったから言えなかったのだ。
でも、その答えは母の喪が明けてほどなく知ることになる。
父が、愛人とその娘・エミリアを屋敷に迎え入れた。
愛人は別の貴族に言い寄られていた。愛人だけではなくエミリアを見る視線に下卑た色を見て、愛人は震えあがり父に救いを求めた。父にしても自分の娘が自分と年の変わらぬ男に好き勝手されるなど耐えがたい。結果、この屋敷に住まわせることにしたと。
話を聞いて、目の前が真っ暗になった。
私の目に映る両親は仲が良かった。幸せな夫婦だった。そう信じていた。なのに、父には愛人がいて、私と一つしか違わない妹がいる。
母はこのことを知っていたのだろうか?
そして、思い出されるのは過剰な私への教育だ。父は婿養子であり、伯爵家の正統な血筋は母にある。けれど、領地経営については男性である父が担っている。私はそうならないよう――将来私が婚姻を結び婿養子を迎え入れた際にいい様にされないため、自らも領地を運営できる手腕を持っていなさいという母の私への愛情と父への反発だったのだ。
母は父を信じてはいなかった。
その通りに、父は母を裏切っていた。
私の見ていた世界は何だったのだろう?
信じていた世界が崩れて、私は母を、そして父も、失った。
いや、違う。仲の良い幸せな家族などそもそも存在していなかったのだと打ちのめされた。
けれど、落ち込んでいる暇は私にはなかった。
きちんとこの家を守らなければ。
「事情はわかりました。そうしなければならない緊急性があることも」
父は頭ごなしに私が反対しなかったことに安堵したように見えた。
私だって「嫌だ、どんな事情があろうと私には関係ない」と突っぱねたい気持ちがないわけではなかった。でも、私の返答次第でエミリアという娘の貞操は奪われ、未来が歪められる可能性を無視はできなかった。どちらを優先するべきかぐらいの理性は私にもある。感情のままに動いてはならないと躾けられてきたことがこんな場面でも私から冷静さを奪わせなかったのは皮肉といえるかもしれない。
「ただ、先のことは考えていらっしゃるのですか? ――わたくしが爵位を継いだあとの話です」
私は父に尋ねた。
父は婿養子となったときこの家の貴族籍に入ったので、もしその愛人を後妻に迎えるとなればこの家の貴族籍に彼女たちの名前が連なることになる。血統を重んじる貴族において、この家の血が一滴も流れていない他人、それも平民を連ねるなどそんなことは許されない。父がそのような強行をするとは思いたくなかったが、確認はしておかなければならない。
「もちろんお前が結婚したら、この家を出ていかせるつもりだ。その頃には状況も落ち着いているだろう。ただ、それまではこちらで生活をさせ、エミリアには学校にも通わせてやりたいと思っている。そこでもしかしたら誰かに見染められるかもしれない。そうなったときは後見人として送り出してもらえるとありがたいが……それはお前の判断にまかせる」
エミリアが貴族の誰かに見染められて嫁ぐとなれば、我が家のコネクションも広がる。悪い提案ではない。
「……そうですか。それは、現実になったときに改めて考えたいと思います」
だが、即答はできなかった。
エミリアの存在を手放しに喜べはしない。
「それで、住む場所はどこにされるおつもりですか。ここで生活するとなれば使用人たちの心構えや仕事の割り振りも変わるでしょう」
「離れを使わせる予定だ。こちらにはなるべく関わらせないようにする」
「……そうですか。それはその方々は納得されていらっしゃるのですか? 半分とはいえ血の繋がったわたくしとの待遇の差を傍で見せられて生活することは、あまりいい気分がするものではないと思います。その辺のことはきちんとお話はされているのですか?」
分を弁えているのか――嫌な言い方だけれど、同じ両親から生まれた兄弟姉妹の中でも跡取りとの待遇の差を面白く思わずに問題が起きるなんてこともある。自分の生活を守るためにも、繊細な部分だからこそ最初から曖昧にしておくわけにはいかない。
