十四話 『 形のない恐怖 』
二ペソの山々を揺らす轟音が響きわたる。
樹々をなぎ倒し、土砂を押し流す、圧倒的な激流が大地を削っていく。
その前を走るルチルたちとの差は五分程度の距離が開いているとはいえ、山の上での大きな水の流れは驚くほど速い。鉄砲水に巻き込まれてしまう人間がいるように、水流は時に数十キロの速度を出すことがある。もっと急がないと村の人間の避難が間に合わないかもしれない。
そう言ってミイ姉さんや山ヌシを更に急かすのは、地元が水の都と呼ばれるような街に生まれたルチルだった。
『ヤバいですマズいです怖いですぅ! 何ですかあの水量はっ、完全に村を流しに来てるじゃないですか! ミルク姉さーんっ!』
『ああもう、走りながら泣くんじゃないのっ。涙で足の置き場所が狂ったら転んじゃうわよ。それに――』
ミイ姉さんは少し後ろを振り向いて疑問を口にする。
『すごい水の量だって言うのは分かるけれどね、あのくらいなら二ペソが沈むってことはないんじゃないかしら?』
『ミルク姉さん、沈むって言っても、お家が屋根まで水に浸かることなんて海辺の災害か、人がダムを造るときくらいしかないんです!』
『なら、こんなに急がなくても二ペソは大丈夫なんじゃないの?』
その質問にルチルは下草に隠れた石をよけながら答えた。
『えーっと、あたしも詳しいことは分からないんでざっとした説明になるんですけど、水って重いんです。重いってことは力があるってことなんです。例えばマルコ君が毎朝ミルク姉さんのお乳を搾ってブリキ缶に入れて運んでるじゃないですか、その時、マルコ君はお乳の重さを感じてるはずですよね』
『そうね、車軸の曲がったあの荷車じゃ大変そうなくらいは、重いはずね』
『その重さをもっともっと重くして、マルコ君が引くんじゃなくて、逆にマルコ君を引っ張るって考えればわかりやすいかもしれません。ブリキ缶がたくさん載っている荷車を引いて坂道に差し掛かった時、何かの拍子に引く力が弱まったら、逆にマルコ君がミルク姉さんのお乳の重さに引っ張られちゃいます。そのマルコ君を引っ張る力が、お乳の重さ、なんです』
ルチルは言いながら、だんだんと慣れてきた全速力の山下りで邪魔な木の枝を潜り抜けるように躱して続ける。
『お乳っていう形のないものに重さがあるって分かれば後は簡単で、それをお水に置き換えればいいんです。ブリキ缶数本だけで、マルコ君が引っ張るのに大変な思いをしている。それが、後ろのあの量になったら? 考えるまでもなく、すごい力になりますよね。それこそ、山ヌシ様が百人集まって体当たりするよりもっとすごい力が、後ろを駆け下る水にはあるってことです。そんな力を持った水が二ペソの村を襲ったら、家どころか、アニールが毎日一生懸命手入れしてる果樹園だって丸ごと流されちゃいますよーぅ!』
『……、それは大変ね。山ヌシ様が百も集まって、さらにって。考えたくもないわ』
『そうだな。俺が百か……気持ちのいい絵面ではないな』
『って、別のこと考えてませんか、山ヌシ様……?』
ミイ姉さんも山ヌシもルチルからの言葉を受けて、さらに気持ちを前に前にと持っていく。
背後、山の上では今も竜神が天に伸びるような光景が水柱としてそそり立っており、山を揺らす地鳴りとともに激流が下ってきてもいる。それこそ、一分一秒を争い村に着かなければ文字通り『二ペソが沈む』。
ルチルは、体が大きいのに何でこんなに早く山を下れるのか分からない二人に懸命について行きながら、祈る気持ちで二ペソの事を考えていた。
(あたしは二ペソの事をほとんど知らない。本当を言えばマルコ君やアニールのことだって全然分かってない。けど、あたしは二人が二ペソで幸せに暮らしていることを知ってるよ! 毎朝頑張ってミルクを売り歩くマルコ君も、毎日村の一員として果樹園で汗を流したり時に村長の顔を見せたりしながらマルコ君の事を思っているアニールも、すごく良い顔で笑ってた! たった数日だけだけど、村の人たちと一緒に暮らす二人を見て、ああこの村はとってもいい土地なんだなって、あたしにも分かるくらい二ペソは幸せが似合う村なんだ――なのに!)
弩級の災害が今、迫っている。
ルチルは水の都と呼ばれる故郷での知識を頭の中に引っ張り出す。何をどうすれば二ペソ村の人たちを助けられるのか、何をどうしてしまうと助けられないのか。
一番いいのは山の上からの水がぱっと消えてなくなることだ。
けど、そんな魔法の様な事など起きるはずがない。
下ってくる水は激流と言える水量と、山の勾配で加算された速さを持っていて、実のところ二ペソに間に合っても数百人いる村人たちを全員避難できるか分からない。
(ううん、違う、そうじゃない! 水がどこを流れるか、どの範囲を押し流すのかさえ分かれば避難はそう難しく――――ッ)
そう考えてルチルは歯噛みする。
水は形のない凶器だ。山の上にあるときは水の流れる範囲が狭くても、下流に行くにつれて扇状に広がってしまう。普通の(と言っていいか分からないが)鉄砲水なら、下れば下るほど、川幅が広がれば広がるほど流れの勢いは緩くなり、それほどの脅威ではなくなるが、今のこれはそんなことに頼っていたのでは村一つ壊滅する規模だ。樹々を飲み込んで土砂を含んだ激流は、それこそ山という大きな存在の姿を変えるほどの力を蓄えてすべてを押しつぶしていく――まさに祟りの一つ。
(そんな祟りに、あたしみたいなのがたてつくこと考えちゃいけないのかな……おばあちゃんも言っていたよね、『自然の神様とけんかしちゃなんねぇ』って……)
でも、それでもルチルは首を振った。助けたいものがある。どんな無茶をしても守りたい笑顔がある。
ルチルはあちこちから飛び出ている木の枝や、下草に隠れているだろう邪魔な石を避けながら、走る足を止めない。
(ううん! おばあちゃんはこうも言ってたよ、『自然の神様とは一緒に暮らしていくんだ』って! だったら、こんなピンチだってどうにかなるよ! どうにかするよ、あたし達が!)
そうして駆け抜けた先、一気に空間が広がった――。
次回 「 不撓不屈 」




