月が綺麗ですね
満月の夜だった。
その月明かりに照らされて夜道を歩く二人の女性。片方は、ぼんやりと満月を見上げながらけだるげに歩いていた。
「ちょっとレイ! 聞いてるの!?」
そんな彼女に咎めるような視線を向けるのは隣にいるコートを着込んだ茶髪の少女。年齢は十代半ば、といったところで背丈も年相応にあるのだが……相手がいかんせんかなり長身のために見上げるようにして話しかけている。
「ああ、ゴメンね、フュー。それで、えっと……なんだっけ?」
話しかけられたことに遅れて気づいた黒いスーツを身に纏う長身の女性──レイは、下を向いてあいまいな笑みを返す。彼女は既に成人しておりその服装からもパッと見は仕事ができる大人、といった感じだが姿勢の悪さやボサボサの長髪を後ろで結わえただけの髪型などから彼女の本来の性質が垣間見える。
「だから名前で呼ばないでよ!? 『お嬢様』でしょ!? ……っていうか、ホントになんにも聞いてなかったの」
咎めるような視線を、もはや呆れを感じるものに変化させてため息をつくフュー。ただ目の前の『従者』が主人たる自分の呼び方を含め、これ以上なにか言ってもしょうがないのはここ数年の付き合いでよく分かっていた。レイの方も諦められているのを分かってるようで、申し訳なさそうにはしているものの反省の色は特には見えない。
「これから、仕事なんだからしっかりしてよね。レイがそんなんじゃ私まで舐められちゃうわ」
「いやーー、申し訳ない。月がすごく綺麗だったから……あれ、これって愛の告白になるんだっけ」
「? 何を素っ頓狂なことを言ってるの」
こてん、と可愛らしく首を傾げながら顔を覗き込んで来るフューに、レイは自分の失態を悟った。
「あぁ、いや、『私の世界』の言い回しなんだよ。とある小説家が『愛してる』を『月が綺麗ですね』と訳しておけ、って言ったエピソードから来てるんだけどね。割と有名で、告白の常套句かもしれない」
そう言いながら、レイはまるでここではないどこか遠くを見るように目を細める。ただそこに哀愁や憧憬といった感情は感じられず、ただただ遠くを見ているといった感じだ。
——あぁ、そういえば、あんな世界もあったっけ、と。
「……へぇ、素敵じゃない。私、好きよ、そういうの」
そんなレイの内心を知ってか知らずか優しく、ふわりと微笑んでそう返すフュー。彼女はレイの方は向かず真上に浮かぶ満月を見つめていた。
「そう? なんか、クサくない? 気障ったらしいというか……実際そんなふうに告白されたらドン引きでしょうに」
「それがいいんじゃない。告白とかプロポーズとかそういう一世一代のものはロマンチックすぎるくらいでちょうどいいのよ」
「え、ちょっと、何。私より年下の癖に偉そうに……もしかしてお嬢様はそういった経験がおありで???」
明らかにそうは思っていない小馬鹿にしたような表情を浮かべてフューを見下ろすレイの姿は、どう考えても主人に仕える従者のソレではないが、レイももうこの召使いの無礼には慣れたものでいちいち指摘したりはしない。
ただ、不満そうに頬を膨らませて複雑そうな感情の篭もった視線をレイに向けるだけだ。
「そんな訳ないじゃない……私はあなたに出会うまでまではすごい箱入り娘だったのよ? 知ってるでしょ? それに特務に入ってからは私に言い寄ってくる輩なんていないわよ」
「いやいや分かんないよ、ウチのお嬢様はドチャクソ美人なんだから……その内そういう機会が」
「もう、からかわないでくれる!? それより他にはそういう洒落た口説き文句みたいなのはないの? 私、もっと聞きたいわ」
期待に満ちた瞳で見上げてくるフューに、眉間のシワを深くするレイだが、フューはそんな彼女の様子を気にかけることもない。元はと言えばレイが異世界の話をしてしまったのが原因だ。結局、レイは深くため息をつきながらぽつぽつと語り出した。
「そもそもね、『月が綺麗ですね』には色んなバージョンがあってね」
「うん」