「ああ、もちろんだ。もちろんだとも。同じ敷地内で暮らすのだから、まったくとはいかないが、お前に不愉快な思いはさせないよう努める」
父は、たしかにそう約束してくれた。
とはいっても、不愉快な思いをしないわけがなかった。
父は食事こそ私と食べていたが、時間を見つけては二人のところへ顔を出した。一人で読書をしていると離れから楽しそうな笑い声が聞えてくることもあり、そんなとき、どうしようもない惨めさに襲われた。
私は母を失い、父への信頼も失い、家族がなくなったのに、何を楽しそうにしているのか。
そのような思いが溢れてくる。
だが、私のために笑うな、楽しそうにするな、というのも無茶苦茶な要求であるのはわかっていたので、離れから一番遠い部屋へと移動した。それもまた、何故私が? という気持ちが沸き上がったが、離れの位置を変えられない以上は、私が移動するよりなかった。
関わらないよう、目に入らないよう、そんな風にして私は私の生活を守った。
でも、その努力を踏みにじられた。
それは、二人が離れで暮らし始めて半年が経過した頃だ。
「君も、少しはエミリアに歩みよってあげたらどうかな。彼女は君と仲良くできないと悲しんでいたよ」
唐突に、私の婚約者ライルが言った。
ライルは有力な商家の次男で、私たちの婚約は三年前に交わされた。月に一、二度会って交友を深めていたが、いつの間にかライルとエミリアは親しくなっていたらしい。
「エミリアさんに何を言われたのですか? まるで私が冷たくしていると責められているように聞こえるのですけれど」
私は疑問をそのままぶつけた。
「責められたと感じるのは心当たりがあるからではないのかな?」
だけど、ライルは答えではなく更に疑問を返してきた。
「……もう一つお伺いしますが、エミリアさんからわたくしと仲良くできず悲しいとお聞きになったとき、ライル様はわたくしの名誉を守るために彼女を諫めてくださったのですか? その上で、わたくしにもこのような進言をされたということですか?」
ライルはぱちくりと瞬きを繰り返した。
驚いたときの彼の癖だった。それだけで、彼が私を庇ってくれなかったことは明白だった。
「……わたくしは、できる限りの譲歩はしています。母を失い、そのわずか一年後に父に愛人がいて、更には子どもまでいることを知らされ、あまつさえその二人を屋敷に引き取ると言われたのです。大切な母を失い、信じていた父に裏切られていたことを知り、その裏切りの証である母子と暮らすことになったのです。感情的な反発が芽生えるのは想像に難くないと思います。ですが、それはわたくしの事情。わたくしにとっては裏切りの証でも、あの母子には母子の事情があり生活がある。この屋敷に引き取らなければ身の危険があると聞かされ、わたくしは自分の気持ちを呑み込みました。そして、あの母子に対して激しい感情を向けてはならないと思うからこそ、一定の距離をとったのです。ですが、あちらから話しかけられれば普通にお応えしておりました。それはわたくしには思いやりでした。ですが、エミリアさんにとってはそれでは足りないということですね。そして、ライル様もわたくしが親しくするべきだとお考えなのですね。わたくしの事情を慮ってくださっているなら、わたくしに歩みよれなどとは言わないと思うのですが、そうではなかったと、そういうことですね」
「き、君がそんな風に思っているなんて話してはくれなかったじゃないか」
私はその言い分に血の気が引いていく感覚がした。
「話さないからわからない? ……愛人とその子を屋敷に引き取ったという話を聞いて、尚且つ、わたくしがその二人と距離をとっているのを見ていて、そこにあるわたくしの葛藤を汲み取る能力がないということですか。それは申し訳ございませんでした。
ですが、では何故、エミリアさんの話をお聞きになって、エミリアさんに優しくするようにと進言される前に、わたくしの事情も確認してみようと思わなかったのですか?
