救われるべくは
Twitterにて主催した企画「#紡いだ糸の果て」で書いた掌編です。
企画に載せた物よりちょっと長いです。
殺せ、殺せ、と声がする。
背負った蝉の声と自分の心臓がとても煩い。このまま鼓膜まで破けてしまいそうだ。
汗ばんで湿った人差し指を目の前のインターホンに向ける。すぐ上の表札を確認。
数分前に見た入り口すぐの集合ポスト。見知った名前。503。503。君はまだここに居る?
五階まで上がって、みっつめの部屋。合っている。503。彼女の苗字。
伸ばした指が震えているのが見えた。
落ち着こう。と、リュックの中身を思い返す。新しく買った包丁。ロープにノコギリ念のための軍手。たくさんのタオル。
大丈夫。きっとなんとかなる。何も考えていないけれど、きっとなんとか、
「きみのじんせいをとりかえさなくちゃ」
突然はっきり声が聞こえた気がして反射的に振り返った。
アパートの中庭には小さな樹。誰もおらず、さっきまでと変わらずただ蝉が鳴いていた。
「げんきょうのあのこをころさなくちゃ」
「きみのじんせいをだいなしにしたんだ」
「あのこがしんだらきっとかわれる」
「きみはすばらしいひとになれるよ」
折り重なって歌うように蝉が叫ぶ。殺せ殺せと声がする。
改めてボタンを押そうとして、そして、指を下ろした。
憎むべき人間がいる。
彼女と出逢ってさえいなければ、彼女がこの世にいなければ、僕の人生はもう少しまともだったはずだ。
これは単なる逆恨みだろうか?
そうかもしれない。そんなことはどうだっていい。
十三年前の春先、僕は彼女に裏切られたのだ。
彼女とはなにも付き合っていたわけではなくて、ただの友人だったけれど。
それにあの頃はまだ幼くて、彼女もきっと同じで。あれは他愛のないありふれた、子供の世界の何気ない出来事のひとつだった。
それでも充分痛ましく。
あれから十年以上が過ぎた今でも僕は彼女を恨んでいる。
あんなことさえなければもっと幸せになれたはずだ。
彼女さえいなければあんなことは起こり得なかった。
...なら今からでも、彼女をこの手で消してしまえば僕は変われるんじゃないのか?
そう思うまでに時間はかからなくて、気付けば僕は人殺しの算段を立てていた。
いや。算段なんて立派なものではない。なにしろ僕は、彼女の現在のことも何ひとつ知らないのだから。
あれがあって学校を卒業して以来、彼女とは連絡すらとっていなかった。
だから実家の場所しか知らないし、今もまだそこに住んでいるかだって分からない。
そこでとりあえず行ってみることにしたのだ。僕はあの頃から一歩も進めないで、今でもすぐ側に住んでいたから。
新品の包丁やロープ、使うかも分からないタオルに軍手などなど。人を殺すのにおよそ必要がありそうなものを思いつくままリュックに詰め込んで、彼女の家へ急いだ。
僕が生まれ変わるためだ。多少の犠牲は仕方ない。死ぬのは彼女ひとりで充分だから。
これが僕が立てた人殺しの[算段]。結局インターホンを押すこともできずに失敗したけれど。
どうして所在を確認することさえ出来なかったのだろう?なぜ僕は押せなかったのだろう?
怖気づいたのか。自分をこんな風にした者にさえ、何も出来ないほどに。
本当は知っている。何もかもが彼女のせいではないことを。
人を信じることが出来ないのも、学校でうまくいかなかったのも、恋人も出来ずに家族にさえ疎まれていることだって、彼女のせいではないのだ。
確かにあの時、子供らしい小さな裏切りはしたかもしれない。それが僕の中にわだかまっていることも事実だ。
けれどそれだけが全てではないことを、本当は知っている。
「でも、ころしたいんでしょ?」
窓の外からまた蝉の声がする。これが僕の内にだけ響く声であることも、解っているのに。
「だって、ころしたいんでしょ?」
あの子のせいだよ。あの子のせいにしてしまえばいいんだよ。そうすれば楽になれるよ。
蝉の声が耳の中で歪む。殺せ、殺せと声がする。
...そうだろうか。彼女を殺したら、彼女をこの手で消してしまったら、僕は幸せになれるだろうか。
今の生活から抜け出して、過去のトラウマからも逃げ切って、一般的で普遍的な幸福を得られるだろうか。
「僕は」
今からでも彼女さえいなくなれば。
「幸せになれるかな?」
呟いた独り言に、蝉の声は応えない。
お前の返事なんて要らない。自分の幸せのために何をするべきなのかは、もう見つかったよ。
床に転がっていた携帯電話を手に取った。懐かしい旧友の名前を呼び出す。
僕が持つ唯一の、君に繋がるための名前。
ただひとり携帯に残っていた当時の同級生から辿って辿って、ようやく彼女まで行き着いた。
そこに至るまでは、十年以上経ってから連絡を取ろうとする僕を多少不審がる人間もいたけれど、当の本人はまるで気にしていないみたいだった。「久しぶりだねー」なんて言って。
