第32章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
その頃、和泉の国の国司に就任した定義お兄ちゃんに招待されて、和泉の国まで旅をしたことがあった。季節はちょうど秋だった。自宅を出発して伏見で船に乗ると、そこからは淀川を下る船の旅である。船上から眺める紅葉の景色が実に美しく、わたしは心を奪われっぱなしだった。
暗くなったので船は高浜という場所に停泊した。ここで夜明けを待つのである。夜が更けてくると、客たちは船の上で眠り始めた。わたしもウトウトしていた。すると暗闇の中からギュッギュッという舵を漕ぐ音が聞こえて来た。
(何だろう?)
客たちは目を醒まし、船の簾を巻きあげて音が聞こえて来る方向を注視した。一艘の船が現れ、何とそこには派手な衣装を身に纏った数人の遊女が乗っていた。遊女たちはこちらへ向けてさかんに秋波を送ってきた。男の客たちは大喜びして、たちまち辺りの空気が活性化した。遊女が乗った船がこちらの船に横づけされると、男の客たちはワイワイ騒ぎながら灯火の光で遊女たちを照らした。単衣の袖を長く垂らした遊女たちは、手に持った扇で顔を隠しながら歌をうたい始めた。実に美しい声だった。その光景を目にしていたら、十三歳の時に足柄山で出会った遊女のお姉さんたちを思い出した。
(あれからもう三十五年以上たったんだなあ・・・つい昨日の事のように思えるのに・・・)
翌日も船の旅は続き、日が傾き始める頃、ようやく住吉の浦を通り過ぎた。辺り一面に霧がたちこめていて、空も、海も、松の梢も、長く伸びる渚も、すべてが白く溶け込んでいた。たとえ名人の描く墨絵であろうとも、この美しさは表現できないだろう、と思わせる程の見事さだった。
和泉の国には初冬まで滞在した。浜辺で貝採りをしたり、昔の巨大な古墳を見学しに行ったりして、楽しい時間を過ごした。定義お兄ちゃんとはたまにケンカもしたし、最近では長谷寺へ最初の物詣に行った時に「行く時期が悪い」と説教されて些かムッとしたりもしたけれど、それでも六歳年上のこの兄は小さい頃からわたしを可愛がってくれ、勉強を教えてくれた。わたしたちはずっと仲の良い兄と妹だった。成績優秀な定義お兄ちゃんは、お父さんの代には失っていた菅原家本来の家業である大学頭や文章博士の職を回復したし、お父さんが望んでもなれなかった都に近い国の国司、すなわち和泉の国の国司になった。もちろん、お父さんもがんばってくれていたのだろうけど、それ以上に定義お兄ちゃんは努力して菅原家の再興に尽力したのである。
「とうとうわたしたち二人だけになっちゃったわね、元の家族は」
二人きりで昔話をしていた時、わたしがそう言うと定義お兄ちゃんは「そうだな」と頷いた。その横顔はやはり寂しげだった。まっ白になった髪が時の流れを改めて痛感させた。
「お兄ちゃん、憶えている? 上総の国を出発する前の晩に、わたしを馬に乗せてアサのところへ連れて行ってくれた事を」
「憶えているよ。あの時、おまえは泣きっぱなしだったな」
「あれからもう三十五年以上たったのね」
「そうだね」
「みんなに会いたいよ。アサや敦子お姉ちゃんに」
「すぐにまた会えるさ。俺たちだって、もういつお呼びがかかってもおかしくない年齢だからな」
「わたしより先にいなくなっちゃ嫌よ、お兄ちゃん」
「順番から言えば俺の方が先だろうが」
「嫌なの。家族がいなくなるのをもう見たくないの」
そう言ってわたしは泣いた。定義お兄ちゃんに抱きついて泣いた。定義お兄ちゃんは、わたしが泣き止むまでずっと優しく抱きしめていてくれた。
帰りは大津の浦から船に乗ったのだが、運悪く暴風雨に見舞われて、その暴風雨がまた経験した事のない程の激しさで、風は岩をも動かすかと思うくらい強く吹き荒れ、雷は頭上でガラガラドッカーンと鳴り響き、波に至っては船を天まで持ち上げたかと思ったら一気に地獄の底へ突き落すかの如く荒れ狂うものだから、あ、これは駄目だ、今度ばかりはお陀仏にちがいない、来世の事はよろしくね、阿弥陀如来さま・・・すっかり観念してそう思った程だった。しかし、運良くその船の船頭さんは危機管理能力が非常に高い人だったので、すぐさま船は陸上げされ、暴風雨が止むまで辛抱強く待つことになった。雨が止んでも、風が完全に収まるまで、船頭さんは頑固に船を出そうとはしなかった。お陰でわたしたちは六日間そこに足止めされた。六日後、ようやく風が収まったので船が出発した。船の簾を上げて外を見ると、入江にたむろしていた鶴たちが満ち潮に驚いて飛び立とうと騒いでいる光景が目に飛び込んできた。その様子を興味深げに眺めていたところ、わたしを無事に都へ送り届けるために定義お兄ちゃんが手配してくれた役人さんが近寄って来て
「いやー、あの暴風雨の最中に出発していたら、今頃は船も我々も海の底でバラバラでしたなぁ」
そう言って明るく笑った。なんだかなぁ、もう・・・