六話 『 大きな亀 』
さて、ならばなぜ、とある山村近くで飼われている牝牛が『私はただの牛ではない』なんて考えるのかと言えば、もちろん理由がある。
マルコから数えて四代前の飼い主からつけられた『ミルク』という名前も『ミイ姉さん』と敬称がついて早十年弱を数えても、彼女の出す乳の味に何の陰りはなく、それどころか牛という生き物の寿命から考えればそれこそ妖怪か物の怪かという年齢にもかかわらず病気の一つもしない上に、一般的なホルスタイン種と比べて自身の体も非常識に大きい、という理由が。
だけど、どうして自分はこんな体なのか? ということは彼女自身にだって分かっていない。
けれど、そんなこと分からなくたって何一つ困りはしないのだ。自分が牛で、どんな理由で飼われているのかさえ分かっていれば生きることに懊悩なんてないのだ。雨風をしのぐ場所があって、毎日食事にもありつける。欲を言えば目鼻立ちの整った牡牛の一頭もいれば生活に張りと潤いが出るとは思うが、それは贅沢というもの。そもそも、自分という不思議な体質と体の大きさに見合う相手がいるなんて考えられないわよ……と、彼女は牧草を奥歯ですりつぶす。
(そうね……多くは望まないけれど、生涯を連れ添ってくれる相手でなければね。まあ私があとどれくらいを生きるのかわからないから、何とも言えないのだけれど)
もふぅ、とため息に似た何かを鼻から抜いて、彼女は牧草をのそのそと食べ歩く。時たま背中に乗る小鳥の世間話に耳を傾けたり、牧場の横を走る道に顔を出す狐の親子と挨拶を交わしたりして過ごす彼女は、(そう言えば……)と思い出すことがあった。
(背中のシマエナガ達が言ってた、道で寝てる大きな亀、って何だったのかしら)
もしゃもしゃと牧草をかみながら地面から鼻先を上げる。視線が流れるのは牧場横の道だ。牧場と森とが区切れる、シマナガエ達が話していた大きな亀を見かかけた所まで百数十メートルほど。
(……、…………)
もふぅ、と彼女は迷う。牛という動物の性質なのか、それとも人の営みを四代も見続けるほどの長命だからか、好奇心が多少くすぐられても足を動かすまでに至らない。
太陽の位置を見て時を知り、トラブルでもなければあと四半刻も掛からずにマルコが帰ってくると考え、足元で跳ねる虫を見つめて、もう一度くだんの場所に視線を投げる。
(面倒だけど、でも……なんだか気になるのよねぇ)
尻尾が左右に振れて、そわそわしてくる自分の気持ちを自覚する彼女。けれど、それでも直ぐに足が動き出すことはなく、やっと動き出すのに数分の時間がかかるのは、自分が牛だからか、それとも性格のせいなのかと僅か思案しながらのっそりと歩き出した。
徐々に見えてくる物を率直に言ってみれば「亀」ではなかった。
(まあ、空の上からあれを見ればそう見えるのかもしれないけれどねぇ)
彼女の視線の先にあるそれは、布製で小物入れが複数個ついた袋状の物体。それが道に落ちている。リュックサックやバックパックといった物の様に見えるが、それにしては些かサイズがおかしい。大きすぎる。体の大きな男性が背負ってもまだ大きいほどだ。
(昔は行商人があんな風な大きなリュックを背負って町から町へと商品を売り歩いていたのを知っているけど、今はもっと楽に多くの品物を運べるようになっているし……と言うよりも、あれの持ち主はどこへ行ったのかしら?)
彼女はゆっくりと歩を進めながらリュックの付近を眺める。
移動に邪魔になったから捨てて行ったのかと考えても、ここからなら十分もかからずに二ペソ村なのだから、万一何かのトラブルで置いて行ったとしても誰かが取りに来ているはずと思い直す。
(この辺りは巨猪の山主様に代替わりしてから人を襲う獣もいなくなっているんだもの、荷物を放ってまでにげ出すことなんてないはず ―― あら?)
のんびり歩くこと数分。彼女は牧場と道とを隔てる柵に近づくと、そこではたと気が付いた。
(これは……)
彼女の目に映る大きなリュックの、さらに下。
巨大と言って差し支えないリュックと地面の間に、それはいた。
(どうして、こんな子供が……?)
彼女は驚いた。
体の大きな男性が背負ってもまだ大きいリュックに子供が押しつぶされていることに――。
ではなく。
オーバーオールと言われる人間の服を着た、
自分と同じ種族の子供がリュックを背負った状態のままで、
その荷物に押しつぶされて気を失っていることに、驚いたのであった。
次回 「 ルチル驚愕す! 」