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さらしな日記  作者: ふじまる
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第10章

菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です

 家に帰り着くや否や、さっそく自分の部屋に引き籠り、一日じゅう『源氏物語』を読み耽った。昼間はもちろん、夜も灯火のもとで眠たくなるまで読みつづけ、目が覚めるとまた読み始めるという有様だった。そんなわたしを家族は心配したけれど、バカめが、邪魔するんじゃねえよ。今わたしは最高に幸せなんだ。『源氏物語』を、第一巻から最終巻まで、一冊ずつ取り出して読めるのよ。これ以上の贅沢、これ以上の幸福が、この世に存在するだろうか? いいや、存在しない。この幸せに比べたら、皇后になる幸せでさえ何ほどのものでもないわ。

 頭の中ぜんぶが『源氏物語』でどっぷり満たされて・・・すっかり満潮を迎えて・・・天国だ。これこそが天国だ。今、この瞬間、わたしは天国にいる。この天国は他の誰にも渡さないぞ。それでも、時たま夢の中に黄色い法衣を着たお坊さんが現れて、説教を垂れる事があった。

「今すぐ法華経の五巻目を勉強しなさい」

 へん、誰が法華経なんか勉強するもんかい。あたしゃ、今『源氏物語』に夢中なんだ。他の本なんか読みたくないんだ。『源氏物語』だけを読んでいたいんだ。分かったか? 分かったら、おとなしく引っ込んでいろ、このクソ坊主め!

 すると次に、六角堂へ遣り水を引いている最中だという、意味不明かつ正体不明の人物が夢の中に現れて、説教を始めた。

「天照大神をお祈りしなさい」

 何なのよ、こいつらは? どこからやって来るの? 何が目的なの? 『源氏物語』を読むのを邪魔したいわけなの? 妬んでいるの、『源氏物語』が読めるわたしを? スキあらば、わたしから『源氏物語』を盗み出そうという魂胆なの? とにかく、こっちは天照大神になんか、まったく興味が無いの。興味があるのは『源氏物語』だけなの。だから、すっこんでいろ、この神道野郎。もう出てくるな。二度とわたしの前に現れるな。

 こんな風に、すっかり『源氏物語』の世界に耽溺していたわたしだったけど、耽溺すればするほど、次第に登場人物たちとあまりにもかけ離れた自分の姿に不満が募ってきた。

 背は低いし、肌の色は上総の国育ちのせいか浅黒いし、顔はパンパンに腫れていてニキビがたくさん出来ているし、体型は細い方ではないし、性格はちっとも落ち着いていないし、物腰の優雅さなんてものは、これっぽっちも身に付けていないし・・・

「わたしは美しくない」

 だんだん自分が嫌いになってきた。自分という存在を否定したい気持ちが強くなって、落ち込む事が多くなった。精神が不安定になり、感情の起伏が激しくなった。

 ただ、そんなわたしにも、一つだけ救いがあった。それは若さだった。若さゆえの可能性だった。今はこんな有様だけど、わたしだって大人になれば背がすらっと伸びて、肌は見違えるように白くなって、腰が柳の枝のようにきゅっと細くなって、物腰だって別人のように柔らかく優雅になって、きっと光源氏に愛された夕顔や、薫大将に愛された浮舟のような素敵な女性になるはずだ。そして、光源氏や薫大将みたいな美しい男性と洗練された大人の恋をするはずだ。いや、きっとそうなる。絶対にそうなる。そうならないと困る・・・でも、本当にそうなるのだろうか?・・・到底そうは思えないのだけど・・・冷静に現実を直視すると・・・心配になったわたしは、敦子お姉ちゃんを捕まえて

「ねえねえ、敦子お姉ちゃん、良子は大きくなったら、物語に出てくるような見目麗しい女の人になれるかな?」

 と質問してみた。この質問に対する敦子お姉ちゃんの答えは、こうだった。

「良子ちゃんなら、きっと世の男性方が放っておかないくらい美しくて素晴らしい大人の女性になると思うわ」

 そうかあ? いまいち信じられないんですけど。お父さんにも同じ質問をしてみたが、

「良子は可愛いお嫁さんになるぞ」

 と言うばかりで、こちらもまったく参考にならず。男親って、こういう話になると、ホント何の役にも立たないわ。

 仕方なく、最後にお母さんに聞いてみた。

「それって物語の中のお話でしょう? 現実とは違うわよ」

 これがお母さんの答えだった。頭の中には、徹頭徹尾、現実しか存在しないお母さんの答え。母親なら嘘でも良いから娘にもっと夢のある話をしてやれないのかと思うけど、悲しいかな、お母さんの言う通り、現実は物語とは違った。物語のようにワクワクする出来事なんか何ひとつ起きなかった、その後の人生で・・・

 わたしは、現実は物語のように豊かであるべきだと思っていたし、そうあって欲しいと願っていた。物語のような夢のある人生を生きたいと考えていた。しかし、実在したのは、いつだって剝き出しの現実。カラカラに乾いた貧相な現実。夢もへったくれも無い、うんざりする現実。そればかりだった。

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