それはつまり、彼女はもうあれのことなんて忘れているということなのだろう。
そう気付いた瞬間胸の中のわだかまりが大きくなるのを感じたけれど、そのまま彼女との待ち合わせ場所へ向かった。今このモヤモヤを消してしまう必要はない。
彼女が指定してきたのは地元の公園だった。本人はもう家を出ているらしい。
ならあの時インターホンを押せていたとしても君はいなかったのか、と思った。
もうすぐ秋になるということを告げるような風が吹いていた。少しだけひんやりとして、少しだけ湿って。
蝉は鳴いていない。代わりに、遊歩道の端で潰れているのを見た。
「ごめんね、少し遅れちゃったかな。」
約束のベンチで待っていると、頭上から降り注ぐ声。顔を上げたら君が立っていた。
あの頃の面影がある快活な表情。はっきりとした目鼻立ち。言い澱むことなど何もない、その口。
「五分だけ。久しぶり。」
見上げたまま言う僕に少しだけ笑って、「いい?」と隣に座った。
十三年前と変わらない。けれど、僕らはちょっとだけ大きくなった。
「すごい荷物だね?」
背中のリュックを指して君が訊ねる。うん、ちょっと、と返事を濁した。
「...あのさ」
本題を待っていたらしい彼女がこちらを向くのが分かった。僕はそちらを見ない。
「昔、僕ら、仲...良かっただろう?よく一緒に遊んでたし...。」
うん、と控えめな返事が聞こえた。全く忘れているというわけではないようだ。
「でもその、卒業式の前の時期、急に...」
「だって男の子とばっかり仲が良いなんて変だって。」
遮られて飛び出した彼女の言葉に、思わず横を見る。え、と声が漏れた。
「男の子とばっかり遊んでるのおかしいって言われたの。友達に。今になってみれば関係ないって思うけど、小学生の時なんて、そういうの気にするでしょう?」
だから、とそのまま続けようとして、何かに気が付いたような顔で僕を見た。
「...わざわざ、そのことを?」
そうだよ。僕は君に突然拒絶されたあの日から十三年間、君を恨み続けてきたんだ。
「そのことを、そんなことを今更、確認しようとしたの?」
「そんなことのために、わざわざ何年も経って、何人も連絡を取って?」
そこまで言って、君は耐えられないとでもいうみたいにふきだした。大きな笑い声が公園に響く。
「そんなに笑わなくたっていいだろう。くだらないことだけれど、一応、気にはしていたんだ。」
引きつった笑顔で僕も応える。潰れていたはずの蝉から、殺せと聞こえた気がした。
「ごめん。そっか。そんなこと気にしてたんだ。ごめんね。」
まだ笑ったまま謝る彼女を真っ直ぐ見ながら、僕は切り出す。
「...本題はここからなんだ。」
ベンチから離れて、ふたりで並んで歩いた。
君はしばらく可笑しそうにしていて、僕はその様子をただ見ていたように思う。
歩いている間僕が考えていたのは、君が死んでいく様だ。
首を絞められる君がいた。
泡を吹いた君がいた。
真っ赤な血を噴き出す君がいた。
ぺしゃんこに潰れた君がいた。
泣いている君がいた。
それら全てを、すっきりした表情で見つめている僕がいた。
自分の幸せが形作られていくのを見ていた。
そんなことで、頭がいっぱいだった。
やがて目的の場所に辿り着く。
「...ここってこんな場所があったの?」
隣で驚いたように言う君に、
「子供の頃は、近寄っちゃいけませんって言われてただろう。」
辿り着いた目的地。目の前の花畑。彼岸花の群生。
「言われてた。なんでかは分からなかったけど...。すごいね、こんな風になってたんだ!」
感動する君を横目に僕は言う。今日の本題。十三年越しの、僕の望み。
「ここで写真を撮らせてくれないかな。君の。」
本当にやるの?と照れ笑いをしながら、君は彼岸花の中に横たわる。花を踏まないようそっと掻き分けて。
そうだ。君はそういう人だった。花が好きで動物が好きで、優しい人だった。きっと少し、素直すぎただけだ。その素直さが誰かを傷つけるかもしれないことすら、まだ知らない。
本当にやるよ。とリュックからカメラ機材を取り出す。小さな三脚まで持ってきたせいで嵩張ってしまっている。
僕はさ。君を殺すことにしたんだ。
試しにシャッターを切りながら、心の中で話し掛けた。落ち着かず、所在無さげな君の顔。
たぶん君が大切だった。幼くても信じていた。だから、あんな小さな拒絶を裏切りだと思ったんだ。
僕はそれがとにかく悲しくて、寂しくて、君が恋しかった。
今でも人の腹の裡が怖いよ。みんな何を考えているのか分からない。
だってあの時の君だって、それまではそんな素振り、なかったんだ。
全部君のせいだと思った。君のせいにしたかった。その方が楽だったから。
君のせいにして君を恨んでいれば、僕は僕に目を向けずに済んだ。
