第25章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
恵子の初出仕日には、さすがに心配なので付き添いとして内親王家へ同行した。和子を始めとする内親王家に仕える昔の同僚たちは、久しぶりに顔を出したわたしを歓迎してくれた。嬉しかった。自分を必要としてくれる人々がここにいる。そう思うと元気が湧いて来た。最初は緊張していた恵子もすぐ仕事に慣れ、慣れてくると今度は、以前のわたしがそうだったように、仕事を楽しむ余裕も出来たらしかった。そんな恵子を見てホッと一安心した。いずれ時期が来たら国子も出仕させ、社会勉強をさせるつもりだった。これがわたしの教育方針である。
うちのお父さんは「女は働きに出ると、すれっからしになって戻って来る」などと根拠の無い主張をしているけれど、わたしには単に男が仕事の出来る女を恐れているだけにしか思えなかった。
ところで、恵子が内親王家にお仕えするようになると「みんなが母さまを連れて来いとうるさいのよ」そう恵子にせかされて、しばしばわたしも内親王家へ遊びに行くようになった。自分が初出仕した頃は「わたしの教養で周りの女どもを蹴散らしてやるんだ」と意気込んでいたものだけど、絶望的な結婚に打ちのめされた事により他人と競い合おうとする気持ちはすっかり消え失せ、その時分は和子たちと他愛もない文学や芸術の話をしてダラダラ過ごすのが無性に楽しかった。それでもわたしの書いた『浜松中納言物語』が好評だったので「また何か書いてくださいよ、良子さん」そう催促される事が度々あった。しかし、さすがに新しい物語を書く気力は無かった。作品というものはあまりにも幸せな時には書けないものだけど、反対に絶望しきっている時にも書けないのである。新作を書くためには、新たな刺激、魂の揺さぶり、精神的な栄養補給が必要だった。
慣れ親しんだ内親王家は居心地が良いし、仲俊は乳母がちゃんと面倒をみてくれているから心配無いし、そして何よりも出来るだけ夫と顔を合わせたくなかったので、不定期ながらわたしはそのままズルズルと内親王家にお仕えするようになった。
祐子内親王さまが宮中へ参内する際のお供を務めた事もあった。
(そういえば以前、幸せになりたいのなら天照大神をお祈り申し上げなさいと助言されたので、その神さまはどこにいらっしゃるのですかと質問したところ、伊勢神宮と宮中の内侍所におわしますという答えが返ってきた事があったわね)
俄かにそんな記憶が蘇ったわたしは、せっかく宮中へお供するのならついでに内侍所へ寄って天照大神を拝んでいきたいものだと思い、こっそり職場を抜け出して忍び込んでみた。月がとても明るく輝いている四月の夜だった。うまく忍び込んだつもりだったが、すぐにわたしは内侍所の責任者である《博士の命婦》という高齢の女性にとっ捕まってしまった。
(これはまずい。これは処罰されるぞ)
一旦はそう覚悟したけれど、度胸を決めて忍び込んだ理由を堂々と弁じたところ、そんなわたしを《博士の命婦》さまはひどく気に入ってくれて、親切に内侍所の中を案内してくれた。その時に見た灯籠の鈍い光に照らされた《博士の命婦》さまの横顔は老齢ながらも神々しいまでに美しくて、
(もしかして天照大神さまが人間のふりをしているのではないの?)
本気でそう疑った程だった。今でもその疑いが晴れたわけではないけれど・・・もしかして・・・
それから半年後の十月。星も月も出ていない闇夜に不断経の仏事があった。僧侶たちによる美しい読経の声が響き渡る中、退屈したわたしと和子は戸口の外へ出て、ひと目につかない隅っこで柱によりかかったまま例によって文学の話をしていた。するとそこへひょっこり殿上人がやって来た。
上達部や殿上人のような身分の高い方と口をきける女官はあらかじめ決まっていて、わたしや和子のような下っ端には許されていなかった。ところが、若さゆえの大胆さであろう、和子が小声で
「奥へ上役を呼びに行くのは面倒くさいから、わたしたちで対応しちゃいましょうよ」
そう言うや否や、その殿上人、すなわち源資通さまと楽しげに談笑し始めたからビックリした。すっかり度肝を抜かれたわたしは、和子の後ろに隠れて身を縮こませるばかりだった。こういう時のわたしは存外、小心者なのである。体を小さくしながら二人の会話に聞き耳を立てていると、資通さまの優しくて上品な声、物静かで落ち着いた語り口調、教養溢れる話の内容に、わたしはすっかり魅了されてしまった。
そっと資通さまの顔を見上げると、これがまた絵に描いたような良い男。年齢はわたしと同じくらいだろうか? 美しさに渋さが加わって、それはもううっとりするくらい素敵だった。いた! ここにいた! ついに見つけた、わたしの理想の男性を! わたくし菅原・・・じゃなかった、現在は・・・橘良子は三十五歳にしてようやく初恋を経験したのである。