第28章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
良い年をして情けない話ではあるけれど、すっかり恋する乙女と化したわたしは暇さえあれば
(資通さまに会えないかしら。もういちど資通さまにお会いしたいわ)
そんな事ばかり考えていた。ところが、資通さまと再会する機会はなかなか廻って来なかった。ようやく再会できたのは翌年の八月、祐子内親王さまのお供で宮中へ参内した時だった。
その夜は清涼殿の殿上の間において朝まで音楽の宴が催されたのだが、直接わたしには関係が無いので自分にあてがわれた部屋の引き戸を少し開け、明け方の月の今にも消え入りそうな薄ぼんやりとした姿を
(ひどく風情のある景色だわ)
そう思いながら眺めていた。宴が終了したらしく退出する人々の沓の音が聞こえてきた。その音がこちらに近づいて来る。人の話し声が聞こえる。中には経を口ずさんでいる人もいる。
その経を口ずさんでいる人が、わたしの部屋の前でなぜかピタリと立ち止まり、少し開いている引き戸口から
「明け方の月も悪くないものですね」
そう話かけてきた。突然の出来事にびっくりして、とりあえず
「ええ、そうですね」
と当たり障りの無い返事をしたが、その人の声には聞き覚えがあった。もしかして? そう思ったわたしの心臓が早鐘のように激しく鼓動し始めた時、その人は
「時雨の夜の事がいつまでたっても忘れられず、わたしは恋しくて仕方ないのです」
と言った。資通さまだ! 資通さまがわたしの事を憶えていてくださったのだ! しかもわたしに会いたがっていてくださったのだ! 何という嬉しさ! 何という幸福感! もう体がとろけそうだ・・・
おおっと、のんびり恍惚感に浸っている場合では無い。急いで返事をしなければ。本当は資通さまとじっくり様々な事を語り合いたいところだけど、何しろ表には殿上人の皆さまがうじゃうじゃいらっしゃるし、妙な噂を立てられたら資通さまの為にならないと思ったので、時雨の夜と同じように即興で歌を詠み、返事の代わりにした。
「何さまで 思い出にけむなほざりの 木の葉にかけし時雨ばかりを」
粋な趣向がお好きな資通さまなら気に入ってくださるはずだ。歌を詠み終えたその瞬間、お偉いさまの集団が近づいて来る足音が聞こえてきたので、わたしは急いでその場を離れ、そのまま帰宅した。
後日、内親王家に出仕すると、和子がニヤニヤしながら近づいて来て、手に持った紙をヒラヒラ揺らした
「良子さん、これ何だか分かる?」
「何よ、それ?」
わけが分からず訊き返した。
「これはね、良子さんがいちばん喜ぶ物」
和子は上目使いでわたしを見ながらそう言うと、クククッと含み笑いをした。
「だから何なのよ?」
わたしのじれったそうな顔を見て、遂に和子がその紙の正体を明かした。
「これはね、資通さまからお預かりした良子さんへの返歌」
「え?」
「うふふ、驚いた? 先日、どこかで資通さまへ歌を贈ったでしょう? そのお返しですって」
「どうしてそれを・・・」
「良子さんったら、資通さまからの返歌を待たずにどこかへ行っちゃったそうじゃないのよ」
「だってあの時は周りに人が大勢いて・・・」
「それで資通さまがわざわざここまで訪ねて来てくれたのよ。生憎その日は良子さんの出仕日じゃなかったので、わたしが代わりに預かっておいたというわけなの。どお? お分かりになりまして?」
そう言うと和子はわたしに紙を手渡した。わたしはその紙を両手で捧げるように持ち、しばし呆然としていた。
「それにしても良子さんもなかなかやるわね。わたしに内緒で資通さまと急接近するなんて。悔しいわ。わたしもボヤボヤしていられないわね」」
「いえ、そんなつもりは・・・」
「あ、忘れてた。資通さまからの伝言があったんだ」
「伝言?」
「あの時雨が降る夜のような時に、ぜひ知っている限りの琵琶の曲を演奏して、あなたにお聴かせしたい・・・ですって。あー、もう、こんちくしょう、羨ましいわねえ」
資通さまの琵琶! ぜひ聴きたい! 聴かせて欲しい!
しかし、そんな機会は無いまま虚しく時だけが過ぎて行った。