第26章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
世間一般の中年男性の多くは、若い娘と見るやすぐに下ネタを飛ばし、女性たちが恥ずかしがる姿を見ては喜ぶという、どうしようもない性癖があるものだけど、資通さまに限ってはそういった下品なところは一切なく、あくまでも節度を保った知的な意見を心のこもった口調で静かにお話になる。しかも
「そちらの方はどう思われますか?」
などと時々わたしの方にまで話かけ、わたしが話の輪から外れないよう絶えず気を遣ってくれるので、そういう細やかな心配りにも感激して、それがもう嬉しくて泣けて胸にグッと来て、わたしは完全に魂を奪われてしまったのだった、資通さまに。
星も月も見えない漆黒の天空から時おり時雨が降りかかり、その度に庭の木の葉がパラパラと音を立てた。その情景に風情を感じた資通さまがこう言って微笑んだ。
「今日のような闇夜も悪くないですよね。月がらんらんと照り輝く夜だと互いの顔がはっきりと見えすぎて照れくさいですものね」
すっかり資通さまの虜になっていたわたしと和子が深く深く頷いたのは言うまでもない。資通さまのおっしゃる事には何でも素直に賛成したい気分だったのである、わたしたち女子二人は。
その後、資通さまの話は春秋の話題に移った。
「四季の変化に伴って見る景色の中では春霞が特に美しいと思います。空がぼんやり霞んで、月の表面はあまり輝かず、月光が遠くへ流れて行くように瞬いて・・・そんな春の夜には琵琶でゆるやかに奏でる風香調が殊の外よく合いますよね」
なるほど、なるほど、春霞と琵琶の組み合わせとは素晴らしいわ。
「一方、秋になって空一面を霧が覆う中、月だけがひときわ明るく輝き、しかもそれが手で掴めそうな程くっきりと澄み渡っていて、風の音、虫の鳴き声、それら秋の風情をぜんぶ集めたと思ったところへ、筝の琴がかき鳴らされたり、横笛が澄んだ音色を響かせたりしたら・・・春なんかたいしたことないなと思ってしまいます」
ふむ、ふむ、そうよね。まったくおっしゃる通りです。
「そうかと思えば、空まで凍りつきそうな寒い冬の夜、降り積もった雪の表面が月の光でキラキラと輝く中、どこからか篳篥の震えるような音色が聞こえて来るのは、春も秋も忘れてしまう程の素晴らしさです」
そうか、冬か。忘れていた。確かに冬の凛とした美しさも捨て難いわね。
「一体どの季節が最も素晴らしいのでしょうね? お二人はどの季節にいちばん心を惹かれますか?」
この問いかけに和子は迷う事なく即答した。
「秋です」
正直言うとわたしも秋に心を惹かれるのだけれど、和子と同じ答えでは面白く無いし、その場の盛り上がりにも欠けると思ったので、わざと自分の本心とは正反対の回答を、それも普通に答えるのでは芸が無いと考え、即興で歌にして資通さまへ返した。
「あさみどり 花もひとつに霞みつつ おぼろに見ゆる春の夜の月」
急ごしらえのわりには我ながら良い出来だった。こういうのを火事場のクソ力と呼ぶのかしら? 燃え上がった恋の炎は実力以上の力を発揮させてくれるものなのだろう。
「いや、驚いた・・・これは・・・どうも・・・素晴らしい歌ですね・・・」
資通さまは、わたしの歌にえらく感心し、何度も繰り返し口ずさんでくれた。それだけでも嬉しいのに、明らかに資通さまのわたしを見る目が変わったのが分かり、それがまたわたしを天にも昇る気分にさせた。
「それでは秋の夜はお見捨てになったという結論でよろしいですね?」
資通さまはそう言うと、わたしの歌に対する返歌を詠んでくれた。
「今宵より 後の命のもしもあらば さは春の夜を形見と思はむ」
ステキ。さすがは資通さまだわ。わたしの歌に、すぐさま的確に、これだけの歌を返して寄こすなんて。この教養。この機転。この文才。これぞわたしが夢見ていた世界だわ。わたしの理想の雰囲気。わたしはこの人と出会うために生まれてきたのだ。絶対にそうだ。間違いなくそうだ。この時、わたしと資通さまは見えない糸によって心の中で繋がったと思う。少なくともわたしはそれを感じた。感じて体の芯からぼーっと温かくなった。わたしと資通さまは互いの顔をうっとりと見つめ合った。このまま時間が止まってしまえば良いのに・・・そう願った。
すると、すっかり良い雰囲気になっている我々に嫉妬した和子が、少々ふくれ面をしながら大きな声でこう詠んだ。
「人はみな 春に心を寄せつめり 我のみや見む秋の夜の月」
和子の歌は夢心地な気分に浸っていたわたしと資通さまをハッと正気に戻した。資通さまは苦笑いして、しばらくないがしろにしていた事を詫びるかのように今度は和子の方へ向き直り、和子の顔を愛情の籠った眼差しで見つめながら
「うーん、春と秋・・・どちらが魅力的なのでしょうね?」
と悩む素振りをした。その見事な気配りに、わたしはまた惚れた。