「例えば、『星が綺麗ですね』だったら『あなたは私の想いを知らないでしょうね』になるし、『夕日が綺麗ですね』は『あなたの気持ちを知りたい』になったりする訳よ。いや、まぁなんで夕日だったり星だったりかはアタシもいまいち分かんないけどさ、あと他には『海が綺麗ですね』っていういよいよ天体関係ないやつもあって」
徐々に——とても分かりにくい変化だが ——話しているうちに饒舌に、そしてまとう雰囲気が明るくなっている従者を見てフューは目を嬉しそうに細める。フューとしては確かに異世界の知識を得るのは昔からの楽しみの一つなのだが、それよりも自身の元の世界を語るレイのこの表情を見るのが何よりも嬉しい。だから、レイはフューが嫌そうな顔をしても何回でも異世界の話をしてくれ、と願うのだ。
「——後はもはや、絶対に気づけない『暖かいですね』『寒いですね』なんてのもあって……って、フュー、聞いてる?」
フューの意識が別の箇所に向けられていることを察したのか怪訝そうな表情でこちらを見やるレイに、フューはギュッと彼女の服の袖を掴みながら伏せ目がちに呟く。
「……聞いてるわよ。ただ、アンタの楽しそうな表情を見てると、その」
そう。フューはレイが元の世界の話を嬉しそうにするのが好きだ。でも。同時に悲しくも思う。だって、自分たちの仕事は——
「『殺したくなくなる?』」
胸の内をピタリと言い当てられて、フューは全身を震わせてきまりが悪そうに顔を更に俯かせる。そんな主人の様子を見やってレイは「はぁ」と音が聞こえそうな大きなため息をついた。
「また、いつものか」
「……ッ、いつものって何よ!?私はねぇ、本当の本当に」
従者のあんまりな物言いについ感情的になって、パッと顔を上げてレイを睨みつけるが、彼女はあくまでも平素の表情を崩していなかった。ただただ落ち着いた声色で語りかける。
「そういうのは屋敷の中でだけにする、って常々言ってるじゃん。どこで誰が何を聞いてるのかわかんないだよ?」
「……『壁に耳あり障子に目あり』ってやつ?」
「だから、そう言うのなんだけどね。フューが問題なのは。異世界人を殺すことを専門にする政府の特務機関の人間が異世界人の言葉を常用してるなんて知れどうなるか……」
本当にただただ心配だ、と気苦労伺わせるように首を振るフューにレイはいよいよ我慢ならなくなってきた。ぷう、っと頬が膨らんでふて腐れたような顔をしているのに彼女は気づいていない。
「いいじゃない、そのくらい」
「ん、まぁそうだね。でも」
物言いの割にあっさりとフューを肯定するレイになんだか拍子抜けするが、次の一言がフューを凍りつかせた。
「『殺したくない』は二度と言っちゃダメ」
「……ッ」
「それはあなたの、フューの在り方を根本的に揺るがす失言だよ。……ましてやこれから仕事なのに、そんな曖昧な気持ちを口に出すなんて」
レイの黒い瞳には感情が見て取れない。けれど、フューはそれが色々な感情を押し殺した末のものだと知っていた。基本的にこの従者は軽口なんかは絶えないものの、自分のことを最優先に考えてくれている。
——けれど、この件に関しては一度も引いてくれたことはない。
正論を言われて唇を噛んで黙るしかなくなったフューは自分が袖を掴んでいる相手と目を合わせることができない。そんな主人の様子をジッ、と見つめるレイはけれど今回は呆れたようにため息をつくことはなかった。
ただ、微笑を浮かべてボソリと呟く。
「……うん、でも、アンタはそれでいいんだよ。いや、それでこそだよ」
「?」
いつもだったらもう何回か来てるはずの正論の追撃がないことを不審がって、ようやく顔を上げたフューは優しく笑うレイと目が合った。
ドキリ、とその嬉しがってるような悲しがってるような何とも言えないその笑顔にフューの心拍数が上がる。
「ねぇ、フュー」
「な、なにかしら」
動揺を悟られまいとプイ、と顔を背けるフューに、しかしどこか遠くを見るようにして語りかけるレイ。