先程の質問の繰り返しになりますが、ライル様の発言はエミリアさんに冷たいわたくしが悪いと責めているように聞こえました。ですが、冷たい態度をとっているとして、そこに何かしらの事情があるかもしれないと考えることはできると思うのです。
少なからず、わたくしは意味もなく他人に意地悪をするような真似はしない。したことはないと思います。ならば、何かあるのではないか? と考え、エミリアさんのためにわたくしに忠告する前に、事情を聞こうとするのが誠実というものではありませんか?
それとも、ライル様はわたくしが意地悪をする人間と思っていたと、そういうことですか?
わたくしが同じ立場なら、わたくしはライル様にも事情があるのでしょうからと相手を諫めていたでしょう。意味もなくライル様が人に悪辣な態度をとらないと信用しておりましたから。しかし、ライル様はそうではなかったということですか?」
ライルは口籠った。
この人は本当に何も考えていなかったのだろう。エミリアがどのような話をしたのかは不明だが、その話を聞いて可哀想に思い、仲良くしてやれと言いにきた。悲しんでいる人に優しくする。ただ、それだけ。ほんの軽い気持ちだったのかもしれない。
だけれど、言われた私は違う。
婚約者が他の女性と親しくしているのは嫌なものだ。しかも、自分の悪口を言われているなんて不愉快極まりない。そうであるのにその女性の話を堂々としてきて、その女性に優しくしろと告げる。――それだけでも罪深いが、しかも今回の相手はエミリアだ。私が最も関わりたくない相手。二重三重で罪深い。ほんの軽い気持ちで言っていい話ではないと思う。
「君は、いつもそうやって自分だけが正しい、自分ばかりがしてやっていると思っているんだな」
ライルは乾いた声で言った。
「エミリアは、君に嫌われていることを知っている。嫌われている相手の家に暮らすことがどれだけ負担か。少しぐらい優しくしてあげてもいいだろう。それなのに君は、自分はこれだけやっているのだから、これ以上する必要はないと突き放す」
「わたくしが彼女を嫌っているのを知っているというのなら、顔を合わせないようにするべきなのではないのですか?」
ライルは吐き捨てるように「そういうところだよ」と言うと去っていった。
その日の夜、私は父に言って愛人とエミリアを呼んでもらった。
応接室で父と私、愛人とエミリアが対面して座る。
こんな風に四人で顔を合わせるのは初日の挨拶の日以来だ。
私は、昼間にライルから言われたことを告げた。
父と愛人は目を見張り、エミリアはさっと顔色を変えた。
「あなたは! なんてことをしたの!」
意外にも真っ先に声をあげたのは愛人だった。
「お嬢様の婚約者様に、お嬢様への批難を言うなんて、許されることではないでしょう!!」
愛人の怒号ともいえる声は、しんっと私の心に降ってきた。
本当にその通りだと思う。
「わ、わたし、そんなつもりは……」
「じゃあ、どういうつもりだったの?」
「だ、だって」
それからエミリアは泣きながら不満を口にした。
エミリアは来年から学校へ通うことになっていた。私が通うセントルシア学院も受験したが落ちた。セントルシア学院は貴族が優先され、平民の入学は余程の成績でなければ入れない。エミリアは、成績が振るわずに、平民が通う学校に入学が決まった。
我が家の名前を使わせてくれたら入れたのに! ――そう思い苛立ちを感じたという。
ライルに話したのも、非難する気持ちと、親しくなれたら名前を使わせてもらえるかもという下心があったから。
私は話を聞きながら、ひどく冷めた気持ちになった。
この屋敷に迎え入れる際に、分を弁えるようにと父から話をされたはずだが、少しも弁えてはいない。いや、最初は弁えていたのだろうけれど、欲が出たということか。
だから、私は父に言ったのだ。同じ父親を持ちながら待遇の差を見ることはいい気分がするものではないが大丈夫かと。ちっとも大丈夫ではなかった。先見が甘かったと言わざるを得ない。
それにしても……
「あなた、大きな思い違いをしているのではなくて?
