第30章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
お父さんが亡くなって、後始末がぜんぶ済むと、わたしは祐子内親王家へ国子を出仕させ、代わりに自分は引退した。名残りを惜しむ和子に、わたしは完成したばかりの『自ら悔ゆる物語』の原稿を渡し、こう言った。
「つまらない作品だけど暇つぶしぐらいにはなるでしょうから、わたしの形見分けだと思って受け取って」
形見分けというのは決してハッタリではなく、本心だった。その時は本気で文学と縁を切るつもりでいたから、この『自ら悔ゆる物語』が最後の作品になるはずだったのである。最後の作品を託す相手は和子をおいて他には考えられなかった
和子は半べそをかきながらこう言った。
「分かった。大切に読ませてもらうわ。ありがとう、良子さん」
お父さんの死はわたしを変えた。もはや文学に未練は無かった。これからは『源氏物語』を超える大傑作物語を書くぞとか、年甲斐も無く恋愛に夢中になるとか、そういう軽薄な気持ちは捨て、お父さんが望んだような神仏を拝み、現世利益を願う、ごく普通の平凡な女になり、堅実な人生を歩もうと決心した。
まずその手始めに十一月二十日過ぎ、石山寺へ物詣に出掛けた。途中にある逢坂の関はむかし上総の国から引き上げて来る途中に通った懐かしい場所である。とても寒く粉雪が舞っていたので
「そういえば昔ここを通ったのも冬だったなあ・・・」
二十五年前を思い出してわたしはそう呟いた。あのとき建造中だった大仏さまはとっくに完成し、逆にもはや古びかけていた。まさか二十五年後、この大仏さまと再会することになろうとは夢にも思っていなかったので感慨深さはひとしおだった。
(あれから二十五年経ったんだ・・・二十五年・・・その間にたくさんの人とお別れしてきた・・・たくさんの人がいなくなった・・・)
石山寺では三日間お籠りをした。勤行の途中に疲れて居眠りすると夢を見た。その夢の中でこう言われた。
「中堂から麝香を頂いたので早くお知らせしなさい」
何の事かさっぱり分からなかったけど、ともかく何か頂いたのなら悪い事ではないだろう、と前向きに考えた。
翌年の十月、今度は長谷寺へ物詣に出掛けた。出発の当日は大嘗会の禊の日だった。そのため定義お兄ちゃんから説教された。
「大嘗会の禊というのは天皇一代につき一回限りの儀式なのだよ。それゆえわざわざ地方から見物に来る人がいるほどだというのに、なぜおまえはこんな日に出発しなければならないのだ? 物詣なんかいつでも行けるじゃないか」
「もともと大嘗会の禊なんかに興味は無いし、いったん行くと決めたら絶対に行くんだ。それがわたしの流儀なんだ。行かないと気持ち悪くなるんだ」
そう反論すると、定義お兄ちゃんは
「おまえは昔から融通の利かない女だったからな。少しどうかしているんだよな、おつむが」
と悪態をついた。当然こちらはムッとした。一触即発の状態になった兄妹の間に割って入ったのは夫である。
「まあまあ、兄さん、ここは良子の好きにさせてやってくださいよ。わたしからもお願いします」
そう言って頭を下げる夫を呆れ顔で眺めながら、定義お兄ちゃんは
「うちのバカ妹のせいで、あなたも苦労しますね、俊通さん」
と言った。夫はヘラッと笑った。ともかくもわたしは予定通り長谷寺へ向けて出発した。周囲の人たちの奇異な眼差しに晒されながら、都へ向かう人の波をかき分けながらひたすら反対方向へ向かって進んだ。
途中の宇治川では大嘗会の禊を見物しに都へ向かう人々が対岸にぎっしり集まり、渡し船の到着を待っていた。都を出る側であるこちら岸には対岸ほど多くの人はいなかったけれど、それでも滅多に無い大混乱の最中であるから船に乗れるまでにはまだそうとう時間がかかりそうだった。のんびり構えたわたしは従者たちに休むように言い、辺りを散策した。
「そうだ、『源氏物語』の宇治十帖に八宮の姫君たちが登場するけど、どこが気に入って紫式部は彼女たちを宇治に住まわせたのかしら?」
以前からそれが疑問だったのだけど、実際に宇治に来てみると、さすがに紫式部が選ぶだけの事がある。実に趣のある素晴らしい場所だとわたしは納得し、改めて紫式部の慧眼に恐れ入った。
宇治川を渡り終えると、
(浮舟はこんな所に住んでいたのかな?)
などと考えながら藤原頼通さまの別荘を見学した。
夜明け前に出発したわたしの一行だったけど、すっかり日も暮れたので近くの小家に一泊させてもらった。その家の者たちはみな大嘗会の禊を見学しに都へ行き、二人のむさ苦しい下男が留守番をしていた。その下男たちが夜中じゅう動き回っているので、不審に思ったわたしの従者が理由を尋ねると、ケロリとした顔でこう答えたそうである。
「主人の留守中に何か盗まれたら大変なので、寝ずの番をしていたのですよ」
信用が無いのね、わたしたちって。