「フューは、どうして私たちを殺したくないの?」
「……それは」
これが普段自分に見せないレイの『弱い部分』なのだとフューは瞬時に悟った。心を封じ込め、わがままを言う自分を仕事に集中させようとする彼女の、たまにしか零れ落ちない弱い部分。それを分かった上で、フューはフッと不適に笑って強く言い放つ。
「それは、あなた達がすごい人達だからよ!」
「……」
フューの言葉に対して、レイは物言いたげな表情で押黙ってしまうがそれを見てもフューの不敵な笑みは崩れない。
「分かってるわよ。異世界人って出自が特別なだけで、私たちそのものが特別なわけじゃない、っていつもアナタ言ってるものね。でも、それでも特別に見えるのよ!アナタ達がもたらす知識や文化や、価値観は!『隣の芝生は青い』ってヤツかしら!」
微妙に使い方間違ってないか、とレイは眉を顰めるがフューはそんなのお構い無しだ。彼女の瞳はキラキラと輝いていて楽しくてしょうがない、といった感じだ。
「アナタ達異世界人とは仲良くしていきたいわ!それが多分この世界にとってもプラスになるって、私は信じてる」
ピタリ、と今まで1度も止めなかった足を止めてフューは1歩レイの前に出る。そうやって、クルリと振り返ってフューと向き合う形になった。不安げに揺れるレイの瞳とは対照的にフューの双眸には強い意志がやどっていた。
「私たちが……この世界を大きく歪めるとしても?」
「ええ——この世界はアナタたちを排斥するほど小さくなんてないわ」
異世界人の存在は世界の形を大きく歪める。
そこには数々の悲劇が伴うことを、異世界人を排除することを生業とするレイが1番よく分かっているハズだった。
けれども、彼女は折れたりしない。
その事を改めて再確認した従者は、満足気に微笑む。
「荒唐無稽だ」
「うん」
「夢物語だよ」
「ええ」
「絵に描いた餅になるよ」
「うん……って、その言い回しは知らないわね、い
や、何となくの意味は想像つくけど」
さっきまでの堂々たる風格はどこへやら、新しい言葉に興味津々といった自分の主人にレイは内心で幾度となく暖めた思いを反芻するのだった。
——ああ、このひとについてきて良かった、と。
「でも」
「?」
向き合うのをやめて隣に並び再び歩き始めたフューに、レイは忘れないようにと付け加える。
「もしも、アナタのその絶対に叶わない夢が叶ったら」
「叶うわよ」
「もしも、叶ったら」
不満げにレイを睨みつけるフューを無視して、レイは満月を見上げながら歌うように話を続ける。
「もしも叶えられたら……ちゃんと、私を殺してね」
「……」
背が低いフューの側からは上を向くレイの表情は読み取れない。ただ、多分笑っているんだろうな、とレイはぼんやり思った。
『不死』の天恵を女神から授かった異世界人——それがレイの、いや延命寺零の正体だった。この従者はずっとずっと死を願っている。それは、フューがあの湿った地下牢で出会った時からなんら変わっていないことだった。
「フュー?」
返事がないことを不審がったレイが再び視線を下に戻す。そんな彼女の表情は既にいつものフューに見せるものに戻っていた。だから、フューもふぅ、と息を一つ吐いていつもの調子に戻る。
「いやよ、絶対にいや」
「ええ!?あの時の約束は!?」
「反故よ、反故!諦めなさい」
「そんなぁ……」
がっくり、と肩を落とすレイを見て笑うフューだが、胸中では分かっている。——レイは多分自分の夢が叶ったら勝手に死んでしまうだろう。たとえ、どんな手段を使っても。
(絶対に、死なせたりしないんだから)
そうやって再び胸にそんな思いを刻みつけながらフューは従者との軽口を続行する。
そんなフューの想いを察したかどうかは分からないが、レイはふっと軽く微笑んで自分の主人を見やった。
(絶対に死なせたりしない、って顔だなぁ。うーん、どうしたものか)
ちぐはぐな想いを抱えた2人が満月に照らされて歩いていく。
目的地はもうすぐだ。
まだ夜は長い。