第12章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です
『源氏物語』やその他の物語を読み耽っているうちに、次第に自分も物語を書いてみたいという欲求が高まって来た。わたしは読書と並行して創作活動を始めた。
もちろん、最初は稚拙なものしか書けなかった。文章で自分の思いを表現するのは実に難しい・・・それを痛いほど思い知らされるばかりだった、初めの頃は。
物語というものは頭の中にある間はとても調子が良くて、様々な単語や文章がポンポン威勢よく飛び交っている・・・だけど、いざ実際にそれらを紙に書き写そうとすると、これがうまく書けないし、どうにかこうにか苦心して書き終えたものを読み返してみると、それは恥ずかしさの塊・・・この世のどんな物よりも、たとえば汚れた下着よりも他人に見られたくない恥部・・・自らの愚かさや幼稚さを思い知らせてくれる鉄槌だった・・・その結果、苦しくて、つらくて、たまらなくなったわたしは、夜中にウギャーッと奇声を上げては、この呪わしい原稿を「地球上にこれ以上一秒たりとも存在する事は許さぬ!」とばかりに狂乱の態で引き千切り、さらには粉々になった紙を乱暴に踏みつけて、自分の浅はかさの証拠を永久に抹殺しようとする始末であった。
このような事を繰り返しながら、わたしが創作に悪戦苦闘していた頃、一足先に大人の仲間入りをしていた敦子お姉ちゃんに縁談の話が持ち上がり、あれよあれよと言う間に結婚してしまった。義理のお兄さんになったのは、我が家と同じ中流貴族階級出身で、文学や芸術方面にはまったく才能が無いけれど、すなわちごくごく平凡な魂の持ち主ではあったけど、そのぶん性格が温和で優しい、つまり何と言うか、結論を言えば好青年だった。それにしても、ついこの間まで一緒に庭でわいわい騒いでいた敦子お姉ちゃんが、お嫁さんになるなんて・・・わたしは時の流れをひしひしと感じた・・・わたしたちはもう子供ではいられないのだ・・・子供の時代は終わったのだ・・・旅立ちの時が近づいているのだ・・・いつまでもこのままでいたいのに、この場所に留まっていたいのに、時はわたしたちを否応なく先へ先へと押し流してゆく・・・わたしたちは流されてゆく・・・休みなく・・・ずっと遠くへ・・・知らない場所へ・・・「寂しいね」そばでごろんと横になっている《姫さま》にそう話かけた。《姫さま》は、目を閉じて眠ったまま、わたしの問いかけには応じてくれなかった。
敦子お姉ちゃんが妊娠し、そして出産した。生まれてきたのは、珠のような女の子だった。赤ちゃんを抱いている時の敦子お姉ちゃんは本当に幸せそうだった。わたしは《姫さま》と一緒に、しょっちゅう赤ちゃんの子守りをした。恵子と命名されたその赤ちゃんが可愛くて仕方なかった。恵子は、実際はわたしにとって姪に当たるのだが、気分的には妹だった。完全に妹だった。小さな妹が出来た・・・そんな気持ちだった。わたしと《姫さま》を見つけると、恵子は「あぶ、あぶ」とか言いながら小さな手をしきりに動かして喜んだ。《姫さま》と並んで静かに熟睡している恵子の寝顔を見ていると、気持ちが落ち着いて、深い幸せを感じた。あまりにも幸せな気分の時は意識が創作の方へは向かないらしい。わたしは物語の創作などすっかり忘れて、恵子の子守りに専念していた。
敦子お姉ちゃんがいて、恵子がいて、わたしと《姫さま》がいる・・・仲の良い四姉妹・・・ああ、素敵・・・何て幸せなのでしょう・・・この幸せが永遠に続いて欲しい・・・心からそう願っていた。
ところが、不幸はとつぜん襲って来る。不幸は、いつの間にか幸せの裏側へ忍び込み、力を蓄えながらじっと潜伏し続け、ある日不意に牙を剥く。それがいつものあいつらの手だ。今回、犠牲となったのは《姫さま》だった。ある晩、遅くまで読書をしていると、不意に煙の匂いがした。「火事?」慌てて部屋の外へ出ると、すでに廊下は煙が充満していた。わたしは大声を上げて近くの部屋で寝ていた使用人を叩き起こし、命よりも大切な『源氏物語』全巻を大急ぎで布袋に入れて背中にひっ担ぐや、敦子お姉ちゃんが寝ている部屋へ駆けていった。その時にはもう屋敷じゅうが大騒ぎになっていた。わたしは狼狽して動けずにいた敦子お姉ちゃんを「しっかりして!」と叱り飛ばし、恵子を胸に抱き、敦子お姉ちゃんの手を引いて部屋を出た。廊下でお父さんとお母さんに出くわした。二人とも真っ青な顔をしていた。家族と使用人全員は、なんとか無事に屋敷の外へ避難した。そして炎上する我が家を呆然と眺めていた。
(家は無くなったけど、とりあえず家族と使用人が無事なら、それで良しとしなくては)
ほっと一息ついた時、わたしは大切な事を思い出した。
(あれ、《姫さま》はどこ?)
《姫さま》は、どこにもいなかった。火を怖がってどこかへ逃げたのかしら? でも、それなら、しばらくすれば帰ってくるわよね。そう思ったけど、《姫さま》はいつまで待っても帰って来なかった。後日、屋敷の焼け跡から《姫さま》の焼死体が見つかった。