ご自身が何故この屋敷で暮らすことになったのかはご存じよね。ここで暮らさなければあなたの貞操の危機だった。親子以上に年の離れた貴族の慰み者になっていた可能性が高いのですよ。それを聞き、あなた方の姿など見たくはありませんが、わたくしが拒否することであなたの未来が閉ざされるのはあまりに酷だと思い、わたくしの感情よりも、あなたの未来を優先させました。
こう申し上げてはなんですが、わたくしはあなた方が憎い。あなた方は、父の不貞、私の母への裏切りの証拠ですもの。それでも、この申し出を断ることは人道に反すると思ったからこそ反対はしませんでした。
たしかに、わたくしはあなたに親切にはしていません。それをあなたは負担だったと思っていた。嫌われている相手の家で暮らすことはしんどいから、もっとわたくしに優しくしてほしいと願った。そして、そうしないわたくしを恨んだ。真っ白な未来を手にし、学校に通うこともできるようになっただけでは満足できず、我が伯爵家の名を使えたらもっと上の学院に通えたと逆恨みをし、わたくしの婚約者を誘惑したのですね。
けれど、ならばあなたはわたくしにどのような気遣いをしてくださったのですか?
いくら会わないようにしても、同じ敷地に暮らしていますから、顔を合わせてしまうこともありました。
わたくしは、母を失って二年にも満ちません。顔を合わせて「今、母と一緒にお菓子を作っているのです」などと無邪気に言ってくるあなたに、憎しみを感じたこともあります。無神経だなとも思いました。でも、それはわたくしの事情ですし、わたくしのために親子で仲良くするなというのはお門違いだと思い呑み込みました。けれど、少しでもわたくしの状況を慮ってくださる気があるのなら、そのような言動は控えたのではないか。わたくしへの思いやりなどは少しもないのだなと感じました。
ねぇ、だからすべてはお互い様だったのではないかしら?
そもそも、わたくしたちは仲良くなどできない間柄です。
それでも、同じ敷地内に暮らす上で、多かれ少なかれこういう不快さを感じるのはある程度覚悟の上でわたくしはあなた方を受け入れたのですから、不快さを誤魔化しながら時が過ぎるのを待つよりないと思いました。
なのに、あなたはそれをすべて壊したのです」
その後の顛末は厳しいものになった。
愛人たちは離れを出ていき、ライルとの婚約も一旦白紙に戻った。
婚約白紙については両家の間でかなり揉めたが、私はライルに大きく失望していたし、ライルも私に嫌悪感を抱いていた。もう一度やり直せるような内容の言い合いではなかった。
身辺が静かになった私は、一人で将来のための勉学に励んでいる。
そして、考える。
自分の感情と、相手の事情が、相反した場合の上手な折り合いの付け方というのはどうしたらいいのだろう? どちらを優先させるのか。私はこの件で、自分の感情よりも相手の事情を優先させたつもりでいたが、結果的に言えば破綻した。憎んでいた相手とうまくいくはずはなかったのだと言われればそれまでだけれど……かといって、あのとき、自分の感情を優先して後悔しなかったかといえばそれはそれで違うようにも感じる。
『君は、自分だけが正しいと思っている』
ライルは言った。
私はそんな風に思ったことはない。と言いたいが、私は相手の事情を考えているのに、相手は私の事情を考えて振舞ってくれているわけではないと感じ、そのことに虚しさを感じた。
それが間違いなのだろうか?
そんなに難しく考えず、もっと軽く受けとめて、受け流せばよかったのだろうか?
それとも、相手も相手なりに私のことを考えてくれていたのだろうか? ――そうであるなら私はそれを感じ取る心がなく、とても傲慢だ。思い改めなければならないだろう。
思い合うとはなんだろう?
きっと、この先も似たような問題は巡ってくるだろう。
そのときは、もっとうまく立ち回りたいと思う。少なくとも、こんな風に相手を切り捨ててしまうような終わりではなく、柔らかな着地点にたどり着きたい。
私はその答えを考え続けている。
読んでくださりありがとうございました。
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