第24章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
公平に判断して、わたしの夫となった橘俊通は立派な人間だったと思う。真面目で、分を弁えていて、心根が優しくて、他人に対する思いやりがあって・・・苦労人のせいか気遣いがすごい人で、常に周囲の人々、中でも新しく妻となったわたしに対してはあれこれ細かく気を配ってくれていた。だから他人の間柄だったら彼を嫌いにならなかっただろう。むしろ大の仲良しになっていたかもしれない。しかし、夫となると話は別だ。自分の夫がこんなに凡庸で、醜くて、芸術の素養が無いことに、わたしは我慢できなかった。外見がいけてない上に、内面に何も無く、役所から帰宅した後はお酒を飲んで陽気に酔っぱらっているだけの男。ただそれだけの男・・・
それが普通だという事はよく分かっている。世間一般の男はたいてい似たようなものだという事も理解している。だが、わたしの夫がそうであることは許せなかった。凡庸さを愛せる心の余裕など、当時のわたしにはまだ備わっていなかった。たぶんわたしの精神年齢は十代で止まっているのだろう。三十歳を過ぎてもなお、わたしは自分の理想を捨てられずにいた。その結果どうなったか? わたしは夫を頭から軽蔑した。そして嫌悪した。こんなさえない男が自分の夫であるという現実を受け入れるのを、心の中で頑として拒絶していた。当然、必要最小限の事以外、口もきかなかった。結婚生活最大の苦痛は夜の営みであり、ぶよぶよの醜い夫の体と肌を合わせるのが吐気を催す程おぞましくて、わたしにとっては拷問と同じだった。仲俊の妊娠が判明した時、これで妻としての義務は果たしたというわけで、それ以降は夜のお相手をきっぱりと拒否した。いま考えると、わたしは実に悪い妻であったと思う。露骨にわたしから毛嫌いされていても夫が怒ったり冷たくしたりする事はいっさい無く、逆に申し訳なさそうな顔で、まるで腫物に触るかのように恐る恐るわたしに接していた。その点、夫は大人だった。それに反してわたしは子供だった。現実がまったく見えていない子供だった。夫には本当に申し訳なかったと思う。
だけど、自分勝手な理想にどっぷり漬かっていたあの頃は、わたしの頭の中には自分しかなく、すべてが自己中心的であり、冷静に周りの状況を観察する能力を欠いていたのである。だから、ただもう現実が嫌で嫌で、どうしょうもなかった。間違っている、こんな現実は間違っている、これはわたしの生活じゃない・・・心の中で何度もそう叫んでいた。そんなわたしの唯一の救いは恵子と国子の存在だった。二人は泣いてばかりいるわたしを心配して、いつもそばに付き添ってくれていた。恵子と国子がいなければ頭がおかしくなっていたかもしれない。それくらいギリギリの状態だった。
その後、無事に仲俊を出産した。恵子と国子が仲俊を弟のように可愛がり、面倒をみてくれた。そういえば、上総の国にいた頃、わたしも雅子お母さんの連れ子だった健太を、敦子お姉ちゃんと二人で弟のように可愛がっていたっけ。健太は今どうしているのだろう?・・・健太もそうだが、わたしは色々な人とお別れしてきた・・・雅子お母さん・・・アサ・・・《姫さま》・・・敦子お姉ちゃん・・・
年を取ってつらいのは、人とお別れするだけじゃなく、むかし持っていた夢や理想ともお別れしなくてはならない事だ。わたしの夢は何一つ実現しなかった。わたしの人生がこんな結果になってしまった原因は、やはり文学にばかり熱中して仏道を疎かにしてきたからだろうか? 夢の中でこれまで何度も警告された通り、真面目に仏さまを信仰していればこうはならなかったのだろうか?
結婚後、家に引き籠って家事と育児に専念していると、内親王家から「また出仕して欲しい」というお誘いが届くようになった。和子もわたしに手紙を寄こした。
「良子さんがこのままおとなしく家庭の主婦に納まっているタマだなんて、内親王家に仕える人間は誰ひとり思っておりませんよ。早く戻って来てください、良子さん。そしてまた一緒に文学の事を語り合いましょうよ」
その後も内親王家からのお誘いは続き、わたしがなかなか腰を上げずにいると、最後にはこう言ってきた。
「良子さんが無理なら、あなたが可愛がっている姪御さんに出仕してもらえないでしょうか?」
うちのお父さんに代表される世の男性陣は、自分の娘には結婚するまで可愛い人形のようでいて欲しいみたいだけど、わたしはそういう男性中心の考え方には反対だった。確かにわたしは、『源氏物語』に登場する女の中では夕顔や浮舟のようなか弱い女性が好きだし、また彼女たちのような恋愛を夢見ていた。しかしながら、わたし自身はそういう気質の女ではないし、また恵子と国子に夕顔や浮舟のようになって欲しいと思った事も無かった。女は飾り物の人形ではないのだ。感情を持った生きた人間なのだ。だから女だって人間らしく自分の意志を持って生きるべきだ。わたしは常日頃からそう考えていた。
(恵子はもう十七歳だ。結婚するまでずっと家の中にいるよりも、外へ出て様々な刺激を受けた方が、本人の将来のためには絶対に良いだろう)
わたしは恵子を出仕させることに決めた。