第16章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
わたしと経康は山を下りた。我が家に辿り着いた時には、もう夕暮れ時になっていた。経康が都へ戻らなくてはならない時刻だ。しかし、経康はひどく名残惜しそうな素振りをし、なかなか帰ろうとしなかった。
「今日は本当に楽しかったです、良子さん」
「はぁ・・・それは・・・どういたしまして・・・」
「また伺ってもよろしいでしょうか?」
「いや、それは・・・」
「ご迷惑でしょうか?」
「あの、ご迷惑とか、そういう問題じゃなくて・・・」
「わたしの事がお嫌いですか?」
「好きとか、嫌いとか、急に訊かれましても・・・」
経康はここぞとばかりにグイグイ攻めて来た。こういうのは苦手だ。わたしの方は防戦一方となり、しどろもどろになりながらも何とか経康の攻撃をかわした。経康はようやく都へ帰ってくれた。
自宅へ戻り、恵子と国子の顔を見たらホッとして、やっと気持ちが落ち着いた。
経康の奴、わたしを慌てさせやがって。お陰で冷や汗をかいちゃったじゃないのよ。だいたい生意気なんだ、あいつは。たいした男でもないくせにさ・・・それにしても、あの胸のドキドキは何だったのかしら? もしかして恋? まさか。なぜこのわたしが経康ごときに恋をしなければならないのよ。わたしの理想は高いのよ。ずっとずっと高いのよ。わたしは光源氏さまや薫大将さまみたいな美男子しか相手にするつもりは無いんだ。それなのに選りによって経康? ぷぷ、笑わせないでよ。
ところが、都へ帰った経康から翌朝早く恋の歌が届いたものだから、また胸のドキドキが始まった。
(うぬぬ、経康め、なかなかやるじゃないの。でも、どうしよう? こんな経験は初めてだから、どうしたら良いか分からない)
ここで歌を返したら経康の求愛を受け入れるのを承諾したことになる。経康で手を打つか? わたしの中で様々な葛藤が始まった。確かに経康は、わたしの理想からはほど遠い人間だ。わたしの理想はあくまでも光源氏や薫大将。ああいう高貴で美しい男性によって、浮舟のようにどこかの山里にひっそりと隠し置かれ、そこで愛しい人の訪れを待ちながら花鳥風月を愛でて暮らす・・・そういうのが理想だ。
しかし、こんな理想は端から実現しそうにない。第一、わたしは浮舟のような美人ではない。したがって、仮に光源氏や薫大将のような男性がいたとしても、わたしの事を好きになってくれる可能性はほぼ無いに等しい。しかも、わたしはもうすぐ十九歳だ。これからはどんどん容貌が衰えていくばかりだろう、ただでさえ良くない容貌が。今を逃したら、わたしに求愛してくる男なんか、もう二度と現れないかもしれない。いや、たぶん現れないだろう。それならば、夢のような理想にしがみついて空虚な人生を送るよりも、現実をしっかりと見据えて、自分の身の丈に合った幸せを掴む方が得策なのではないか? ささやかな幸せであっても、何も無いよりはましなのではないか?
そりゃあ経康は醜男だわよ。将来の出世も見込めないわよ。だけど性格は悪くないし、意外と勉強もよくしているようだ。そして何よりも、わたしに求愛してきた唯一の男である。そこは尊重してあげるべきだろう。何といっても、わたしの魅力を理解できたのは、あいつだけなのだから。
それにしても、世の中の男たちには、なぜわたしの良さが分からないのだろう? まったく頭に来る。そこら辺によくいる、ただ可愛いだけで中身がすっからかんの、人形のようなバカ娘たちの、どこが良いと言うの? わたしの方がずっと良いわよ。長く付き合えば付き合う程それが分かるはずよ。わたしと付き合った方が絶対に自分のためになるわよ。そうよ。そうなのよ。なぜそれが分からないのよ? このアンポンタンどもめ!
おっと、すっかり経康の事を忘れていた・・・経康に決めるか? ここで手を打つか? 理想を捨て、卑小な現実を生きるか? こじんまりとした幸せで満足するか? 今が年貢の納め時なのか?
さんざん迷った挙句、結局わたしは経康に返事を書かなかった。その後、何度か彼から手紙をもらったが、すべて無視した。やがて経康は別の女性と結婚し、今は越前で幸せに暮らしている。
経康を拒絶した理由をわたしは、理想と離れすぎていたとか、恵子と国子のことが気にかかって恋愛に踏み切れなかったとか、さんざん自分に言い訳したが、実のところ一番の理由は臆病さにあったのだと思う。わたしは恐かった、恋におちることが。現状の生活が一変することが。心の平穏が失われることが。その他の様々な変化が・・・この弱気がわたしを躊躇させたのである、それが間違いだと分かっていながら・・・幸せを遠ざける道だと分かっていながら・・・
経康とわたしは別々の人生を歩むことになってしまったけど、今でも心の中では彼に感謝している。経康に悪い事をしてしまったという後悔の念と共に感謝している、わたしのような者を愛してくれて。わたしのような者にも青春時代の思い出を与えてくれて。それがわたしの地味で味気ない人生にとって、どれほど光明になっていることか。経康はもう忘れちゃったかもしれないけど、それくらいあの一日はわたしにとって大切な宝物なのである。