第1章
菅原孝標女『更級日記』を基に、家族、理想と現実、人生でいちばん大切なものをテーマにした作品です。
五十歳を越えると俄かにお迎えの時が現実味を帯びてきて、もうすぐだ、もうちょっとで人生は終る・・・そう考えると誰もがこれまでの人生を振り返りたくなるものである。
まさに今のわたしがそうだ。菅原孝標の次女としてこの世に生を受けたわたしの人生・・・それは幸せなものだったのだろうか? 意味のあるものだったのだろうか? 満足のいくものだったのだろうか?
《光陰矢の如し》とはよく言ったもので、人生はあっという間だった。本当にあっという間。え? もうお終いなの? これだけ? これで全部? もう少し何かあっても良かったんじゃないの? もう少し劇的な何かが・・・そんな思いがわたしの頭から離れない・・・
それから人生の時間が均等ではない事にも驚く。人生の時間には濃い部分と薄い部分があって、わたしには最初がいちばん濃くて、後になるにつれだんだん薄くなっていったように思える・・・わたしの心はいつだって幼かった日々へ向かう・・・無邪気だったあの頃の思い出に・・・
「良子、こっちよ、早くいらっしゃい」
敦子お姉ちゃんの呼ぶ声が聞こえる。敦子お姉ちゃんの笑顔。小さい頃のわたしはいつも敦子お姉ちゃんの後にくっ付いて歩いていた。いつも敦子お姉ちゃんに遊んでもらっていた・・・それからお父さん・・・お母さん・・・定義お兄ちゃん・・・雅子お母さん・・・乳母のアサ・・・もう一度みんなに会いたい。みんなと一緒に暮らしたい。みんなと共に過ごした少女時代がいちばん幸せだった・・・
あの頃は時間がゆっくり流れていた。それにたくさんの事がぎゅっと詰まっていた・・・ところが、時間の進むのがだんだん速くなって・・・中身がどんどん薄くなって・・・さらさらと水が流れるように年を取っていって・・・最も恐ろしいのは時の流れ・・・時間は容赦しない・・・容赦なくわたしたちを終局へ追い詰めてゆく・・・
わたしは上総の国で大きくなった。上総の国育ちと聞くと、どんな野生児だろうと思われるかもしれないけど、元々の生まれは都なのである。都に生まれ、九歳の時、お父さんが国司に任命されたので、上総の国へ移り住んだ。
こういう場合、家族も同行するのが常である。ところが、うちのお母さんときたら、とにかく都から一歩も外へは出たくないという人であり、ましてや上総の国なんかお母さんから見れば人外魔境。人間より獣や妖怪の方が多く住む暗黒の地。そんな恐ろしい所へはとても行けないというわけで、
「わたしは絶対に都から離れませんからね」
「そんなこと言ったって、おまえ・・・」
「とにかくわたしは都以外の場所に住むつもりは金輪際ないと申しているのです」
と、おろおろするばかりのお父さんに向かって、きっぱりと宣言するお母さんの金切り声が今でもぼんやり耳に残っている。
おそらくお父さんは何度かお母さんを説得しようと試みたのだろう。でも、しょせん気の弱いお父さんが、あの強情で、頑固で、自分の世界にどっぷり浸っているお母さんを説き伏せられるはずがなく、仕方なくお母さん一人を都に残し、わたしたち子供と共に上総の国へ赴任することにお父さんはしたのである。
お母さんが来ない代わりに新しいお母さんがやって来た。それも子連れで。その継母、すなわち雅子お母さんはもともと宮中で働いていた人だったのだけど、夫に先立たれ、幼い子供を抱えて困っていたところ、世間によくいる世話焼き好きな誰かの紹介によって、ちょうど上総の国へ一緒に行ってくれる妻を探していたお父さんと結婚したわけである。
雅子お母さんは、美人で、聡明で、優しくて、わたしたちはすぐに仲良しになった。また、雅子お母さんの連れ子である健太を、わたしと敦子お姉ちゃんは実の弟のように可愛がった。まだ赤ちゃんだった健太は指なんかとても小さくて、瞳が透き通るようにきれいで、とにかく可愛くて仕方なかった。
都から上総の国へ向かう道中の事は、まだ小さかったせいかよく憶えていない。おそらく車の中でアサに抱かれて眠ってばかりいたのだと思う。ただ、現地へ到着した時のことは、はっきり憶えている。都を出発する前は、お母さんの言葉のせいもあって、上総の国というのはだだっ広い荒野が広がっているだけで何も無く、すっ裸の人間が穴ぐらの中で生活している、そんな未開の土地なのだろう・・・漠然とそう思っていた。ところが、いざ到着してみると、さすがに都に比べれば殺風景だけど、それでもちゃんとした家が建ち並び、ちゃんとした着物を着た人が住んでいる、ごく普通の町であることに、わたしはいささか拍子抜けし、かつまた安心した。
大勢の人たちが新しい国司であるお父さんを出迎えにやって来ていた。みんながお父さんに向かってペコペコ頭を下げていた。人の良いお父さんは、それらの人々に向かって、嬉しそうにねぎらいの言葉をかけていた。そんなお父さんの姿を見て、わたしたち子供はいささか鼻が高かった。