でもさ、きっとそれじゃ駄目だから。僕はいつまで経ってもこのままだから。
だから君を殺すことにしたんだよ。
「笑って。」
赤に埋もれる君に言う。笑って。死の中で笑って。
どうして昔ここに来るのを禁止されていたか、知らないって言ったよね。
彼岸花は不吉なんだ。死の花だから。
花にも茎にも葉にも毒だってある。それで、近寄っちゃいけないって言われてたんだ。
そこに君は今横たわっている。死に埋もれて笑っている。
でもこれじゃあ、人間の息の根は止まらないだろうなぁ。
「そういえばさ。写真に撮られると魂を吸い取られるって、言うよね。」
カメラを構えたまま少しだけ声を張り上げる。君は笑顔を更に深めて声を上げた。
「そんなの迷信に決まってるじゃない。それが本当なら私、ここで死んじゃうわ。」
そうだよね。それってきっと、良くないんだろうな。
それからは話しかけることも君の言葉に応えることもないままシャッターを切り続けた。
死に囲まれた、憎たらしい君の、笑顔を写真におさめていく。
僕自身の幸せのために。
ねぇ。君の命、僕に頂戴。
「またそのうち会おうよ。今度は飲みにでも行かない?」
帰り際、楽しそうに君が言った。うん、じゃあまた連絡するね、と別れた。
もう会うつもりなんてなかったけれど。
だってカメラのシャッターを切ったあの瞬間、君は死んだんだよ。
撮ったばかりの写真を現像しに向かう。道すがら、歩きながら携帯のメモリーを削除した。
家に帰って、何十枚と写真の入った封筒をベッドの上に放り投げた。少しだけ中身が飛び出た。
手を洗って顔を洗って鏡を見る。十三年前から時が止まった僕と目があった。
現像したての君を一枚一枚丁寧に眺める。この中から一番いいものを探さなくてはならない。
まだ夕暮れ前だった空が真っ黒になる頃、ようやく一枚を選び出した。
それじゃあ、これで。
用意していた写真立てにそれをおさめた。飾り気のない黒縁。
「遺影みたいだね。」
秋になってしまったから、独り言に応えてくれる蝉はいない。
でももういいんだ。幸せになるための方法は見つけたから。
その日は、翌日が綺麗に晴れることを祈りながら眠った。
願った通りの快晴で、青い空に秋の雲が流れていた。心なしか空が高く遠く見える。
何故だろう?いつもより空は近いはずなのに。
眼下を眺めながら考えた。考えても分からないし、どうでもいいけれど。
手には君の写真だけ持って、落とさないようにゆっくり柵を越えた。
「火葬しようかと思ったんだ。」
そのままの場所で、黒縁の君に話しかける。ビル風の音が酷い。自分の声すら聞こえにくい。
「火葬の国だから燃やすのがいいかとも考えたんだけれど...そうしたところでやっぱり、実際に君が死ぬわけじゃないもんな。」
彼岸花の中で笑っている。
本当に魂を吸い取られるならここで死んじゃう、と笑っていた瞬間の表情。
それが迷信ではなく現実だったならどんなに良かったことか。
「結局僕は弱いんだ。あの日ひとりぼっちになったのが今でも辛くて、でも、君に復讐することも出来ないんだ。」
だからせめて死に囲まれた君の魂を写真におさめて、それですっきりするんじゃないかなんて。
「...甘かったなぁ。」
でももう、辛くて。過去に固執して君を恨むのも周囲を疑い続けることももう、疲れて。
気が付けば僕は写真を抱き締めて泣いていた。温かかった涙は風で冷えてすぐに消えた。
「好きだったんだ。君が。あの時も今も、ずっと、好きだったんだよ。」
最期に会ったのは君だから、連絡くらい届くだろうか。携帯のメモリーは消してしまったけれど。
僕のことを知ったらどう思うだろう。君の写真を抱いていたと知ったらどう思うだろう。
気持ち悪いかな。
あの日のこと、後悔してはくれないかな。
僕のこと一生、忘れられずに。生きては、くれないかな。
「...それで、飛び降りた?」
「はい。」
「もう少し高かったら本当に死んでいたよ。まぁ死ぬ気だった、んだろうけれど...」
それからひと言ふた言話して、それじゃあまた明日ね、と白衣が消えていく。
残ったのは痛む身体と、ぐるぐる巻きの手脚、消音のテレビ。
僕だけ。ここに、僕だけ。
僕は死ぬことにさえ失敗して、こうして助かってしまった。
倒れていた傍らには粉々になった写真立てが落ちていた。訊ねられて、要らないと答えた。
両親は実家から飛んできてくれた。父親には叱られ、母親には泣かれた。ごめんなさい、と言った。
この死に損ないが
君は来なかった。写真の件もある。連絡は届いているだろう。
けれど、君は来ない。
「恨んで殺すことも出来ずに、消化することも出来ずに、死ぬことも出来ない。なんて」
言葉はそこで途切れた。
僕、生かされてしまったよ。
僕の命は救われてしまったよ。
どうしてかな。どうしてかな。これはそんなに、大切なもの?