第3章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
都への帰郷の旅。この旅から、わたしの本当の人生が始まったのだと思う。
上総の国へ来たばかりの頃のわたしは、言ってみればまだ形が定まらない、ふわふわした代物だった。ところが、四年の歳月は大きい。現在のわたしは、四年前も今も同じ人間だが、同じ四年間であっても、九歳のわたしと十三歳のわたしとでは、それはもうまるで別人だ。それくらい、当時のわたしにとって、四年という時間は重大な意味を有していたのである。
都へ帰る時には、自分の形が明瞭になり、自分の両足でしっかりと大地に立ち、自分の頭でおのれの体験を認識できるようになっていた。すなわち、わたしという個性が完成していた。それゆえ、この時からわたしの人生が始まったと思うのである。
上機嫌で引っ越しのための荷作りに精を出していると、その姿を見たお父さんが微笑みながらこう言った。
「良子は都へ帰れるのが余程うれしそうだな」
「そうよ。だって都へ戻れば、たくさんの書物が読めるんですもの」
返事を聞いたお父さんは苦笑した。
「なんだ、母さんに会えるのが嬉しいのではないのか」
「もちろん、お母さんの元へ帰れるのは嬉しいわよ。でも、今はそれよりも本に興味があるの」
「良子は読書好きだからな」
「あのね、お父さま、良子は『源氏物語』が読んでみたいの」
「ああ、『源氏物語』か。都へ戻れば読めるだろう。都には何でも揃っているからな」
「本当? 楽しみだわ」
そう答えた時、おそらくわたしの瞳はらんらんと輝いていたと思う。
このように都への帰還を前にしたわたしは、夢と希望に満ち溢れた楽しいだけの日々を送っていたと思われるかもしれないが、必ずしもそうではなかった。悲しい事もあった。アサが一緒に帰れなかったのである。
実はアサは、このとき妊娠していたのである。わたしの乳母として上総の国へまでご亭主と一緒に付いて来てくれたアサだったが、間の悪い事にわたしたちが帰京する半年前に妊娠し、さらにはその妊娠中に不慮の事故でご亭主を亡くすという不運に見舞われていた。そんな可哀想なアサを、身重の状態でひとり上総の国へ残していくのは何ともつらかったが、まさか妊婦に長旅をさせるわけにもいかず、どうしようもなかったのである。
旅立ちの前夜、どうしても最後にアサの顔が見たくなったわたしは、定義お兄ちゃんに頼んで、馬でアサの家へ連れていってもらった。天井から月の光が差し込んでいる穴だらけの粗末なあばら家の中で、アサはひとり寝ていた。月の光に照らされて青白く輝いていたアサの顔は、やつれている分かえって妖艶さが増し、異様に美しかった。
「アサ!」
そう叫びながらアサに抱きつくと、わたしは大声で泣きだした。後の言葉が続かなかった。アサはそんなわたしの髪を優しく撫でながら慰めてくれた。
「良子さま、心配いりませんよ。アサも、元気な赤ちゃんを産んだら、すぐに都へ戻りますからね」
アサはいつだってわたしに優しかった・・・いつだって自分の事よりも先にわたしの心配をしていた・・・考えてみれば、生まれた時からずっとアサと一緒にいたのだ・・・わたしはアサに育てられた・・・アサがわたしの母親だと言っても良いくらいだ・・・大好きなアサ・・・それなのに、わたしはアサに何もしてやれない・・・それが悔しくて、悲しくて、せつなくて、わたしはわんわん泣いた。涙が止まらなかった。このままアサのそばを離れたくなかった。
しかし、定義お兄ちゃんが「明日の朝は出発が早いから」そう言ってわたしを無理やりアサから引き離した。
「嫌だ。アサと一緒に残る」
わたしは両手をアサの方へ伸ばして泣きわめいた。アサも泣いていた。泣きながらこう言った。
「アサはすぐに後を追いますからね。しばらくの間、辛抱していてくださいね」
「アサ、きっとよ。きっとすぐに来てね」
「はい。すぐに行きますよ、良子さま」
定義お兄ちゃんの馬で戻って来る途中も、わたしは泣き続けた。家に帰っても泣いていた。泣いているうちに、いつしか眠っていた。目が覚めたら、もう朝だった。出発の準備はすでに整っていた。護衛の武者を含めて数十人の集団である。
寝ぼけ眼のまま車に乗せられた。振り返って見ると、家財が運び出されてがらんとなった家の中に、わたしが作った薬師如来の仏像だけが、ぽつりと寂しそうに取り残されていた。それを見たら、またアサの事を思いだして、わたしは泣いた。隣に座っていた敦子お姉ちゃんの懐に顔を埋めて泣いた。